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第四幕 十六、飢えと慕情⑧
《猛烈な勢力のまま北上を続ける大型台風二十号は、現在、伊豆諸島の八丈島近海を通過中で、明日の深夜二時から三時頃にかけて、東京都心に最も接近する見込みです》
日の落ちた部屋の中、景虎の横顔がテレビの光の色を淡く映していた。刺青の胸に頬を乗せたまま、庄助はぼんやりとテレビを眺めている。二人ともこれ以上ないほどに疲れ果てていて、指一つ動かすことすら億劫だった。
画面では男のアナウンサーが、暴風圏の海岸沿いに立っている。横殴りの雨をレモンイエローのレインコートを纏った全身で受けながら、必死に状況を伝えていた。
台風と聞いて、庄助は外の音に耳を澄ませたが、通りからは行き過ぎる若者たちの突拍子もない笑い声がたまに聞こえてくるだけで、いつもと変わらず平和なものだった。
「台風くるんやて」
「ああ」
「直撃したら会社休みになるかも!」
「なるわけないだろ。風で飛んできた看板が背中に刺さったので病院に行きます。そう報告したとしても、国枝さんは『そっか~何時に来れる?』って言う人だ」
容易に想像できて、庄助は声を立てて笑った。早くも笑う余裕が出てきたことが、なんとなく申し訳なかった。
「……俺に、聞きたいことがあるんじゃなかったのか?」
真面目に答える気があるのかないのか、景虎が庄助に尋ねる。庄助は景虎の胸筋に顔をぐしぐしと擦り付けると、口を尖らせた。
「いや、そりゃ兄ちゃんのこととかちゃんと聞きたいけどよ……疲れとんねん、頭が回らん。こういうのは、鮮度が大事でやな……なんかもうええかなってなってきた」
「……そうか」
景虎も同じ気持ちだった。二人の時間に、あまり仕事の話はしたくなかった。庄助の頭をぽんぽんと撫でると、額に一つキスを落とした。
「悪くないじゃないか、新居も」
「そらお前、可愛い庄助くんが隣におるからやろ」
「そうだ。よくわかったな」
冗談の応酬に、顔が綻ぶ。こんなふうに何でもないことで笑い合うのが、随分久しぶりのような気がしていた。
二人でじゃれて微笑み合う、その合間にキスをする。それだけのために使う時間は、とても贅沢に思えた。
「とりあえず一回寝て、ほんで食いに行こ、なんか。俺、甘い物食いたい。昔ながらの喫茶店にあるような、ぺちゃんこのホットケーキがええな~。バターとシロップたっぷりの」
ちらりと窓の方を見る。カーテンの隙間から、夜の紫と夕の橙の輪郭が、手を繋ぐように混じり合った空の果てが滲んでいる。テレビがCMに切り替わり、キャッチーな流行の曲が流れ出した。庄助が一緒に歌う。景虎も聴いたことがあるメロディーを、胸の上で楽しげに。まるで日常が取り戻されたようだった。
怠い身体の芯に蝋燭の火が灯るような、ありがちな言葉で言うなればそれは、幸せという感情だった。誰かのそばにいて言葉を交わすのがこんなに幸せだなんて、昔の景虎には信じられなかった。
「だれかにとられるくらいなら、かみつぶしてつちにうめてかくしてしまおうか……」
かつて母が読んでくれた本の一節が蘇ってきて、何気なく口をついたその言葉に、庄助は目を丸くした。
「知ってる。それ……なんやっけ、絵本やんな?」
「え……」
まさかの反応に、景虎も驚いた声を返した。庄助は裸のままベッドに身を起こす。
「幼稚園に置いてたやつ、読んだことある。虎の絵がかっこええから好きやったんやけど、子供の読む絵本としては内容がエグいからって、途中でなくなってもーたやつや。思い出した」
小さい頃の記憶の蓋が開いたのか、庄助は嬉しそうな声で言った。
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