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第四幕 十六、飢えと慕情⑨

「きみがだれかに食われるまえに……」  景虎が目を伏せてそう呟くと、庄助はパンと両手を叩いた。 「それや! 『きみがだれかに食われるまえに』や。はは、大人になってから考えたら、確かに絵本のタイトルとしてはエグいかもな。カゲも読んだことあるん?」 「ああ。小さい頃家にあって、母さんに……よく読んでもらった」 「……そっかぁ。カゲのオカンのチョイス、なかなか渋い」  膝を抱えて小さく笑う庄助の頬に、鈍い夜の闇が落ちてくる。景虎の髪に手のひらを伸ばして、梳くように撫でた。 《首都圏では今後、広範囲で大規模停電の発生が懸念されます。古い建物や、川沿いの低地にお住まいの方々は……》  CMが明けると、ニュースは中継からスタジオに切り替わり、真面目くさった表情の派手な女が先ほどの情報の続きを喋っている。  嵐が来る。本格的で大きな嵐が、逸れることなく。 「あ……わかった。悪魔は望むものの願い通りに姿を変えるって、この話やったんや」  庄助はハッとして口に出した。一昨日の夜の埠頭で、あのオウムのお面をかぶった男が口に出した言葉。悪魔が姿を変えるというのは、もしかしたら世界的な通説なのかもしれないが、この絵本の中でも語られていた。  庄助の記憶違いでなければ、虎の願いは、悪魔を自分と同じ虎へと変えることだった。そうすれば、ずっと一緒にいられるからと。その願いに呼応して、悪魔は虎へと姿を変えた。  それで、どうなったんやっけ?  幼稚園の頃の庄助は文字をあまり読めなかったから、前半のページを読むだけで多大な労力を要した。ただでさえ飽きっぽい彼は、いつも決まって後半にさしかかる頃には集中力が散漫になり、園庭で遊ぶ友達のもとへ走って行ってしまっていた。なんとなくそんな憶えがある。  どうしても、ストーリーの結末がどうなるのか思い出せなかった。 「なあ、この話の最後って……」  ふと振り向いた耳に寝息。景虎は目を閉じて、すでに眠りの中にいた。 「カゲ」  景虎の寝姿は不安になる。彼はほとんどいびきをかかないし、もともと色白な上に皮下の血液の青みがよく見えるので、死人のように見える時がある。息をしているか、胸が上下しているか、都度確認しているこちらの身にもなってほしい。  が、景虎の寝顔を見ていると、そんな事はどうでもよくなってくる。普段は全方位に気を張っている彼が、自分に気を許しリラックスして眠っている。庄助は実物を見たことがないからこれは単なるイメージだが、眠っている景虎は、宗教画の天使や聖母のようだと思う。実際は凶暴な変態ヤクザなのに。  なんだ。初めから、こうして頼っていればよかった。庄助は肩の力が抜ける思いだった。  馬鹿みたいだけれど、景虎と言葉を交わし肌に触れると、妙に頭がはっきりする。  迷いや恐れの最中にあっても、自分の成すべきことがなんなのか。全てを照らすわけではない夜の海の灯台のごとく、庄助にとって正しい場所がどこなのか、それだけをぼんやりと映し出してくれる。  波にさらわれて上下の感覚がなくなっても、暗い彼方の光だけは見えている。辿り着くべき場所は、そこしかないのだ。 「……大役かぁ」  音揃との約束を噛み締める。彼は庄助に教えてくれた。死ぬことはちゃんと怖いことだと。怖さは克服なんてしなくていい。今自分が何を恐れているのか、自覚だけはしろ、と。  実践できるかは別として、普段は平和な日本を離れ、戦地で暮らしている音揃らしいいい言葉だと思う。  腕を伸ばして、カーテンの隙間から外を覗くと、酔っ払った女の笑い声が聞こえた。  繁華街の外れの新居の外は、華やかさと汚さ、新も旧もごった煮にしたようで、庄助のよく遊んでいた大阪のミナミによく似ている。  はやく二人の巣のようなあの景虎のアパートに帰り着きたくて、心がはやる。  落ち着いて、暗中の光を探すのだ。なにをすべきか、なにをすべきでないか。  充電ケーブルに挿していたスマホを手に取ると、庄助は『きみがだれかに食われるまえに 結末』と検索した。  画面に表示された数行のテキストに、庄助は目を見開き、深く嘆息した。

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