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【番外編】曇天に春猫
株式会社ユニバーサルインテリアは本日も平和だ。
今夜、雪が降るという予報を疑う余地もないほどに、外は厳しい寒さだが、午後の日差しの降り注ぐ室内は暖かい。油断すると眠気が瞼に取り憑いて、ずしりと重くなる。
国枝が自分のデスクであくびを噛み殺していると、エレベーターから事務所の前のドアまでの短い距離を、ドタドタと走ってくる騒がしい音がした。
「ねこ! ねこいます!」
足音の主はドアを勢いよく開けて、何やら必死そうな顔で訴えかける。外気の寒さでピンク色に染まった頬に、金色の髪の房が落ちている。
何事かと不審な顔をする国枝に、庄助はもう一度、
「ねこが、いっぱいいます!」
と、言い直した。
事務所の入っている雑居ビルの裏、従業員たちが喫煙所として使っているその場所に、一週間ほど前から猫が住み着き始めたのは国枝も知っていた。
赤いスタンド灰皿とともに、申し訳程度の屋根があるその場所で、猫は雨風をしのいでいるようだ。
ビルの裏の掃き掃除に下りた庄助は、廃棄する予定で仮置きしている電化製品の脇で、いつものトラ猫がこちらに背中を向けているのを見つけた。
心配になるほどに人懐こく、すぐに足元に擦り寄ってくるはずのその猫がこちらに目もくれず、しきりに何かを舐めているのを不思議に思ったらしい。
「よく見たら目ェもあいてないチビねこがいっぱいいてて……あいつ妊娠してるの知らんかった。ただのデブやって思ってたんです」
なんだか言い訳のように呟く庄助に連れられて、国枝は一階まで下りた。
五匹の猫の赤子は、その小さな身体から発せられているとは信じられないほど、元気にニーニー鳴いて蠢いている。
人懐こかった猫の母親は、産後で気が立っているのか、近寄ろうとすると鼻頭に皺を寄せて威嚇をした。
どうしましょう? と庄助は、国枝の顔を覗き込んだ。寒い日の子供のような赤い耳と鼻先に、まだ裏社会の毒気に染まっていない茶色の瞳。それらを見ていると、無性に脇腹に回し蹴りでもしたくなる。
「庄助さ、俺のこと、ただの優しいおじさんだと思ってない? これでも一応本職なんだけどな」
タバコを咥えて横目で睨むと、庄助は慌てたように身体の前で手を振った。
「そんなことは、ないですっ!」
「ほんとにぃ?」
先端が一瞬真っ赤に燃えて、紙筒が煙を吐く。暖房でやられた喉に、ニコチンの辛さが滲みた。
「すみません……国枝さん偉い人やのに、すぐ甘えてもーて」
「別に何も偉くないよ」
「つい歳上の男の人に頼ってまうの、俺の良くないクセやなって。オトンがおらんかったからかなァ……?」
「あははっ、何そのキャバ嬢のマニュアルみたいなトーク」
笑って吐き出す息と煙が、どちらも白い。猫の仔らは、母猫の腹を前肢で揉むようにして、乳を飲んでいる。
「ちょうど今頃から春にかけては、猫の恋の季節だからねぇ。可愛いからって、いちいちかかずらってちゃ、キリないでしょ」
「はい……」
悪いこともしていないのに、申し訳なさそうに項垂れている。本当に甘え上手だ、景虎とは大違いだな、と国枝は唇をすぼめて、細く煙を吹き出した。
「……倉庫に、段ボールとウチの粗品のタオルがあるから。寝床だけでも作ってあげたら? それ以上はダメだよ」
まるで小さい子に諭すように口に出してから、国枝は思い出した。幼い頃の自分に、愚かにも学校の先生になりたかった瞬間があったことを。
しまったと思った時には遅く、庄助は目を輝かせて、国枝の顔を見ていた。
「ありがとうございます! 取ってきます!」
頭を下げるやいなや、庄助はビルの中に取って返した。今度はエレベーターを待つ時間さえ惜しいのか、階段をバタバタと駆け上がる音が聞こえてくる。
国枝は、短くなったタバコを灰皿の穴に捨てると、この短時間でかじかんでしまった手のひらを擦り合わせた。
「誰だって、雪が降る日に寝床がないのは厭だろうからさ」
誰にともなく呟く。空を仰ぐと、冬雲の分厚い曇天が、見えない果てまでずうっと続いている。まるで国枝の故郷の空だった。
◇
かくして庄助の作った、二重の段ボールと粗品のタオル数枚の簡易猫ちぐらは、親子に大好評であった。
仔猫たちはすっかり目も開き、ビルの裏で駆け回る姿を確認できるようになった。ユニバーサルインテリアのロゴの入ったタオルが、横向きの段ボールの底でくたくたになっている。
「カゲ、仔猫が可愛いからって寒いとこでずっと見てて。クチビル、紫ンなってたんです」
そう庄助が嬉しそうに話しているのを聞いている。わが社は今日も、嫌になるほど平和だ。国枝はデスクで大きなあくびをした。
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