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【番外編】孤独を喫むのは大人の証①
子供の頃はよく体調を崩し学校を休むことが多かったのに、成長に伴い免疫がついたのか、めっきり風邪を引かなくなった。
とはいえ、ほんの少しの油断、例えば連日のハードな仕事、偏った食生活、睡眠不足、室内外の温度差などなど、体調を崩す要因となるものはどこにでもある。
三月十四日の午前八時。景虎は、くたびれたソファベッドの上で、関節の節々の痛みに震えていた。クローゼットの奥から引っ張り出してきたアルパカ柄の毛布が、彼の大きな身体をすっぽり包んでいる。
「なんかやってほしいことある?」
傍らに座った庄助が、心配そうに景虎の額に手をやると、薄い皮膚の下、じわりと篭った厭な熱が触れる。景虎は目を閉じ少し考え、荒い息の間に言葉を吐き出そうとした。
「……フェ「フェラ以外やアホ」
庄助が食い気味に遮ると「フェラ以外か……」と残念そうに呟き、景虎は毛布の中に潜ってしまった。
「ホンマ、誕生日やのについてへんなぁ……。でも俺、今日はちょっと仕事残ってるから会社行かんと。なるべくはよ帰ってきたるから」
少し申し訳なさそうに暖房を強めると、庄助は出ていった。アパートの外の階段を軽やかに降りるスニーカーの足音を聞きながら、取り残された部屋で一人、景虎はカーテンの開いた窓を見た。
重苦しい呼吸に、小さく洟 をすする音が混じる。大人になって罹る本格的な風邪は辛いと聞いたが、本当だった。頭がずしりと重く喉が痛い、寒気がする。
弥生の空は、燦々と晴れている。手を伸ばせば春に手が届く、花粉で霞んだ空の季節だ。庄助に言われるまで忘れていたが、今日は景虎の誕生日だった。
そうか、今日は自分の誕生日。であれば、
「フェラ以上のことを頼んでもよかったのか……?」
熱に浮かされた景虎の脳は、いつも以上に頓珍漢な答えを導き出す。
なんか違うような気がするな。と、景虎は額のぬるくなった冷却シートを剥がした。
ローテーブルの上には、庄助が置いていった水のペットボトル。その脇に、市販の風邪薬の錠剤の入った小さな瓶が置かれている。
そういえば母さんも、俺を置いて仕事に行く時は……いや、やめよう。
こんな風に何かの拍子に、優しかった母の面影を手繰り寄せれば、普段存在を忘れているはずの欠落たちが、一斉にこちらを向いて嗤う。
楽になれると思うなよ、お前のそばを片時も離れずに居るぞとばかりに、胸に開いた真っ黒な穴が、けたたましく歓喜する。だから景虎は、なるべく記憶に蓋をしている。
目を閉じて、静かに時計の針の音を聞く。
眠くない。なのに、閉じた目の裏に色とりどりの蜷 の道が出来ては消えてゆく。重くて寒くて痛くて、一人だ。
景虎にとって病床の心細さは、久しぶりの感覚だった。
庄助が来てからずっと、寂しいと思ったことがなかった気がする。景虎は、少し懐かしくて馴染み深い孤独に、怠い身体を任せた。
◇
「おお、仔猿ちゃん。おはよう」
珍しい。ユニバーサルインテリアの事務所に、矢野組長が来ている。庄助は、来客用ソファに座っている痩せた初老の男に向かって、腰を屈め腿に手を乗せ、仁義を切って見せた。
「親父さん、おはようございます! ご苦労さまですっ!」
「ちょっと庄助~、ヤクザみたいな挨拶やめてよね。矢野さんは謎のご隠居という設定で遊びに来てるんだから」
デミタスカップ片手に、国枝がたしなめた。今しがたバリスタマシンで淹れたエスプレッソの香ばしくスモーキーな香りが、事務所の中に漂っている。
「んな水戸黄門じゃねンだからよ。隠居ってほどジジイでもねえし。そうだ仔猿ちゃん、今日はうちの息子はどうした?」
「あ……カゲは風邪です!」
風邪と聞いて矢野は、落ち窪んだ眼窩の奥の萎れた瞼を、精一杯見開いて驚いて見せた。
「おぉ……景虎のやつ、風邪ひいてんのか。珍しいこともあるもんだァな」
「そうですか? 子供の頃はしょっちゅう熱出してましたけどね」
矢野がのんびり言うのを、国枝がエスプレッソに口をつけながら受けた。
「ン……まぁ、ほっそい身体してたからなァあいつァ。なぁ仔猿ちゃん、小遣いやるから栄養つくもん買って帰ってやってくれよ」
そう言って脇に置いていたセカンドバッグから、矢野はゴソゴソと何かを取り出した。受け取ったそれを見て、庄助は思わずギョッとする。
紅白の梅結びの水引があしらわれたそれは、祝儀袋だった。薄めの文庫本くらいはあろうかという暴力的な厚みに、袋自体が苦しげに張りつめていた。
庄助が、見たこともないような分厚さの祝儀袋に言葉を失くしていると、国枝がそれをすぐに奪い去り、慌てて矢野に突き返した。
「ちょっとちょっと矢野さん。おかしいでしょ、やめてくださいよ」
「病気ン時は何かと要りようだろ?」
胸元に金封を突き付けられたが、矢野は悪びれずに両手を挙げた。
「限度ってもんを考えてください。いくらヤクザでも、病気の見舞いに見栄張って大金包む時代じゃないんですって」
「聖よォ……お前ェはほんっとに口うるせえなァ。ほら仔猿ちゃん、これで景虎と美味いもんでも食って……」
「景虎が扁桃腺弱いの知らないんですか? きっとノド腫らしてあんまり食べらんないだろうし、せめて治ってからでいいです」
矢野はどうにもバツが悪そうに、口を尖らせた。
「や……でもよォ聖、儂ァ親として景虎に……」
「お金だけ出して子育てした気分にならないでくださいって、俺は昔からずっと言ってますよ。というか庄助に、昭和のヤクザのバカ金銭感覚を植え付けないでください……あ! 思い出した、矢野さん、景虎が中学のときにも」
「わ~~かった、わかったよもう! 三万円だけならいいか!? ダメ? じゃあ八千円!」
とうとうぐうの音も出ず、矢野が逆オークションを始めたところで、庄助は堪えきれず笑ってしまった。
なんかこの二人って、組長と幹部ってよりは……。
「なに笑ってんの庄助。さっさと外回り行ってきてよね」
国枝に睨まれて、慌てて踵を返した。机の上の荷物を引っ掴むと、庄助は事務所を飛び出し、エレベーターも使わず、階段を一足飛びに脱兎のごとく駆け下りた。
「あ……もしかして」
二階の踊り場まで来て、庄助ははたと足を止めた。
もしかして、親父さんが今日ここに来たのって、大事な息子の誕生日のためちゃうんやろか?
あの金、ホンマはカゲに直接渡したかったけど、おらんかったから、俺に渡そうとしたんかな。
見舞金いうて手渡してきたけど、カゲが風邪引いてるって知らんかったはずやもんな。つーか、祝儀袋に入っとったし。しきたりに厳しい極道の頭が、病気の見舞金として渡す袋やないよな? 知らんけど。
庄助は三階を見上げた。勢いよく走ってきたため、ビルの階段にもうもうと埃が立っている。事務所に組員の誰かが出入りしているのか、矢野の「わかったよもう、うるせえなぁ~!」という叫びが、上階から一瞬漏れ聞こえた。
親父さんも国枝さんも、カゲのことになったら譲らんからなあ。
外回りから帰るまでに、刃傷沙汰にならんかったらええけど。
庄助は苦笑すると、肌寒い初春の街へ、足取りも軽やかに躍り出た。
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