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第五幕 四、タイガー・アンド・ゴースト①
男やもめに蛆がわくとは言うが、ナカバヤシのアパートの部屋も例に漏れずだった。
点在している衣服の小山を避けつつ、靴を履いたまま部屋の奥に踏み込むと、動物の排泄の乾いた匂いがする。テーブルの上の光熱費の払込用紙の上や、パチスロ雑誌の上にタバコの灰が散っている。エアコンは二十七度に設定され、つけっぱなしのようだった。
「ペットキャリーを持ってこいなんて言うから、何をするのかと思ったら……。遠藤くんねぇ、僕は何でも屋じゃあないんだよ」
化野千尋 は文句を言いながらも、興味深げに部屋を見回した。キッチンの古い型の電子レンジの天板に、猫の毛が埃とともに脂で貼り付いて固まっているのを、その太い指で撫でている。
お世辞にもきれいだとは言えない1Kの部屋の中、はたして白キジトラのブチコちゃんは、キャットタワーの上で呑気に香箱座りをしていた。ドアから入ってきた景虎たちの姿を認めると、背伸びをしながら立ち上がり、尻尾を真っ直ぐに立てて小走りで寄ってきた。
「探偵なら、猫の保護くらいお手の物じゃないのか? ああ……ブチコチャン久しぶりだな。相変わらず変な模様だ」
ぶうぶうと喉と鼻を鳴らして擦り寄ってくるブチコちゃんの、黒い縞の頭のてっぺん。やわらかなそこを指先で撫で、景虎は珍しく頬を緩めた。首輪の小さな鈴がりんと鳴り、生き物の脂の愛おしい甘さが香った。
化野はため息をつき、大きな身体をどっかりと敷きっぱなしの煎餅布団に下ろす。タバコ臭いカーテンに太い指を突きこみ、わずかな隙間から外を覗き見た。
降り出した雨に、外は烟っている。昼だというのに薄暗く、二階にあるナカバヤシの部屋の窓からは、向かいの背の低いマンションの廊下が見えた。
「化野さん。あんたの目から見て、俺たちの前に誰かが踏み込んだ形跡はあるか?」
「いんや? ざっと見た感じはないねえ」
化野は、コンビニで買ったきゅうりの一本漬けの封をバリバリと開け始めた。
「積もってる埃の途切れが見当たらないってのと……家探しの痕跡を消すために、わざと散らかすのはよくあるけど、散らかり方に生活の動線がちゃんと出ている。誰にも手を付けられていない……ってのが所見」
「……なるほど。いかにも"探偵”ぽいな」
「探偵なんだっての。それより、キミのお目当ては猫ちゃんだけじゃないんだろ? さっさと済ませて帰ろうじゃないか。他人の家を荒らすのは良くない、まして故人なんだからね」
丸齧りしたきゅうりの欠片をヒゲの上にくっつけ、化野は愉快そうに笑った。
他人であり故人でもある男の布団に腰を下ろし、ものを食べながらそれを言うのだから、なるほど、化野は独特の倫理観の狂い方をしている。
「あんた、野菜は嫌いなんじゃなかったのか?」
机の上の紙束をかき分けながら、景虎は言った。強風が、立て付けの悪い窓を揺らしながら唸る。子供が走るような、雨がトタンを叩くような、どちらとも取れるような音が、部屋の外から断続的に聞こえている。
「ありゃ、覚えててくれたんだね。野菜は嫌いだよ。でも、漬物は野菜というより塩だから。塩をそのまま舐めるのはキツいから、きゅうりで薄めて食べてるんだよ。これで“整う”ってワケ」
「なるほど、アザラシやワニが石を食べるみたいなものか」
「遠藤くんて、いちいち言うことが変わってるよねぇ」
ツッコミ不在のこの場で、どちらがより変人であるか、ジャッジしてくれる者はない。景虎は、萬城静流 の白い細面の横顔を思い出した。
「今日は、あいつはついて来なかったのか?」
「シズくんなら、今日はオフだからね。電話に出なかったし、まだ寝てるんじゃないかな?」
「ふうん、アーティスト様は気楽なものだな」
「そう見えるかい? でもねえ、彼はすごくストイックな働き者だよ。キミの愛しのレディ・ディアブロだってそうだろう。あんなふざけた格好で、命懸けの仕事を果たしたじゃないか」
からかうような口ぶりに、景虎は小さく舌打ちをした。この男が、庄助をタニガワに売ろうとしていたことを思い出す。
ナカバヤシが裏切り者だと判明した今、化野や静流と手を組む理由は薄れた。それでも、彼らから目を離す気にはなれない。
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