417 / 432

第五幕 八、ラフター・イン・ザ・レイン④

「なァ、ミズタニ。お前がここに来てくれたことに、儂ァ本当に感謝してる。同じ地獄に堕ちる前に、話したいことがいーっぱいあったんだからよ……」 「喋ってんじゃねえ! この上は、俺かお前のどっちかが死ぬ、それしかねえだろが!」 「……景虎」  まだ戦意をなくさないミズタニを見て、矢野はため息を一つつき、景虎の名前を呼んだ。いつになく柔らかい声音だ。 「これはもともと、儂が引くべきだった幕だ。それを我が身可愛さで欲をかいて、ここまで引き伸ばしちまった。全部儂の責任だ。だからよ、おめェはもう行きな。仔猿ちゃんのとこへ」  矢野の目は真剣だが、優しかった。前髪から雨が滴る。背中と言わず、身体中が濡れている。蒸発する雨水に体温を奪われてゆくのに、吐く息だけが熱かった。 「……俺は組も庄助も、どちらも捨てる気はないです」 「甘ったれンな、馬鹿。どっちかだ、どっちか! お前が選ぶんだ、景虎」 「親父……」  その時、かすかな電子音が鳴っていることに全員が気づいた。出どころは地面。濡れたコンクリートに落ちた、ミズタニの腕に着けられたスマートウォッチからだった。 「タマゴッチ、鳴ってンぞ」  冗談なのか真剣なのか不明な言葉を吐きながら、矢野は顎をしゃくった。額に切っ先を突きつけられたミズタニは、矢野を殺さんばかりの勢いで睨みつけながらも、長年連れ添った自分の腕だったものに触れた。 《哈喽(ハロー)、パパ。オレだけど、今大丈夫?》  スマートウォッチから、男の声が聞こえる。音量は大きくなく、誰のものなのか判然としない。ミズタニに軽口を聞いているということは、共犯だろうか。それとも―  返事をしろ、とばかりに矢野が促すと、ミズタニは絞り出すように応えた。 「……どうした?」 《こっちの方、状況がかなり変わって来ちゃって。悪いんだけど、オレたちはお先に失礼するよ。出資してくれたのはありがたいけど、死んだら元も子もないから》  向こうのノイズがひどい。どこかの山の中か地下なんかと通話しているように、ザラザラと不明瞭だ。 「なにを……どういうことだ」 《どうもこうも。周りはヤクザに囲まれて、中は血の海だよ。重機で突撃してくるし、コマンドーかっての。……ま、パパの兵隊があの子を傷つける前で良かったけどね》  失血で紫になったミズタニの唇が、わなわなと震える。矢野の顔を見たが、表情は変わらなかった。 「ヤクザだと……なんで場所が。あのガキはちゃんと、身ぐるみ剥がして連れてったんだろ!?」 《さあ? そのへんは知らない。オレはあの子を待ってただけだから……じゃあ、そういうことで》 「待っ……」  声の主が誰なのかわからないまま、通話は切れた。  あのガキ、あの子。不穏な代名詞に、景虎の胸がドクドクと音を立てる。 「なるほど。音揃が“織原(ウチ)の切り札”ンとこに辿り着いたってわけだな」  矢野は、愕然とするミズタニに刃を突きつけながら言った。切り札。国枝が庄助のことを、そう言っていたのを思い出した。  ここから帰ったら、矢野には聞かなくてはいけないことが、まだたくさんある。 「下に車を待たせてっから、音揃(カシラ)のところまで乗せてってもらいな。心配すんな、上手くやっとくからよ。……それにしても、相変わらず派手にやらかすのが好きだな、音揃の野郎は。なぁ、ミズタニも……そう思うだろ」  俯いた矢野の顔が寂しそうで、景虎は一瞬揺らいだ。しかし、矢野は自分で選べと言った。  ……違うな。これは、俺の意思だ。  景虎はミズタニの手を踏みつけていた足を退き、まっすぐ立った。矢野に向けて、頭を深く垂れる。 「行ってきます、親父」  頭を上げろ、とひらひら手を振って、矢野は口の端を上げた。それを見て景虎は、ようやく少し安心したように踵を返す。 「ありがとうなぁ、景虎」  階段のドアへ向かう、拾ってきた頃より遥かに大きくなった背中に、矢野は声をかけた。 「どっちも捨てる気はないなんて、儂には勿体ねえ孝行息子だ」  景虎とミズタニのどちらにともなく呟くと、覚悟を決めたように、柄を握る手に力を込めた。  暴風雨が嘘のように消え去った東京一帯は、台風の目に飲まれている。  ひとときが過ぎれば、また激しい逆風が来るのをわかっていても、誰も歩みを止めることはできなかった。

ともだちにシェアしよう!