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第五幕 幕間 きみがだれかに食われるまえに
きみがだれかに食われるまえに
原題:Tiger & Devil
三村奈津生 訳
小暮書房、二〇〇三年刊
しまの体をくさむらにかくしながら、彼はゆく。
ぬかるみをふみしめて。
おなかは、もうずっと空いていました。
けれどトラは、それをつらいと思ったことはありませんでした。
おなかが空くことも、
だれかが泣くことも、
だれかがいなくなることも、
この世界では、よくあることだったから。
あたたかい日には、ひなたで眠る。
暑い日には、木のかげで眠る。
彼がえらぶのは、いつもそれくらいでした。
ある日、空がまっくらになるほど、雨がふりました。
その雨の中から、ひとりの悪魔がトラのもとへやってきました。
悪魔は、遠い遠いところから来て、トラの知らないような、にぎやかな声でたくさんしゃべりました。
悪魔の体は、やわらかくて、あたたかくて、ねどこの匂いがしました。
トラと悪魔は、いっしょに泥水を飲み、
いっしょに雨をしのぎ、
いっしょに目を閉じて、眠りました。
そうしているうちに、トラは悪魔のことを、とても大切に思うようになったのです。
大切なものができると、
それをなくすのが、こわくなりました。
水の中にひそむワニの大きな口も、
空をまわる黒いタカの爪も、
草の下を歩く小さなサソリの毒も、
みんな悪魔を連れていってしまうような気がしていました。
もし、だれかに取られてしまうくらいなら、
かみつぶして土にうめて、かくしてしまおうか。
いや。そんなのよくないに決まってる。
そんなことを考えながら、
彼は夜ごと、眠る悪魔のそばに顔を寄せました。
晴れているのに、草むらに雨がふったある日。
トラと悪魔は顔を見合わせ、木のかげへ走りました。
それから、おかしくなって笑ったあと、少しだけじゃれあって、また、となりで眠りました。
いつまでも一緒にいられたら、どんなに素敵だろう?
眠る悪魔の寝顔を見ているうち、トラは、いつしか考えるようになりました。
悪魔と、ずっとずっといっしょにいるには、どうしたらいいのだろう。
こまったトラは、湿地のものしりたちに聞いてまわりました。
夜の森で目をさますフクロウに。
このあたりでいちばん長生きの、年老いたサルに。
なんでも知っているような顔をした、気どりやのカワウソに。
けれど、だれも答えを知りません。
それどころか、悪魔を好きになったトラのことを、みんなはへんなやつだと笑いました。
しょんぼりして帰ってきたトラに、悪魔はなんでもないことのように言いました。
そんなことで悩んでいたのか。
なあに、まかせろ。おれは悪魔だから、化けの皮をかぶることだってできるんだ。
おまえの望むものに姿を変えることだってできる。おまえが見たいままの、おれの姿になれるよ。
それを聞いたトラは、少しだけ考えました。
それから、こうお願いしました。
悪魔を、自分と同じ、トラの姿に変えてください。
悪魔は、とびきりうれしそうに笑いました。
けれど、姿を変えるというのは、
魔法の光がぱっとひかって、それでおしまい、
というわけにはいきませんでした。
それから何日も、悪魔は苦しみました。
黒いふわふわの毛はぬけおちて、
かわりに黄色と黒のかたいしま模様が、からだにあらわれました。
小さかった牙や爪は、するどく、強いものに生えかわりました。
トラは悪魔のとなりにいて、
ときどき毛づくろいをしたり、
そっとからだを寄せたりしながら、
見守ることしかできませんでした。
そうして何日かたったころ。
悪魔は、美しい毛なみのトラに生まれかわりました。
夕焼けの空にゆれる麦の畑のような、金色の毛。
つんと立った耳。
地面をしっかりつかむ、りっぱな手足。
どこからどう見ても、
悪魔は一匹の、美しいトラでした。
これで、ずっといっしょにいられる。
同じものを食べて、同じ高さで世界を見て、
きっと長い長い時間を、いっしょに過ごせる。
もう、へんだと笑われることもない。
だれにもかくさず、悪魔を好きでいていいんだ。
トラは、とてもよろこびました。
けれど、
悪魔がはりきって生やしたその美しい毛皮を、
毛皮をほしがる人間たちは、見のがしませんでした。
ある夜のことです。
晩ごはんの時間になっても、悪魔は帰ってきませんでした。
心配になったトラは、湿地のあちこちを探しました。
そして、いつも追いかけっこのあとに休む木の下で、
見つけてしまったのです。
皮をうばわれ、
もとの姿にもどってしまった悪魔を。
悪魔は、小さく息をしながら、眠っていました。
コウモリに似たうすい翼はやぶれ、
自慢だった金色の角は、すっかり折れていました。
それなのに、悪魔のからだからは変わらず、
あたたかいねどこのような匂いがしました。
トラは悪魔を洞穴へ運び、
草のねどこにそっと寝かせました。
トラは泣きました。
雨の中、しまのからだをふるわせて。
自分がお願いしてしまったから、
悪魔はこんなに傷ついてしまった。
大好きなのに。
いっしょにいたかっただけなのに。
トラは悲しみすぎて、
もう、なにがなんだかわからなくなってしまったのです。
トラは三日三晩、殺してまわりました。
悪魔を傷つけた人間たちを。
見て見ぬふりをした村の人たちを。
足もとの小さな虫を。
ウサギを。ネズミを。モグラを。
フクロウを。カワウソを。年老いたサルを。
そして三日目の夜、
トラは悪魔の毛皮を買った、お金持ちの男の家へ行きました。
そこには、きれいにのばされた
悪魔の美しい毛皮がありました。
トラはその毛皮の上で、
使用人たちを。
男の妻を。
犬を。
娘たちを。
息子を。
みんな殺しました。
食べるためではありません。
トラは、悪魔を傷つけた世界にあるものを、
もうなにひとつ、口に入れたくなかったのです。
帰ってきたお金持ちの男は、
毛皮の上に倒れた家族を見ました。
それからトラの脚を、銃で撃ちました。
男は泣きながら、何度も何度も首をふり、
やがて、自分で自分を殺してしまいました。
トラは脚を引きずりながら、
男の家をあとにしました。
三日前から晴れない空と同じように、
トラの心も、暗く沈んでいました。
ふたりが住む洞穴に帰ってくると、
ぼろぼろの悪魔が、ゆっくり目を開きました。
トラの顔を見ると、
おはよう。
と言って、手を差しのべました。
化けの皮が、はがれちゃった……。
ちょっと恥ずかしいな。
おまえに喜んでもらいたくて、がんばりすぎちゃったから。
照れたように笑う、やわらかいその手に、
トラは頭をこすりつけました。
あたたかくて、いい匂いがして、
泣きたくなりました。
おまえのこと、おれが食べてしまっていればよかった。
こんなに誰かに傷つけられるくらいなら、
その前におれが食べて、ひとつになればよかった。
トラが言うと、
悪魔はちいさな牙を見せて、へらへらと笑いました。
へんなの。
食べられちゃったら、もうおまえのとなりで眠れないじゃないか。
これからは、おれはおれのままで、おまえのそばにいる。
きっと、それがいいよ。
トラはまた泣きました。
それを見た悪魔は笑って、
トラのぬれたほほを毛づくろいしてやりました。
草むらの向こうに、朝焼けが見えます。
ふたりきり。
そう、
世界にだれもいない、
ふたりだけの湿地の夜明けでした。
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