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第5話

 コトリと物音がしたような気がして薄目を開けると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。  いつの間にか寝てしまっていたようだ。 「七凪、夕飯食べてくれないとおばさんが片付かないってさ」  岳の声がした。が、惰性でそのまま寝たふりをする。 「寝てるのか?」  岳のその言葉で七凪はとっさに悪戯を思いついた。 「七凪……」  岳が近寄ってくる気配がした。  そうだ、そのままもっとこっちに来い。至近距離まで岳が近づいたら、わっと、大声を出して脅かしてやる。  ゆるみそうになる口元を引き締め、七凪はその時を今か今かと待つ。  岳がベッドの脇まで来たのが分かった。  もう少し、もう少しだ、もっとそばに寄れ。  岳の息づかいと七凪を見下ろす視線を頬にビリビリと感じる。  長い間があった。  岳は七凪を起こすわけでも部屋を出て行くでもなく、ただそこにじっと立っているようだった。目を閉じていても、いや、閉じているからこそ、いつもと違う空気感を七凪は敏感に感じ取った。 「七凪……」  低く掠れたそれは、今まで七凪が聞いたことのない苦しげな声だった。  わずかに衣擦れの音がして、岳の息づかいが近づいてくる。七凪は金縛りにあったように動くことができなかった。  七凪の頭のすぐそばが沈み、岳が手をついたのが分かった。岳の体温をともなった匂いが七凪の鼻先をかすめた。  七凪の額に温かくて柔らかいものが触れた。  それは悲しいくらい優しくて、ぎゅっと心臓がひねられるみたいに切なかった。  ふわりと岳の気配がなくなると、部屋のドアが閉まり、岳の足音が階段を降りていった。  七凪は弾けるように起き上がると、布団を頭からかぶり、ベッドに突っ伏した。  なんだ、なんだ、なんだ、今のは!  七凪はそっと自分の額に手をやる。  あれは、岳の唇だった。  あれは……キス。  七凪は再びベッドから飛び起きると、ゴミ箱の中の空のペットボトルを拾い上げる。  これの仕業か!? 「マジか! どうすんだよぉ、よりによって岳だなんて」  それも数滴でいい媚薬を岳はボトル一本丸々飲んでしまった。  スマホにかじりつき、媚薬の解き方について調べてみる。  しかし作り方は載っていてもこれといった解き方が載っていない。  それでも七凪は必死になって調べまくったが、これぞという方法を見つけることはできなかった。  そうして七凪がうとうとと眠りについた頃には、窓の外は明るくなってきていた。  朝は神社の石段の下にある鳥居の前で岳と待ち合わせをし、一緒に登校することになっている。  しかしその朝すっかり寝坊してしまった七凪は、五分で身支度をすませると家を飛び出した。  案の定、岳はすでにいつもの所で七凪を待っていた。 「おはよう、七凪」  岳の七凪を見る目が昨日までとは違う気がして七凪は密かに怯む。  岳の手がスッと伸びてきて、七凪はビクッと首をすくめた。 「すっごい寝癖」  岳はハハッと笑うと、七凪の髪にくしゃっと触れ、その手はそのまま七凪のマフラーを巻き直す。 「しっかり巻いておかないと首元寒いだろ」  鋭さの消えたその目は、いつになく優しい。  いつもの岳のようでいつもの岳じゃない岳に、七凪はどう接していいのか分からず、うつむいてしまう。  駅までの道のりで七凪は気づいてしまった。  岳は必ず自分が車道側になるように歩いていることを。そして混雑するバスの中では七凪を守るようにして立ち、大きく揺れると七凪を抱きしめるように支えてくれた。  それら一つ一つに、昨日のキスの破片のような優しさが散りばめられていた。けれどその奥には、好きだけと好きだと言えない苦しさみたいなものが隠れていて、七凪はなんとも言えない気持ちになる。  そりゃそうだよな、幼なじみで、それも男同士で好きだなんて言えないよな。  けど、岳って誰かを好きになるとこんなふうになるんだ、と冷静に岳を観察してみたりもする。  昔から岳はモテモテだったけど、彼女を作ったことは一度もないし、好きな女の子の話は聞いたことがない。恋に落ちても、それをあまり表面に出さないクールなタイプかと勝手に思っていたけど、こんなにも優しくなるんだ。  今までと変わらない一見普通の友情と思えるその中に、岳のそれははっきりと息づいていて、そうやって思うと、それはとても分かりやすく、真っ直ぐでとても一途だった。  岳の深みのある瞳の奥が、七凪に触れる指先が、  七凪が好きだ。  そう語っていた。

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