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第11話
その夜、母親に蓮のことを話すと、母は難なく蓮のハンガリー語教師になることを承諾してくれた。
「それより七凪の方はどうなってるの? 彼女作らないと沖縄に行けないんでしょ。恋の媚薬は試してみた?」
沖縄旅行のことを忘れていたわけじゃないが、岳に媚薬を飲ませてしまってそれどころじゃなくなっていた。
「ちょっと今、いろいろと忙しいんだよ」
「へぇ、七凪が日本一の星空より優先させることがあるなんて、七凪にとってよっぽど大事なことなのね」
そりゃそうだろ、幼なじみとの友情が揺らいでいるんだから。けど、揺らいでいるのはそれだけか?
「とにかく蓮のことはよろしく頼んだよ。ねぇ、昨日のカレーの残りまだある? お腹空いた」
七凪は母の言葉と自分の心をごまかすように、話題を変えた。
そしてその日は突然やってきた。
学校の帰り道、暮れたばかりの濃紺の空にはシリウスが輝いていた。都会のまばらな星空でも、一等星のシリウスははっきりと見える。
神社の鳥居の前まで来ると、突然岳がこんなことを言い出した。
「今度から夕飯は自分の家で食べるよ」
七凪は眺めていた空から岳に視線を急降下させる。
「なんで?」
「おばさんにも悪いしさ」
「二人分も三人分も同じだよ」
「でも、もう高校生だし、料理ぐらい自分で作れるようにならないと」
岳の言うことには一理ある。が、なんだか岳の七凪への態度も変だ。
「どうして急にそんなこと」
「急にじゃないよ、前からずっと思ってたことだよ」
岳はおもむろに足元の小石を拾うと、鳥居めがけて緩やかに放った。
小石は硬い音を立てて柱にぶつかると跳ね返ってきた。岳は別の小石を拾ってまた投げるを繰り返し、七凪と視線を合わせようとしない。
よそよそしいというか、そっけないというか、普通というか……、そうだ、とても普通なのだ。普通が悪いわけじゃないが、最近の岳はなんかもっとこう、隠そうとしても七凪への愛情がだだ漏れ状態だったというか、それがないのだ。
「なぁ岳、こっち見ろよ」
岳はチラリと七凪に視線を向けたが、数秒止まっただけですぐ逃げてしまった。
七凪はハタと気づいた。
もしかして媚薬の効果が切れた?
続いて岳はこんな発言をした。
「朝もさ、別々に登校しないか? 俺、サッカー部の朝練があるから」
岳はおっ、と小さな声を上げた。投げていた小石が鳥居の上に乗ったのだ。けれど別段嬉しそうでもなく、その目は虚ろに陰って見えた。
「これってさ、石が乗ったら願い事が叶うなんて言って子どもの頃は必死でやってたけど、そんなことで願いが叶うんだったら人生苦労しないよな」
岳は吐き捨てるように言った。
七凪は突然の岳の変化に戸惑った。
媚薬の効果がいつか切れることを考えなかったわけじゃない、けれどそれはもっとこう、少しづつ薄れていくものだと思っていた。
こんな急に失くなるなんて聞いてない。
なんとも言えない喪失感が七凪を包んだ。
もうあんな目をして岳は自分を見てはくれないのだろうか。泣きたくなるくらい真剣で、七凪のことが愛おしくてたまらないといったような切ない目。その目が七凪に向けられることはもうないのだろうか。
けれど、これが本来の岳なのだ。自分たちは男同士でただの幼なじみなのだから、これが普通なのだ。恋の媚薬を飲んでいた時の岳は本当の岳ではない。
七凪はそう自分に言い聞かせようとしたが心がついていかなかった。
夕飯も食べに来ないし、朝も別々だなんて。二年になって岳とはクラスも違う。それじゃいったいいつ岳に会えるんだ。
今まで七凪の毎日に岳がいなかった時なんてなかったのに。
「いやだ!」
自分でも驚くくらい強い口調になった。
岳もそんな七凪の反応が意外だったようで、わずかに目を見開いて七凪を見た。
「朝は仕方ないとしても、夕飯はうちに食べに来い。それは俺たちが決めることじゃなくて、俺たちの親の約束事みたいなもんなんだからさ」
七凪がそう主張すると、岳はプイッと横を向いたがやがて、「分かったよ」と承諾した。
その横顔があからさまに不服そうで七凪は密かに傷ついた。
いつもは近くの自販機で買った飲み物を片手に、神社の石段に座って話をするのに、その日はそのまま岳と別れた。
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