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第50話 おんぶと抱っこと

 讃岐は俺の様子を一瞥すると、そのまま背中を向けて入り口の方を向いた。 「服を直しなよ」  それきり黙ってしまった後姿を眺めながら、俺は出来るだけ急いでスラックスを履き直して上衣のボタンを掛けた。  指先が震えて、上手くはまらない。苛立って歯噛みしていると「ゆっくりでいいから」と声を掛けられた。  背中にも目があるみたいだ……。  ぼうっと滲みそうになる視界をぎゅっと一旦目を閉じて抑えて、一つ深呼吸してからもう一度ボタンにチャレンジする。裾をスラックスに入れてから、他に乱れているところはないかと見回した。  うん、多分大丈夫……。  壁に手を突いて立ち上がろうと足を踏ん張ったけど、膝がガクガクして力が入らない。生まれたての小鹿だって自力で立てるというのに、腰が抜けたみたいに下半身が言うことを利かなかった。  ずっと背中を向けていた讃岐が振り返り、それからもう一度背を向けてしゃがみ込んだ。 「おぶってやる」 「え……で、でも」  怪我らしい怪我をしているわけでもないのに、それで廊下を歩いたら目立ちすぎる。流石に恥ずかしいだろ……。 「大丈夫だ。もう殆どの生徒は寮に帰って昼飯を食っている時間だ」  ──心の中まで見えてるんだろうか。  でも、不思議と怖くはない。  そんなに長い時間が経っていた事にも驚いた。チャイムの音にも気付かなかったなんて……。  自分で思っているより、動転しているのかもしれない。 「あ、そうだ、応援の練習行かなくちゃ」 「無理だろう。心配なら軸谷先輩には言付けとくから。とにかく一度医務室に行くぞ。立てないのは精神的なものか怪我のせいか判らないからな」  落ち着いた低い声で諭され、その間もやっぱりこっちを見ようとはしなかったけど、床の上に垂らされた手の平が上を向き「乗れ」という風にひらひらと動いている。  俺は腰を床に着けたままにじり寄ると、肩に両手を載せてから思い切って体を預けた。身長はそんなに変わらないのに、しっかりと筋肉が付いていて広くて頼りがいのある背中。  讃岐はふらつく素振りも見せずにすんなり立ち上がると、静かに歩き始めた。  部屋を出るときにちらりと床の二人を見遣る。完全に失神していてぴくりとも動かない。  ドアの鍵穴の辺りは物理的な方法で破壊されていた。入って来た時特に何も持っていなかったと思うけど、どうやって壊したんだろう。  あいつらを倒した手際の良さといい、風紀代わりの隠密だなんて言われても、結局正体不明で謎の人物だった。  それでも……。  殆ど振動のない滑らかな足運びと温かな体温を感じていると、安心した。  後ろ頭、まだズキズキするけど、なんかもうどうでもいいや。怖かったけど、何とか無事だったし。  長い廊下を職員室より更に奥の静かな場所まで運ばれて行く。世界は、ゆらゆら揺れていて。眠気と戦いながら、どうにか医務室まで意識を保つことに成功した。  失礼しますと声を掛けて、そのまま讃岐が入って行く。ドアの近くのデスクについてサンドイッチを頬張っていた白衣姿の人が立ち上がった。 「どんな様子?」  マグカップの飲み物を一口飲んでから、その人は近寄ってきて俺の顔を覗き込んだ。なんとあの運転手さんだった。  え? 保健医とバスの運転手ってば兼務なの? 「二人がかりで強姦されそうになって、後頭部打っているみたいだ。立てないから、一応検査した方がいいかも」  これ以上ないくらい簡潔に説明されて、却って俺も落ち着いていられた。  これが一人だったり、一緒にいるのがもっと仲のいいヤツで俺と一緒になってパニクってたら、泣いちゃってたかも知れない。 「あちゃ~。いつか何か起こるとは思ってたけど、早かったねえ」  保健医の先生は思い切り顔を顰め、回転する丸椅子に座るようにと指示された。 「おろすぞ」  讃岐は俺に声を掛けてから、椅子のすぐ傍に行ってゆっくりと中腰になってくれる。  凄い筋肉だなあと感心しながら、それでもその姿勢はかなり辛いだろうから、慎重ながらも出来るだけ素早く椅子へと移った。腰掛ける分にはなんとかなりそうだ。  先生は特に頭を入念に調べ、それから一応内診もしてくれた。自分で見るのもおぞましかったけど、あちこちに残る鬱血痕を見ては眉を寄せ、うつ伏せが辛くなければ背骨を確認したいからベッドに寝て欲しいと、俺と讃岐を見比べて言った。  診察の間、医務室の内線で何処かへ連絡をしていた讃岐がもう一度寄って来て、今度はお姫様抱っこでベッドへと運んでくれる。もう恥ずかしいなんて完全に通り越して、その軽々とした仕草に感嘆するしかない。  そのままそっと転がすようにうつ伏せにされて、後はまた先生があちこち触っては確認していった。その間、また讃岐は内線で誰かと話している。声が低いせいか、内容は全く聞き取れなかった。  それをぼーっと眺めながら、おれはようやく携と智洋のことを思い出した。

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