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第87話 そんな表情を向けられるなんて
「触れられるのが嫌だったら言ってくれ」
「いえ、寧ろ安心するので……」
「そうか」
気遣いながら、単調に撫でてくれるのが嬉しい。先週の資料室でのことから、男に触れられることへのトラウマとか慮って、頭が大丈夫だからといって他もそうとは限らないと確認したんだろうか。
あの時の嫌な感触は、その日のうちに携が全部払拭してくれた──ああ、また携だ。俺にとって携って、どうしてこんなに大きな存在になっちゃったんだろう。
周に指摘された通り、きっと俺の中って携で占拠されてる。
浩司先輩のことも、勿論大好きだ。先輩のことを考えるだけでうきうきわくわくした気分になる。
だけど、それで一時は誤魔化せても、どうしても携のことを思い出してしまう。
こんなんで俺、普通の友達の一人になんてなれんのか……?
はあ、と息を吐きながら瞬きすると、頬を伝って涙が一滴零れ落ちた。
「涙は心の汗、とは言うけどな」
会長の長い指が、涙の筋を辿って頬を移動する。
「泣いたらすっきりするのなら、今なら他に誰もいないから泣くといい。本当は、風呂場で会ったときもそうだったんだろう?」
人差し指が、そっと上下に撫でて、跡を消そうとしているのかと思ったのに。泣くのを推奨されてしまいましたが。
こんなところで、しかも会長の前でなんて泣くわけにはいかない。俺だってちっこくても(でも人並みに身長はあるんだけど!)可愛いと言われ続けても(小動物みたいでわるかったな!)男なんで、人前で涙を見せることに対してはやっぱりプライドが許さないっていうか!
嗚咽を押し殺してうーうー唸っていると、体ごと広い胸の中に抱き込まれてしまった。
胸板はそう厚くないけど、意外に広い肩幅に囲われて、柔らかく抱き締められる。それから片手がまたよしよしという風に、頭を撫でてくれた。
「駄目です……制服、濡れちゃうしっ」
振りほどこうと思えば簡単に出来るのに、温もりが嬉しくてそこから抜け出せない。浩司先輩と同じように、労わるように抱いてくれる広い胸が、安堵で体を弛緩させていく。
「いいから」
呟きが、耳の傍で聞こえて。堪えきれない涙が溢れた。
再生を終えたマスターテープがザーザーと無機質な音をたてる中、どれくらいそうしていただろう。普段なら耳障りなその音が雨音のように優しく感じた。
あー……絶対甘やかされすぎだ俺……。嬉しいけどっ、でもでもっ!
「会長、もう大丈夫です……」
そっと胸に手を当てて、腕を解くように促した。うっかりしてるとこのまま昼寝しちゃいそうなくらい落ち着くけど。
その時、入ってきたのとは反対側──教壇の横、俺たちから近い位置の扉が開いた。
会長の肩越しに、目を見開いた携とばっちり視線が合ってしまった。
あー……そうか、あっちって執行部側に近い扉か……。
ぽやんと頭の片隅に思い出す、この階の並び。
物音と気配に気付いた会長も、腕を解いて携の方へと向いた。その様子に微塵も動揺はなく、だから俺も落ち着いていられる。
なんだか久し振りにまともに携と目が合ったような気がする。これが一人の時なら、挙動不審になっていたかもしれない。
逆に携の方がいつも通りではないようだった。何か不測の事態でも起こったのかな?
「どうした? 氷見」
眼鏡のフレームを上げながら会長が問い掛けるまで、携は俺と会長へと視線を彷徨わせながら直立不動だった。
「いえ、プログラムが完成したので、目を通していただいてから印刷しようかと……」
携は、ハッと我に返り拳を握って視線を会長に定めた。
「ああ、それは悪かったな。探させてしまったか。すぐに部室に行くよ、ありがとう」
腰を上げる会長に倣い、俺も慌ててデッキの方へ行き、三本とも巻き戻しが完了しているのを確認してからマスターテープを会長に返した。
「会長、あのっ、ありがとうございました! 何かお礼をしたいんですが! それと……」
声を潜めると、かがんでくれた会長の耳に口を寄せる。
「さっきの、あの……泣いてたのとか、秘密に……」
前に携には秘密は作らないって約束した。けど、これだけは絶対に秘密にしないと……内容は言っていないとはいえ、誰かに泣きついたなんてみっともなさすぎて携にも言えないだろ。
会長はくすりと笑むと「解ってるさ」とまた頭を撫でてくれた。
「礼なら先程ので十分だ。じゃあまたな」
さっと身を翻して歩き出した後を追い、携も扉に手を掛け──もう一度俺を見た。何か言いたそうなその表情を見て、機先を制すようにバイバイの形に手を振る。
「大変そうだけど、頑張ってな」
今何か訊かれても、何も答えられないから……。
だから、精一杯何もなかったように、いつもの俺らしく笑って見送ろう。
「ああ……」
顎を引いて、唇の端を少しだけ上げて微笑む形の笑み。それは、仲良くなってからは俺には向けられる事のなかった心のない表情で。
そのまま扉を抜けていく後ろ姿、そして音もなく閉まる扉を見つめたまま、俺は言葉もなく立ち尽くしてしまった。
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