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第91話 恋の歌って複雑怪奇
「終わったの? お疲れさま~」
視聴覚室を去る時の顔とか思い出すと切なかったけど、いつまでも引き摺ってもしょうがねえ。
そんなの気付いてないというように笑顔で見上げると、携も微笑んで頷いてくれた。
うん、今のはちゃんと嬉しそうだった。些細なことだけど、ほっと安心する。
「翻訳が必要なんて、執行部って凄いんだな」
いつものように最奥に腰を下ろす携にそう話し掛けると、「まあな」と吐息した。
反対隣では智洋も「翻訳!?」と驚いた声を上げている。
「上が外国の方たちだから、生徒間のもの以外は翻訳してから提出することになっているんだよ。だからそういうのに向いているメンバーになってるわけだ」
「はあ……」
なんとも言いようがなくて呆けた声を出している俺と智洋をよそに、今日もちゃんと手を合わせてから食事を開始する携。これ以上邪魔をしても仕方ないから、先にお暇することにした。時間も押しているし、携もさっさと食べ終えたいに違いない。
「あのさ、携。来週古文の解釈が当たりそうなんだけど、確認してもらいに行ってもいい?」
古文の三宅先生は、全員が平等になるようにとの心遣いなんだろうけど、席順通りに満遍なく当てていく。今週の授業で俺の前の席まで来たから来週確実に俺が当たる。古今和歌集やってるんだけど、自分なりの言葉で解釈しないと突っ込んで尋ねられた時に答えに窮するんだよね。お手本通りの訳だけ出来ても駄目な辺りが流石エリート校っていうか、連邦流なんだろうか。
「わかった」
頷く携にありがとうと言って、先に風呂を済ませるために立ち上がった。
まだ少しぎくしゃくしている様子が伝わっているんだろう。心配気な智洋は、気合を入れて送り出してくれた。
智洋といるときみたいに、一番とかそういうのなしに親しい友人関係になりたい。今の自分は、親に捨てられた子供みたいに情緒不安定になっている気がする。こんなんで携と同じ土俵には上がれない……まあレベルはかなり下に居るわけだけれども。それ気にしてたら自分より出来る人間とは付き合えねえってことになっちゃうしな。
一応ノックをしてから入ると、携が奥の机のところからひらりと手を振ってくれた。
そんなふとした仕草がこんなに嬉しい。
教科書とノートとペンケースを胸に抱えなおして、もう一つの椅子を引き寄せて腰掛ける。狭いけど携の机に荷物を置かせてもらい、自分のノートを広げた。
「次の歌は紀友則だったな」
携の指摘通り、次の歌は『我が宿の 菊の垣根に 置く霜の 消えかへりてぞ 恋しかりける』だった。全部を習うとすると気が遠くなりそうだけど、解釈の仕方がいくつかあるものを取り上げられているらしい。自分で考えろってことなんだろうけど、難しいよ~。
「うん。単純に訳すと『自分の家の菊の垣根に霜が下りている。その霜が消えるのを自分の恋みたいに感じて切ない』で、いいのかなあ……?」
ノートを両手で握り締めたままおずおずと携を覗う。携は小さく頷いて目を合わせてくれた。
「そんな感じだと思う。単純に、霜が降りている風景を見てなんとなく切なくなったととってもいいし、恋の歌だとするならもうちょっと複雑かな」
「んー。恋の歌っていうのはなんとなくわかるんだけど」
恋愛もしたことないから、それが一番難しい。
「自分がその場に居ると思って、もうちょっと想像してみたらどうかな? 感情移入できるかも」
感情移入……なるほど。
もう一度教科書の歌をじっと見つめて、自分がその場に居ると想像してみる。
今は冬で、朝起きて庭に出てみたら垣根の菊の花に霜が降りていた。じっと見ている間に気温が上がって段々霜が消えていく──。
これに『恋』を当てはめるとなると、霜を自分だと思ってまずは解釈してみるか。霜みたいに消えてしまいたいとか、相手にとっては霜くらいに小さな存在と思われているのが切ないとかそんな感じだろうか。
返す、っていうのが、すっかり消えるのか、また翌日も霜が降りてまた消えるという反復の意味なのか難しいところ。でもどっちにしても消えてしまうんだ。この、霜っていう存在は。
霜が、自分で……相手が携で。携にとって、俺ってどの程度の存在なのかな。今日解けてなくなっても、明日また朝になったらまたそこにいるって思ってる? それとももうすっかり居なくなってしまう……いやいや待て待て。なんか違う方に行ってるし!
霜は自分じゃねえんだろ。恋っていう気持ちなんだろ。そうじゃないと日本語として変だ。
消えてなくなってもまた恋しく思ってしまう、こんな感じ?
この恋は、忘れられない。その人の事、忘れられなくて……何度でも蘇る恋心──。霜みたいに消えたいのは自分自身の存在そのもの。この苦しい気持ちと共に、消えてしまいたい。霜のように。
恋じゃないけど、なんか今の俺なら、この気持ち解るかも……。
「和明?」
ずっと黙りこくっている俺をどう思ったのか、手に持って顔の前に掲げていた教科書を携が押し下げた。
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