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第133話 みんなに「ありがとう」
翌朝、携と決めたように俺はギリギリの時間に寮を出た。基本的に優等生タイプというか真面目な奴らが多いからか、多分最後だろう。誰もいない昇降口でスニーカーに履き替えてロビーを出ると、スッと智洋が寄って来た。
いつも一緒に登校して教室の前で別れていたけど、今日はゆっくり出るからと断り、それに頷いたのにずっとここで待っていてくれたらしい。
当たり前のように隣に並ぶ智洋を見上げて、胸の奥が熱くなった。
殆ど会話らしきものはなく、手前のC組前の廊下で小さく手を振る。
「また後でな」
もうショートホームルームまで五分もない。それでも智洋は、じっと俺の顔を見てふわっと笑って頷いてから教室へと入って行った。
ありがとうと心の中で呟いて、閉まっている自分のクラスのドアの脇で壁に背中を預けた。ガヤガヤとざわめいていた教室内が静まった気配が伝わってくる。担任はまだ来ていないから、きっと携が教壇に上がったんだろう。
聴きたいような、今すぐにでも踵を返して寮に帰りたいような、奇妙な感覚。それでも足は床に縫い止められたように動かなくて、徐々に静まり始めた校舎内の空気のせいもあり、中の声が漏れ聞こえて来ていた。
「──薄々気付いているようなので、ここではっきりと周知しておきたいと思う。これはクラス内で起こったことじゃないけれど、僕たちに一番関わりがあることだから。
朝、掲示板を見た人は知っている通り、連休で不祥事を起こして退校処分者が出ました。そしてその被害者はクラスメイトです。今空いている席を見れば判ることと思います。そして、彼の身になって感じて欲しくて、こうして朝お知らせすることにしました。
はっきりさせておきたいのは、彼は何も悪くないということです。噂があるかもしれません。でも、突然に拘束され監禁され、数時間に及ぶ暴行を受けて危うく死に掛けた彼のことを考えてみてください。変な薬も使われました。それの効果が消えるまで、あと数日を要します。そして、僕からお願いしたいのは、その薬の件についてです。
定期的に起こる発作を緩和するため、中和作業が必要です。その際に医務室へ行かねばならないため、僕と彼は四時間目の授業には間に合わないと思います。他にも普段とは違う点が出てくるかもしれません。それを、変に茶化したりして、彼を苦しめないで欲しいと思います。
皆の普段と変わらない態度が、彼の苦痛を一番和らげると信じています」
ゆっくりと淀みなく語られる言葉に、室内は水を打ったように静まり返っていた。
厳密に言うなら、今はまだ自由時間だ。それなのに全員が着席して、静かに聴いてくれている。それは携の人徳かもしれないけど、いいクラスだなと、切実に感じた。
はい、と誰かが恐る恐る挙手したようだ。
「その薬っていうのは、麻薬みたいな、幻覚が見えて気持ち良くなるとか、そういうもの?」
いつもはハキハキと喋る仕切り屋の渡辺が、腰が引けているように聞こえる。
「一般的に言われるドラッグとは違うみたいだ。──最初それの作用が判らなくてな、僕と保健医が付き添っている時に発作が起きたんだ。その時、彼の意識は殆どなかったと言っていい。だけどな、暴れながら、自分を自分で傷つけながら叫ぶように懇願されたよ。『今すぐ殺してくれ』って」
静けさの中で、息を呑む音、唾を飲む音までが伝わって来る。
ごめん、携……。
その言葉は、夢現で俺自身がおぼろげに自覚している言葉。
それを投げつけられた携の方が、痛かったろうと思う。そんな言葉を、自分で口にさせるようなことになって……何度謝っても、足りないと思ってしまう。
「そういう薬だと、認識しておいて欲しい。間違っても、ドラッグみたいに中毒で自分から欲しくなるような、気持ち良くなれる薬なんかじゃない。誰だって自分から使いたくなるような薬じゃないんだ。副作用も中毒性もないけれど、持続性がある。だからこれを乗り切れるよう、皆で協力して欲しい。何も変わった事はしなくていいんだ……ただ、今まで通り、接して欲しい」
声が途切れるのを待っていたかのように、チャイムが鳴り始める。
いつの間にか俯いて自分の足を見つめていた俺の肩に、ぽんと大きな手が載った。零れそうな涙を拳で拭いながら顔を上げると、ジャージ姿の坪田先生が自分も泣きそうな顔を歪めて、大きな口をへの字にして続けてポンポンと肩を叩く。
「入るか」
太い声に励まされて背筋を伸ばすと、先生に背中を押されるようにして、からりと開けられた前の扉から入室する。また俯いた顔に釣られて敷居を越えた後に止まりそうになる足。
その時、誰かが何処かで「頑張れ」と口にした。
それが呼び水になって「おはよう」「大丈夫か?」「辛くなったら言えよー」と口々に似たような声が上がり、また先生が背中を軽く叩いた。
思い切って顔を上げる。教壇は誰もいなくて、ぐるりと教室内を見渡せば、後ろの方の席の周、辰、それから廊下側の最後尾には携が、微笑みながら見守ってくれている。涙で霞む視界に、怖い顔はいない。皆が皆、頑張れと目で訴えてくれているのが判って、俺はこくこくと頷きながら「お、はよっ」と言うのが精一杯だった。
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