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第139話 立ち入り禁止区域

 関係者以外立ち入り禁止、とプラスティックの札が取り付けられたアルミサッシのドアを開けて入ると、二メートル程向こうに今度は鋼鉄なのか重々しいドアが鎮座していた。ノブはなくて引き戸についているようなスリットがあり、ウォルター先輩がそこに手を入れてドアの上部を見上げると、音もなくゆっくりとドアがスライドして行く。  目と口で三つの丸を拵えて見ている俺の手を引いて、先輩はその向こう側へと足を踏み入れた。  長い長い廊下が続いている。果てがないように見えて、途中でいくつか曲がり角があった。明かり取りなのだろう、天井付近はガラス張りで夕暮れを示す朱色の光が入っているのに、しんしんと冷えた空気が辺りを包んでいる。 「さっきのって、自動ドアなんですか?」  いつになく緊張した面持ちの先輩は、俺の手首を握り締めたままだ。離したら迷子になるとでも思われているのかもしれない。  否定は出来ないけれど。 「自動といえば自動かもね。登録された網膜と指紋に反応して開閉するようになってるんだよ」 「はあ」  じゃあ、上を見たのは網膜を読み取るセンサーのためか……。  そういう理解は出来たけど、流石世界のSSCという感想しか浮かばない。遠い世界の出来事みたいで、今だって足の裏が床を踏んでいるという実感も覚束ない。  携とひとつになれたものの、日曜の午後には自分の部屋に戻って体調のことを告げた。それを聞いた智洋は泣きそうになりながら喜んでくれた。  携と離れるのは寂しかったけど、俺と一緒にいる間には全然SSC関連の講習も受けずに執行部の仕事すら放置していて、それが酷く気掛かりだった。気にするなって言ってくれるけど、俺を中心にして世界を回すわけには行かない。だからといって完全に離れてしまうのも、恋人や親友以下になってしまうのも嫌だった。  けれどその後の一週間はやはり忙しかったみたいで、学校では休憩時間に少しは傍に居られたけど、昼休みは視聴覚だし放課後は執行部と講習だしで、肉体的な接触はゼロ。  俺ってそんなに淫乱だったっけって自己嫌悪しても、キスくらいはしたいなとか、せめてギュッて抱き締めて欲しいなとか、変な欲望で悶々としていたところにウォルター先輩から声が掛かったんだ。 「社長が、カズくんに会いたいって」  わざわざ昼休みに教室まで来てくれて、なんで俺がって驚いたものの、事件に関する何かだと思ったから素直に頷いた。  前にもちらりと聞いたように、許可された人にしか入ることが出来ない空間。そのことは、先刻の入り口を見ただけでも十分に納得できる。  物思いに耽っているといつの間にか先導する先輩の足が止まっていて、手首を解放された。ここが学園内とは到底信じられないような樫の重厚さを湛えた扉が押し開かれ、中へと視線で促される。  一歩入ると、本当に夢でも見ているかと思うような雰囲気にすっかり呑まれて足が竦んでしまった。  奥の窓を背に、黒檀のデスクに着いている男性が社長なんだろう。シャールさんのときにも感じた、浮世離れした美しさに陶然となってしまう。ウォルター先輩がユニコーンならシャールさんは天使。けれどこの人は別格だ。  窓から入る僅かな陽光が、黒と見紛うばかりの深い紫を照らし、何もかも見通しているような深淵を湛えた瞳も髪と同じ色。上着のボタンを外して両手の指を組み頬杖を突いてこちらを見つめる眼差しの鋭く冷たい色に、体だけでなく心まで竦んでしまった。 「ようこそ。わざわざ足を運ばせて申し訳ないね。体調は万全かな?」  意外にも日本語で話し掛けられ、驚いている間に先程までの近寄り難い空気が霧散していた。ふんわりと笑みを湛えた口元とうっとりするように細められた切れ長の目元が、柔らかな色を纏っている。  もっと近くにおいでと呼ばれて、縫い止められたように天然木の床材に立ち尽くしていた両足を叱咤して、恐る恐るデスクの前一メートルほどの距離まで進むと、その一メートルほど後ろにウォルター先輩も静かに足を運んだ。 「体はすっかり……」  聞き惚れる艶やかなテノールが耳の中に残ったまま、俺は静かに答えた。  そう、と頷いてから社長は先輩へと目を向ける。  近くで見ても同じ人間とは思えないような美しさで、まさに息を呑むという表現がぴったり。けれど決して女性と見間違うような美しさではなくて、中性的ながらもきちんと男性としての造形美だと断言できる。  青年と呼ばれる年代であるのは確かなのに、瞳の奥には老成した何かがあり、それがこの人をより神秘的に見せているのかもしれない。 「下がっていてくれたらいいよ」 「社長の言葉では通じないかもしれないので、通訳代わりです」  微笑んでいるのに何故か「失せろ」とルビが振ってあるように感じたのは俺だけじゃないようで、退かずにこれまたうっとりするような綺麗な笑みを作る先輩が肩を竦めた。 「失敬だな。私は世界中全ての言語に精通しているつもりなんだけどね」 「そういう意味で通じないわけじゃないことご存知ないです?」  なんかもうバチバチと電撃がぶつかっているみたいでいたたまれないんですが。何気なく凄い内容の会話している気がするのにそれどころじゃないですっ!  微笑んだまま暫く睨み合っていたけど、先に態度を軟化させたのはウォルター先輩の方だった。  ふう、と吐息して、少し苦しそうに眉を寄せる。 「ここまで来たら、一蓮托生だろ……」  視線を外して口を噤んだものの、そこから下がる気はないようで、社長は仕方ないなと僅かに首を傾げて認めたようだった。  一体何のことだろうと思いつつも、俺には立ち入れる空気じゃないのは確かで。ただ、静かに社長の話を待つのみだ。 「さて。今日ここに来てもらったのはね、今回の件での特別手当を付けようと思ってなんだが」 「特別手当、ですか?」  全くもって意味不明の話に、首を傾げるばかりとはこのことだ。 「そう、肉体的精神的苦痛への賠償と、その間ロスした時間への給与、それと未知の薬の被験者としての正当な報酬、ってところだね」  思いもしなかった単語の羅列に、思考が付いて行かない。知っている言葉ばかりなのに理解できない。  それは自分に言われていることの筈なのに、何のことだか意味が解らない……いや、解りたくない、と言った方が正しいのか。  血の気が引いて、酸素を求めて、口が開く。だらしのない格好だと解ってはいても、喘ぐように唇が開いて声は出せなかった。

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