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第140話 欲望をさらけ出せ

「私の日本語は間違っているかい?」  そんなこと、露ほどにも思っていないくせに。  ぎゅっと拳を作り、ようやく動くようになった首を静かに横に振った。 「つまり、普通の言葉にすると」  背後から、ウォルター先輩の声が降って来る。 「黙っていてごめんね。きみに使われるのを知っていてその効果を知りたくてわざと放置したんだ。慰謝料代わりに大抵の願いなら叶えてあげるから言ってご覧? てことで」  ほら通じてないじゃないかと小さく付け足すと、ああそういう風に言えばいいのか、なんてまた微笑んで。  でも、先輩の声は苦渋を滲ませていたけれど、この人からはそんなもの一滴も感じられない。それが本当だったとして、謝罪の言葉一つ口にしていないこの人は、俺の理解の範囲外に居る生き物なんだろう。  次第に震え始める体をどうにか止めたくて、ただ首を振った。もう一度。なんて答えるべきなのか、どうしたいのかも、今は解らない。  ああ、と思い出したように社長が口を開いた。 「そういえば、きみはこの学園が本当に治外法権だと知らないんだっけね。願書と一緒に配られた規定に書かれていた筈だけど、この私の管理下における場所で起こった全てのことに関して我がSSCに責任がある。それすなわち、私の一存でどういう処遇になっても法律には触れないということだよ」 「治外、法権……」  大使館とか、そういった感じなんだろうかと考えて、きっと不思議そうな表情になったんだろう、社長がくすりと笑みを零した。 「勿論、人権とかそういうのは尊重しているよ? だけど破格の授業料で質の良い教育を受けられる環境を提供しているんだから、少しは我が社の利益になることにも協力してもらわないとね」  ──確かに、その通りなんだろう。  一般的には公立高校の数倍の授業料と、更に諸経費を請求されるのが私立の学校だ。更に全寮制となれば本当なら俺みたいな中流家庭の子供が通わせてもらえるような学校じゃない。それを本校の星野原と同じ扱いにして更に将来性に投資するという形で、社員候補に研修をさせているのと同じ感覚で普通科の授業を受けさせてくれているんだ。  そして、その中でも携のように才能を見出された人だけが、特別な講習を受けてその後幹部候補として育てられていく。  だから、俺が黒凌出身者たちに目を付けられていて、なんだか怪しげな薬を使って〈躾〉とやらをすることも判っていて、それを止めなかった。その薬がどんな風に体に作用するのか知りたくて、俺を実験台にした……そう言ってるんだ、この人は。  そうして痛い目に遭ったんだから、治験と同じように報酬を出そうと。  そういうことなのか……。  ようやく、さっきのウォルター先輩の「一蓮托生」という言葉に納得がいった。  ウォルター先輩は、知っていたか気付いていたか、していて。更に、浩司先輩が何も知らずに俺のことを心配しているのも知っていたのに、ずっと隠していた。  だから、あんなに苦しそうにしていたんだ。  ふらりと体が揺れて、一歩だけ後ろに下げて体を持ち直そうとした。その背に、先輩の手の平が添えられる。 「ごめん、カズくん……今更、どうにもならないけど」  声音が、やっぱり苦くて。だから俺は、振り向かずに首だけ振ることで、先輩が悪いわけじゃないと告げる。  もっと見方を変えれば、別に社長だって何か俺に仕掛けたわけじゃない。実際に手を下したのは結局のところあいつらで、何を持っていようと、どんなことになろうと、強姦したり薬を使ったりしない選択肢だってあったんだから。  そう思うと、何故今更という疑問が湧いてくる。  そんな自分をわざと貶めるような事を告げなくても、何か見舞いの言葉を掛ける位で十分な筈だろう。この人の立場なら。  それなのに、どうしてこの人は、こんなことを言うんだろう。  俺に言って、どうしようっていうんだろう。 「ついでに言うと、ウォルターはね、私の言いなりにするしかなかったから仕方ないんだよ。恨まないでやってね? 彼の国への融資を止めるのも、私の一存で決まることだから」  駄目押しのように言われる言葉も、意味のない空言にしか感じられない。  言っている内容が真実なのは、シャツ越しに伝わる先輩の手の平の熱が教えてくれている。  それでも。 「何が欲しい? 本国で手掛けている最新式のコンピュータを進呈しようか? こちらでは市場に出回るまでかなりの年数があるよ。現金でも良いけどね」  淡々と言葉を紡ぐその人の瞳を見つめて、腰に力を入れて姿勢を正した。じっと見ていると本当に吸い込まれそうな深い闇がある。  本当に人間なんだろうか、この人は……。  人を誑かすために悪魔の姿は美しいのだという。この人にかかれば大抵の人なら簡単に落とされてしまうだろう、一種魔的な美。そして、見方を変えれば天使のように神々しく、今同じ年齢のその他大勢が過ごしてきたものよりも、ずっとずっと濃密な人生を送って来たんだろうと思う。  ──この人に、俺の言葉は通じるんだろうか。 「なにも、欲しくはありません」  ようやく口を開いた俺に、社長は瞬きをした。 「仁先生と、友人が、十分な手当てをしてくれました。クラスメイトも温かく見守ってくれました。それだけで幸せなことなんです。場合によっては、軽蔑されていじめられるかもって、覚悟してましたから」  それに、と続ける。ようやく動き出した舌が止まらない内に、伝えておきたいことがある。 「この学園に入れてくださって、ありがとうございます。それと、川上くんとか他の退学者に対しても破格の扱いをしてくださったことにとても感謝しています。だから、報酬とかそんなものは頂けません。お……僕にとって、ここで皆と生活できることが幸せなんです」  目を瞠って俺の答えを聴いていたその人は、暫く向こうからも俺の考えを見通そうというかのように静かに視線を合わせていた。この人の手にかかれば、嘘とかおべんちゃらなんて易々と見抜かれてしまうだろう。だからこそ、そういう意味ではリラックスして視線に身を任せていられる。  ふっ、と息を吐いて、腕を下げた彼が薄く微笑んだ。 「まあ、真実だろうけれど、ちょっと違うかな」  入室した瞬間に感じた刺すような冷気が、目から脳を貫く。 「きみの唯一にして最大の欲望と、私の求めているものは同じだよ。素直に言えないなら私が貰おう」

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