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第141話 きみと一緒なら [完]
「え……」
なに、俺は嘘なんて言ってないのに……報酬って、そういう意味だろ?
言葉を失っていると、そっと背後でウォルター先輩が呟いた。
「良く考えて、言葉を選んで、カズくん。この人をそこら辺の教師と同じに考えちゃ駄目だ。学園長とも違うんだよ」
学園長は、思っていたよりも気さくだったけれど、分別を備えた大人の男性という雰囲気だった。だけどこの人は何かが違う……決定的に。それは、人種の違いとか年齢差とか立場だとかそんな目に見えるものじゃなくて、きっと魂からして異なっているんだと、今はっきり認識した。
俺の唯一の欲望──
まさか、それって。
逸らせない視線の向こうで、気付いた俺に気付いたらしく、笑みが深くなる。
そう、それだよ。そう言われているようで、背筋に悪寒が走った。
「携は、ものじゃありません」
「つまらない答えだ」
震える唇でようやく声にしたのに、一言の元に切って捨てられる。
そんなこと、言われたって……。
ぐ、と握り締めた拳の行き場がない。
いつの間にか窓からの陽光が陰り、目を凝らさないとこちらからは表情が読めなくなっていた。
「彼の未来に、きみは必要かな。三年間、この学園で身につけたことを元にきみは何処かの大学で適当に学び適度に遊び、青春とやらを謳歌するのだろう。その間に彼は専門的な知識を身につけて、こちらで最高峰の大学で学ぶか連邦に留学してあちらで本格的に我が社の教育も受けることになる。その後彼はこの小さな島国を統べる存在になるよ、勿論表立ってということではないけれど」
茜色に紺青が混じり、室内はどんどん暗さを増していく。その中にひっそりと溶け込みながら、艶やかなテノールが確たる未来を告げていく。
「そこに、きみの居場所はあるのかい」
どぷりと、足元が沼地になって沈む感覚に襲われた。
呼吸の音さえも雑音に感じられて、息が苦しくなって胸元のシャツを握り締める。
──『良く考えて、言葉を選んで』
囁かれた言葉が、耳元を清涼と吹き抜けていく風のように脳裏に蘇った。
正論も常識も、この人には通用しない。綺麗事を並べても響かない。全てを見通す瞳が、きっと今もずっと俺を射抜くように見つめている。
思い出せ、俺が信じている携を。
──「俺は和明の全部が好きだって言っただろう! どんな和明だって、和明は和明だ」
──「他の誰に何を言われてもいい。和明だけに必要とされたいのに」
いつだって、鮮やかに思い出せる。そう言った時の、瞳の奥の炎も。
──「ずっと前から、俺は和明のものだよ」
もの扱いするななんて、正論すぎて馬鹿馬鹿しい。その言葉の示すものなんて、本能で嗅ぎ取っているのに。
「あります、俺の居場所」
見えない瞳を、挑むように見つめる。
「驕りだと鼻先で笑われても構いません。俺が、携にとっては生きている意味そのもの。
俺が居なければ、どんな未来も携にはありえない。
答えを見つけました──携と過ごす、時間を下さい。俺の居場所は、ずっと携の傍にあるから」
凍り付いていた空気が、ふわりと緩んだ気がした。変わらず表情は不明なのに、微笑の色が変わったのが感じられる。
「よかろう。土曜の夜と日曜の午前中は、こちらには呼ばない。それが報酬だ」
緩んだ空気の中を泳ぐように手を伸ばしてきたウォルター先輩に、そっと肩を抱かれた。
視線の先で社長の手が優雅に動き、室内にぽうっと柔らかな明かりがいくつも灯る。壁に付けられているのは、ランプの形をしたライトらしかった。明らかに蛍光灯とは異なる光度の低い明かりが目に優しく、年代を感じる書棚に囲まれたこの部屋の雰囲気を守っている。
「ぎりぎり合格、かな」
背凭れに体を預けてゆったりと微笑むその顔に、先程の鋭利な印象は感じられない。顔立ちさえ除けば、気さくな好青年といった風情で肘置きに両腕を載せている様子は別人かと目を疑うくらいだった。
カチャリとノブが動く音がして、入ってきたのとは別の扉から携が静かに入室して来た。規定服のブレザーのままのところを見ると、俺と同じように放課後そのままこちらに来たのかもしれない。
ぽかんと立ち竦んでいる俺の傍まで来ると、「もういいですよ」と金髪王子の手をそっと剥がして抱き締められた。
「良かった、俺の気持ち、通じてた……」
二人きりの時より、やや硬い表情ではあるものの、唇が震えているのが判る。
お互いの体温が馴染んだ頃、少しだけ怒りを含んだ顔が社長に向けられた。
「御戯れもほどほどになさって下さい。今度和明を苛めたら許しませんから」
「おや、怖いねえ。苛めてなどいないよ、全部真実じゃないか」
答える彼の顔と口調は飄々としている。
「そのやり方で何人再起不能にしたのか、噂くらいは聞き及んでいますよ」
いつになく棘のある声音に驚いたものの、久し振りに抱き締められて腕の中で心も体も緩んでしまう。当然顔だってふにゃふにゃなんだろうな、今の俺。
「大丈夫だったじゃないか、きみの予想通り。その子は強いよ、あれほど言われても瞬間的な怒りしか感じなかった。途中からは全て赦して受け止めていたじゃないか。
そういう強さが、きみには必要なんだろう?
守るものがある方が、強くなれるタイプだよ。きみたちは」
ふふ、と心底楽しそうに笑う声が響き、携は呆れたように溜め息をついた。
すっかり日が落ちて、いつもなら寮で夕飯を食べている時間も過ぎていた。それでも俺たちは閉ざされた通路を戻った後、そのまま屋上まで上がった。
いつか周がここに連れ出してくれた。蒼から茜色に染まる中間の、移り行く空の色が好きなんだと教えてくれた。悲しくて寂しくて誰でもいいから縋りつきたくて……それでも携を信じていようと決めたあの時。もう、遠い昔のことのように思える。
「もうすっかり夏の空気だな」
満天の星空を見上げて、携が口元を綻ばせた。
遥か下の草むらでは、羽化したばかりの虫たちが愛の歌を奏でる練習を始めている。
まだまだ途切れ途切れで下手っぴだけど。
「短い間に色々あったな~」
同じように夜空を見上げながら、両腕を振り上げて大きく伸びをした。
生温い空気が胸の中を満たし、それをゆっくりと吐き出しながら腕も下ろす。地元は住宅地だから結構外灯の明かりも沢山あって、深夜も営業している店舗が視界にあれば殆ど星なんて見えなかった。地方都市だからそんなに空気は汚れていない筈なのに残念で……。
だけどこの学園は、実家より遥かに高い場所にある上、目に入るのは草木と空ばかり。綺麗に整備されているこの屋上庭園だって、夜の利用を目的としていないから、足元に僅かに常夜灯代わりのライトがあるだけで、月と星の明かりを全身に感じることが出来る。
小等部の山の学習以来の空気だった。
「和明」
少し離れた場所で、名前を呼ばれて。深呼吸を繰り返してはなんとなくノスタルジックな気分になっていた俺は、携にゆっくりと顔を向けた。
「好きだ。きっとずっと変わらないと、自信を持って言える」
──不確定な、未来。それすら、携が断言するなら必ずそうなるって信じていられる。
「うん。俺も、きっと同じだけ好きだよ。携と一緒なら、いつもより少しだけ強くなれる気がするんだ」
「一緒にいよう。和明のためなら、俺だっていくらでも強くなってみせる」
二年と少し、過ごしてきた日々の分だけ、俺たちは知っている。
お互いの声、仕草、僅かな表情の変化から読み取れる心の動き──そして、体の隅々まで。
それでも、全てを解り合えているなんて思わない。
けれど、解らなくても、信じていられる。
ふわりと両腕を広げた胸に、しがみ付くように飛び込んだ。
抱き締めてくれる腕が、頭を撫でてくる手の平が、それ以外の全部が愛しい。
いつか、教えてあげる。
どんなことがあっても、携が傍にいるだけで鼓動が安らぐんだって。
明日だって未来なんて解らない。
でもこうやって触れてくれる手があれば、俺はいつだって幸せになれるよ。
だからずっと傍にいて、離さないでいて。
一緒なら、何処にだって行けるし、何だって出来る気がするから──
Fin.
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