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第15話 十五歳
サトルさんとの電話の後からは、ティータイムとあって店は混雑した。テイクアウトの予約注文を受け、それを受け取りに来た人に渡すということが増える時間帯でもある。
テイクアウト用のコーヒーを購入するのは、休憩中の会社員が多い。ここに来るお客さんは数人でまとめて注文してくださる方が多く、必死に集中しなければ捌ききれないほどに忙しくなった。
おかげさまで、みんなの頭を抱えるような問題からは、その間だけでも解放されることが出来ていた。
ピークが過ぎた頃、バックヤードではタルトタタンの残数チェックをした俺と碧 で、追加分を焼くための準備を始めていた。
「リョウ、そういえば明日はどうするの? 行けそう?」
碧 がタルト生地の解凍具合を確認しながら、明日の予定を聞いてきた。最近混乱する出来事が多かった俺は、明日が何月何日なのかもわからなくなっていた。
「明日? 何かあるの? あれ? 明日って何日だっけ?」
すると俺たちの話を聞いていた葵さんが「はあ?」と大声を出した。そして俺の顔をじっと見たかと思うと、いきなり楽しそうに笑い始めた。
「鳩が……豆鉄砲を喰らったって例え、本当なんだな」
ワハハと大声をあげて笑う葵さんを見ながら、俺は呆然とするしかなかった。
「え、待って。本当に何がある日なのかわからない……」
「ちょっと……普通忘れる? 明日、卒業式なんだけど。先生から何も言われてないの?」
心底呆れたという表情の碧 を見て、俺は二発目の豆鉄砲をくらった。そう言えば、アプリに連絡が来ていた。
「えっ!? うそ、もう明日なんだっけ!?」
「あーもう。そういうところあるよね、リョウって。葵さん、大丈夫ですか? 明日ちゃんと休み取ってます?」
惚けたところのある俺に軽い苛立ちを覚えたであろう碧 は、それを隠しもせずに葵さんの方へと向けていた。葵さんはそんな碧 に苦笑いを返しつつ、「まかせろ。ちゃんと取ってるぞ。三人ともここには来ない予定でシフトを組んであるから、心配するな」と言った。
ここ数日のことを考えると、直前に調整していたら俺も休みを取り忘れていたかもしれない。でも、葵さんはその日は必ず休めるようにと、随分前に有給の申請をしていたらしい。
俺はシフト表を開くと、三人分の明日の午前中のシフトが全て有給申請で真っ赤になっているのを確認した。
「おっ、すげ。随分前からちゃんと午前休取ってある」
有給申請をした日づけは、四月十日になっている。学校から年間の行事予定が配布された後、すぐに休みをとったようだ。
「すごいなあ、葵さん。ちゃんと覚えてたんですね。俺、全く忘れてましたよ……来るんですね、卒業式」
葵さんはふっと息を吐くと、とても眩しいものを見るように目を細めた。そして、大切なものを扱うように俺の肩にそっと手を乗せた。
「当たり前だろ。行くし、忘れるかよ。お前のハレの日なんだからな」
「え?」
——俺のハレの日……?
俺には葵さんが言っている言葉の意味が理解出来なかった。
俺の心の中には、今でも根強く残っている感覚がある。それは、どれほど大切に扱われていると感じようとも、結局大人たちは俺よりも自分たちが大切なんだという、諦めのような気持ちだ。葵さんと同居を始める時に指摘されて、初めてそのことに気がついた。
俺と碧 は、大人が自分たちのために好意的に動くという経験に乏しく、どうしてもそれをされた時に卑屈な感覚が生まれやすい。だから、それを感じた時には、確認の意味も含めて、必ず口に出して確認するように言われている。
「そんな、俺の卒業式だからって、ハレの日なんて大袈裟な……」
葵さんは俺のその言葉を聞いて、ああと納得したような顔をした。俺がどう言うつもりでそう話すのかを、あの人は的確に理解してくれる。
「俺には大切なんだよ。俺の家族のハレの日は、俺にとってもそうだ」
俺に届きやすいようにと強く言い切った葵さんに、それでも俺は戸惑った。そうなのかもしれない、だけど、葵さんの休みを俺のために一日奪うのはどうしても忍びない。
そう考えているだけで、胸の辺りがギュッと縮むような感じがした。
「どうかした?」
碧 が俺の顔を覗き込む。俺はただ、「俺のために休みをとる?」そう繰り返すことしか出来なかった。
「そりゃあそうだろ? 他の人に行かせたくねーもん。それよりもお前、これ今に始まったことじゃないぞ。入学式だってそうだっただろう? 参観とかは親代わりが行くと色々言われるかもしれないから行ってないけどな。進路の相談だって俺が行ってるし、お前が病気すると休み取ってたし。忘れたのかよ」
葵さんは軽く剥れながら、冗談めかしてそう言った。碧 は俺を見ながら「うん。何度もあったと思うけど? 卒業式はダメなの?」と訊く。二人の言葉を聞いていると、鼻の奥に痛みを感じ始めた。
「お前……何泣いてんだよ」
俺には、どうしても自分という存在が誰かの負担になるということに対して、罪悪感がある。だからこうやって、葵さんが自分の権利を俺のために使うということそのものを、とても悪いことをさせたと捉えてしまうクセがある。
そんな風に取る必要がないと何度も言われているのに、それでも卑屈になってしまう自分が嫌になる。
「俺がしたくてするんだよ」
葵さんは、毎回そのことを自らやりたくてやっているだけだと説明してくれている。俺は本当に手のかかる子供なんだと思う。
「お前が責任を感じることはないし、俺がしたいことでお前が辛くなるのは俺も嫌だ。卒業式には行かない方がいいのか?」
「そうじゃありません。でも……」
小さい頃に負った心の傷は、その後いくらケアをしてもなかなか修復が難しい。だからこうやって愛情を示されても、自分に自信が無いことがきっかけになって、相手の好意を疑ってしまう。
それを信じられる日が来るまでは、この一連のやりとりを繰り返すしかない。
「信じられないんだな?」
葵さんはそう言うと、俺を腕の中に閉じ込めて力一杯抱きしめた。ハグなんて生やさしいものじゃない。趣味で格闘技をやっている人が思い切り力を込めて抱きしめている。骨が軋みそうなほどの抱擁だ。
「まだ五年しか経ってないけど、お前は俺の大切な家族だ。人生の節目は、俺が祝いたい。誰かにさせられるんじゃない、俺がそうしたいからそうするだけだ。俺はこの先も一生家族は持てない。だから、親の真似事をさせてくれているだけで、お前に感謝したいくらいだ。だから行かせてくれよ。いいだろう?」
——俺の両親は、俺が明日卒業することを知っているのだろうか。
生きているのに俺に関わろうとせず、だからと言って嫌われてもくれない両親。中途半端な愛情をかけ、繋がりを持ったまま放置されていた。もし卒業する日を知っていたとしても、何もしないだろう。
でも、葵さんは「ハレの日」だと言ってくれた。そして、明日は見守るつもりで休みをとっている。それを楽しみにしてくれている。
自分の友達や知人が大変な時なのに、当たり前のように自分のために時間を取ってくれる。そのことが、俺の心を激しく揺さぶった。
——家族が持てないって言った。初めて聞いた。俺が役に立てるのなら……。
俺だけが葵さんを必要としているのではなくて、葵さんも俺を必要としてくれている。そう思ったら、少しだけ心が軽くなった。そして、俺にそう思わせるために、少しだけ秘密を漏らしてくれたことも、純粋に嬉しいと感じた。
「来てください。来てほしいです」
そこまで話すと、涙腺は決壊した。彼女の目の前で、ぐちゃぐちゃに崩れた顔をして、嗚咽を漏らしながら泣き崩れてしまった。そんな俺の頭を、葵さんは手のひらで優しくポンポンと叩いた。
「きったねえ顔して泣いてんなよ! 明日、目が腫れんぞ!」
夕暮れのオールソーツに、俺と葵さんの泣き笑いがこだました。少し離れて碧 が寂しげに微笑んでいる。
俺たちは明日、中学校を卒業する。
肉親でも無い優希さんと葵さんの優しさに包まれて、ここまでなんとか生きてきた。俺は優希さんが世話をしてくれなかったら、五歳くらいで死んでいただろう。それが今、十五歳で健康に生きている。
進学校の高校へ合格して、そこへの入学手続きも全て終わっている。道を切り開くことの重要性を、二人の背中から教わったからこそ、負けずに生きてこれた。
これからの人生は、自分たちの人生の選択肢を増やして少しでも恩を返せる人間になるために生きていく。そう碧 と誓っている。
「よし、今日の終業まであと少しだ。最後までちゃんとやって、明日を迎えような」
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