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第17話 正体
◇◇◇
「葵さん、寝るまでにすること終わりましたよ」
今日は美咲さんが来た後から客足がぱったりと途絶え、葵さんは早めに締めの作業に入った。掃除が済むとすぐに沙枝さんと交代をして店を出て、珍しく|碧《あお》と三人で外で食事をして帰ってきた。
『帰ってからゆっくり話そう。多分、俺うまく話せないから』
そう言われたので、寝る準備まで全て整えてからにしようということになった。俺も葵さんも明日の準備を終わらせて、風呂にも入った。歯も磨いた。本当に寝るだけの状態。そのタイミングで話をするのも久しぶりだった。
「おう。俺の寝室で話そうか。もしかしたら過呼吸起こすかもしれないから、布団に入った状態で話してもいいか?」
「え? あ、はい、大丈夫ですけど……そんな辛いならやめておきます?」
俺の問いかけに、葵さんは一瞬迷いを見せた。唇を噛んで思案顔になり、逃げられるのであれば……と一瞬巡ったのが見てとれた。それでも、被りを振ってその迷いを振り払うようにすると、「いや、もう話して楽になりたい」と困ったように笑った。
二人で葵さんの寝室に移動する。葵さんのベッドはかなり大きい。キングサイズのベッドの、しかもロングを一人で使っている。葵さんは、信じられないくらい寝相が悪いからだと言っていた。
その大きなベッドの大きくてふわふわの布団の中に、葵さんは潜り込んだ。驚いたのは、その寝姿だった。
身長180cmの葵さんが大の字になっても余裕のあるベッドに、まるで胎児のように丸まって寝ている。オフホワイトの布団の海の中に埋もれている大きな子供のように見えた。
「そんなに不安なんですね」
「そうだな。何よりもこれを話したことは三度しかない。一度目は優希に話して全肯定された。そして二度目は親に話して死ぬほど否定された。三度目はサトルに話して理解された。二度目の否定が、俺の中にこびりついてしまっているんだ」
「そうなんですか。じゃあ、こうしてたら少しは安心できますか?」
俺はベッドの端に腰掛けた。そして、そのままよじ登って行き、同居を始めた頃に葵さんが俺によくしてくれていたように、背中と背中をくっつけるようにして隣に寝転んだ。
「はは、懐かしいな」
背中の真ん中のところに温もりを感じると、じわじわと幸福感が高まっていく。誰でもそうなのかは知らない。俺と葵さんはそうだった。だから昔は二人でよくこうした。懐かしさが少しでも不安を消してくれたらいいと思っていた。
そのまましばらく無言で過ごした。躊躇いの気持ちが背中から伝わってくる。
話そうとして息を吸い込むために横隔膜が動く。それは俺の背中に振動となって伝わってくる。それでも、その準備は言葉へ繋がることはなく、全てがため息として昇華されていった。
ずいぶん長いことそうしていたように思う。葵さんが口を開くまで待とうと思って、布団の中に顔を潜り込ませた。その時、ふわっと嗅いだことのある香りが立ち上った。そして俺は気がついてしまった。
——これは、俺から聞いた方がいいのかもしれない……。
この香りは、俺も知っている。あの二人の香りだ。そのどちらのものであっても、ここからそれを感じるというのは、あまり人に知られたくないことだろう。いくら待っても自分からは言い出せないかも知れない。失礼を承知で俺から切り出すことにした。
「葵さん。布団から香水が……」
葵さんはその言葉を聞いて、ガバッと起き上がった。それでも、そのまま黙り込んでいる。心配になって葵さんの顔を見るために振り返った。
「俺……、俺は……恋愛感情が普通じゃない」
その目は、俺の方を向いているけれど、俺を見ていなかった。多分、否定された時の恐怖がその時の様子をフラッシュバックさせているのだろう。
「恋人がいますよね? それが何か悪いことだと思ってるんですか?」
目を伏せながら「相手が……許される相手じゃない」とポツリとこぼした。その言葉を呟いてからは、目の中に諦めの色が浮かんだ。何かに対して観念したようだ。
それでも次の言葉を発することが出来ない。息をすることだけで手いっぱいな様子で、震える手を握り締めながら必死に冷静を装っていた。
「それってもしかして、後藤さんですか?」
追い討ちになるかなと思いつつ声をかけた。ただ、その言葉に対しては「気がついてたのか?」と言うだけでそれ以上の反応はなかった。それに、後藤さんは独身だし、別に付き合っていても問題はないはずだ。少なくとも、俺が知っている限りでは無いはずだ。
「サトルさんと優希さんのことがあるのに、今更男同士で付き合ったからって問題ありますか? 俺は無いと思うんですけど、なんで俺に嫌われるって思ってたんですか?」
葵さんは大きな目を潤ませながら、俺の方をじっと見ていた。「そうだよな。お前はそういう子だ」そうこぼした後も、まだ辛そうな顔をしている。
「リョウ、でも気がついただろ? この香りのする人がもう一人いるってこと」
確かに気がついた。でも、そこに意味があるのかと考えたら、答えがわからない。そして、さすがにそれを俺から聞いていいのかどうかがわからない。
「その香りのする人……その人も関係あるんですか? それは俺から言うのはちょっと……」
切り出し方がわからずに、結局口に出すことが出来ない。間違えていた場合にとても失礼だろうと思ったからだ。葵さんは、ふうとため息をついて俺の方へと近づいてきた。そして、俺のスエットの袖を握り締めた。
「その二人は同じ香水を使ってる。もう一人は……姉さんだ。姉さんと後藤さんが付き合ってるから」
「えっ? 沙枝さんと後藤さんも付き合ってるんですか? それって、後藤さんの二股……」
「違うっ!」
葵さんが突然殺気立った。握った手に力を入れすぎて、爪が肉に食い込みそうになっている。手を怪我すると仕事に差し支えてしまう。俺は慌てて葵さんを止めようとした。
「葵さん、ごめんなさい。後藤さんに失礼なことを言いました。そんな人じゃ無いですよね」
「そうだ! 後藤さんは二股なんかしない! そんな汚い関係じゃない!」
葵さんは俺の肩を掴むと、そのまま体を揺さぶった。細身だけど力が強いためか、なかなか振り解けない。ふと葵さんの顔を見ると、パニックになりかけていた。
——絶対やり返されるけど、仕掛けるしかないな。
痛いことは嫌いだけれど、仕方なく葵さんの顔面目掛けて右ストレートを放った。
「うぐっ!」
もちろんそれが当たるとは全く思っていなかった。無意識でも防御され、やり返されると予想していた。そして、その通りに俺は腹を打たれた。
「っは……ぃってえ」
痛いと言うことも出来ないほどの痛みが一箇所に集中する。そこにまるで磁石でもあるかのように、体が丸まってしまって体を起こすことが出来ない。
小さい頃からやっていた空手を、俺たちを守るためにずっと続けている葵さんのパンチは、パニックを起こしていても強烈だった。芋虫のようにもそもそと動きながら呻いていると、葵さんの目に正気の光が戻ってきた。
「リ、リョウ! 大丈夫か……ごめんな、息できるか?」
痛い思いをして正解だった。俺に何かがあれば我に返るだろうという予想通りに、葵さんのパニックは治った。自分より俺を優先する葵さんだったらそうなるだろうと思っていた。
「だい……」
それでも、声を出すと痛む。ハンドサインで大丈夫であることを伝えると、少しだけホッとした表情を見せてくれた。パニックだったとはいえ、俺を殴ってしまったことを反省しているようで、マットレスの上に正座している姿がちょっとだけ可愛らしく見えた。
葵さんはそのままパジャマをぎゅっと握り締めた。どうやら腹を据えたらしい。さっきよりは余裕のある顔で俺をじっと見つめてきた。
「あの、な。後藤さんが二股して俺と沙枝姉さんと付き合ってるわけじゃないんだ。俺たちは、三人で付き合ってるんだよ」
俺は腹をさすりながら「……はい?」ということしか出来なかった。言われた言葉の意味を考える。三人で付き合う……。
「三角関係ってことですか?」
葵さんはそこでやっと笑顔を見せてくれた。
「それはちょっと違うだろ」
「でも、え、じゃあ、葵さんは後藤さんも沙枝さんも好きってことですか?」
「そう。沙枝姉さんは俺と後藤さんが好き。後藤さんは俺と沙枝姉さんが好き」
「信じられない……そんなことあるんだ」
そうか……よくわからないけれど、三人はそれで納得して付き合っているみたいだから……と考えていて、ふと気がついた。
「あの、沙枝さんと葵さんって血が繋がってるんじゃないんですか?」
「いや、実は俺たち全く血は繋がってないんだよ。親が再婚同士で、お互いに連れ子なんだ。ちなみに俺には兄が一人いる。その兄とは血が繋がってる」
「え!? お兄さん!? 知らなかった……」
今聞いたことを全て繰り返しながら「そうなんだ」「知らなかった」「本当にそういうことってあるんだ」と独言ていると、葵さんが俺の顔をまじまじと覗き込んだ。
「お前、俺のこと気持ち悪くないの?」
「え、どうしてですか?」
「どうしてですかって……すごいなお前は。一人が二人を好きだって話すと、必ず頭がおかしいって言われるぞ? お前にはそういう感覚はないのか?」
「それは……好きなんだから仕方なくないですか?」
俺の返事を聞いた葵さんは、それはすごく面白い顔をしていた。おそらくこれまで一度も経験したことのない回答だったんだろう。でも仕方がない。俺は本当にそう思ってしまうのだから。
「三人のうち誰かが嫌な思いをしているのなら考え直してて欲しいですけど、そうじゃないんでしょう? なんていうんでしたっけ、そういうの。一夫多妻制?」
「結婚してるわけじゃないからな……ポリアモリーだな。複数愛者。お互いが平等であることが特徴だって言われてる。俺と後藤さんはバイでもある。ただ、俺はあの二人にしか恋愛感情を持ったことが無いから、それ以上のことはわからない」
「そうなんだ……いやでも、やっぱり俺には何が問題あるのかわかりません。俺、変なのかな?」
知識としては知っていた。それでも目の前にいる人がポリアモリーだと聞いても、全くピンとこない。ただ、あの三人が恋人同士だと聞いて、真っ先に浮かんだことは「葵さんはちゃんと幸せなんだ」という安堵だけだった。
——そうだ、それだ。俺が一番思ったこと。
「葵さん。俺、葵さんに恋人が複数いることは気になりません。多分、相手があの二人だからです。それと、葵さんが幸せだってわかったことが嬉しいです。それさえわかれば、他のことはどうでもいいと思ってます」
まるでずっと解けなかった問題が解けた時のような爽快感を味わっていた。
この五年、俺たちを幸せにすることに全力をかけてくれている人に、少しでも幸せになって欲しいと願い続けていた。時折寂しそうにしている横顔や、言いたいことを我慢して目を伏せている姿を見るたびに、あの人を癒してくれる人がいてくれたらいいのにと願い続けていた。
俺が葵さんに返せることなんてたかが知れている。それがずっともどかしくて苦しかった。だからだろうか、信頼している後藤さんと沙枝さんが葵さんをずっと幸せにしていてくれたとわかったことで、俺の心の中は嬉しいという気持ちだけでいっぱいになっていた。
気持ち悪い? 頭がおかしい? そんな事を思うわけがない。
「葵さんが幸せなら、常識なんてどうでもいいです」
本当に心からそう思った。
「そっか……そんなに簡単に受け入れられるものなんだな。親に話した十年前なんて、絶対別れろだの病院に行けだの失敗作だの散々言われて……。あんまり大きい声で親子喧嘩ばっかりしてたから、近所にもバレちゃって。当時は優希と一緒にいると小児性愛者と複数愛者の異常者同士ってめちゃくちゃ言われたよ」
「そんな……酷い」
「でも、世の中はマイノリティは弾き出したいもんだ。統制が面倒になるから。簡単に効率よくやりたいんだよ。でも、そう言われても、俺たちも幸せに生きる権利はあるからな。だから、今みたいな生き方を選択した。誰にも迷惑はかかってないはずだ」
それは俺もそう思った。今話してもらうまで、俺すら気がつけなかったのだから。三人の関係性に気がつけないほど上手くやってきたのだろう。それはつまり、誰にも何も迷惑をかけていないことになる。
「でも、どうして今話そうと思ってくれたんですか?」
葵さんは、まるで天使のような優しい笑顔で俺の方を見た。そして、そっと殴った場所に手を当てると「痛かったよな」と呟いた。
「お前が俺を支えようとしてくれたからだよ。俺に支えたくなるほどの価値があるのかどうか、もう一度考えて欲しかった。それと」
顔を上げて座り直した葵さんは、俺の目をまっすぐ見ながらはっきりと強い声で言い切った。
「ミドリをこの部屋へ呼ぼうと思うんだ。そのために、俺が複数愛者であることをミドリにも言わなければならない。あいつはお母さんが浮気性でいろんな男と遊んでるだろう? だからミドリに複数愛者を受け入れられるかどうかが不安だったんだ。だから、ミドリに話すその前にお前に聞いて欲しかった」
「碧 のことを一番わかってるのが俺だから、ですか?」
「そうだ」と答えながら、葵さんはまた目に不安の色を浮かべた。すっと目を逸らして伏せてしまう。俺はもうそれをさせたくなくて、葵さんの膝をバチンと叩いた。俺の突然の行動に驚いた葵さんは、パッと顔を上げて俺を見た。
「もう下向かないでください。何も悪いことはしてないんですから。碧 だって同じことを言いますよ。三人が幸せならなんだっていいです。だって、俺たちはキレイごとだけじゃ人は幸せになれないことを知ってます。言葉じゃなくて、本当に手を差し伸べてくれた人たちの幸せを、願わないわけないでしょう?」
ふん、と鼻を鳴らしながら俺は得意げな顔をして見せた。葵さんはそれが気に入ったらしく、楽しそうに肩を揺すった。
「そうだな。お前たちはそういう子だ。優しい優希に育てられて、俺と一緒に働いた。いろんな人に会ってきたことが活きてるんだろうな。すげーホッとした。……ありがとう、リョウ」
父親代わりとして俺を育ててくれた人は、たくさんキレイな涙を流した。これまでずっと支えてもらうだけだったこの人の、弱い部分を初めて知った。それを教えてくれたことが嬉しかった。本当に、心の底から嬉しかった。
——俺たち家族なんだな。
今日ほどそう思えたことはなかった。多分、一般的な家族はここまで自分のことを話したりしないだろう。だから、そういう意味では一般的ではない。でも、それでいい。普通とか、普通じゃ無いとかは重要じゃない。
人になるべく迷惑をかけないようにしているのであれば、誰にも何も言われる筋合いはないのだから。
「俺と碧 は、葵さんの幸せを願ってます。それだけは、忘れないでください。支えます。その気持ちは変わりません」
葵さんは俺を引き寄せると、また骨が軋むほどの力で抱きしめた。
「ありがとう、リョウ」
一度溢れ出した涙はなかなか止まらず、子供のように泣く葵さんに抱きしめられたまま、俺はその涙を拭い続けた。
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