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天使のキスには要注意

 豪快に鉄鍋に叩きつけられる玉杓子、店内に充満するごま油の香り、景気の良い赤と金の織物。  運ばれてきた炒飯はツヤツヤと輝き、湯気の上がる麻婆豆腐はいかにも熱そうだ。そして特に俺が好きなチリソースがたっぷり掛かったプリプリの海老は食べる前から美味しさが確定している。どれから食べようかと迷っていると正面に座った恋人が口を開いた。 「エビチリ少し辛いかも。光くん食べられる?」 「光、辛いのダメだっけ?」  俺が返事をするよりも早く隣に座った甲斐が反応した。早くも炒飯で頬が膨らんでいる。 「辛いの苦手って言ったっけ? 人並みに好きだよ」  大好きな彼氏と、仲の良い友達、食欲が掻き立てられた状態で目の前に並べられた中華料理。ご機嫌にならない理由なんてひとつも無い。  しかし爆弾が落とされたなら話は別だ。 「光くん口の中が敏感だからてっきり辛い物は苦手だと思ってた」  部活終わりで空腹がピークを迎えた時、甲斐が中華料理が食べたいと言い出した。程よく疲れた身体と空きっ腹を抱えた状態で聞く「中華料理」というワードはこの上なく魅力的だった。俺は甲斐の提案を快諾し、急げ急げと帰り支度を進めた。  そして忘れ物はないかと確認し、スマホを見ると大好きな人からメッセージが届いていた。 『仕事が早く終わったので一緒にごはんでもどうですか?』  メッセージが届いたのは15分前だ。社会人の恋人は忙しく、時間を合わせるのは簡単ではない。それでもこうして時間ができると俺を気に掛けてくれる細やかさがある。俺たちの仲が良好に保たれているのは楓さんのこうした気遣いによる部分が大きいと思う。 「楓さん?」  俺にだけ聞こえる声で甲斐が聞いた。こいつも大概察しが良い。 「俺はまた今度でいいからそっち行きなよ」  甲斐は一度だけ楓さんと会ったことがある。それからというもの、俺は遠慮なく楓さんの話をするようになり、甲斐は文句も言わずによく惚気話に付き合ってくれている。その分俺がどれだけ楓さんを想っているかも伝わっていると思うが、だからと言って甲斐を蔑ろにするのも違う気がする。  そして俺は苦渋の思いで楓さんに甲斐との先約を伝えた。すると数分と置かずに返事があった。 『中華いいな』  まず簡単に一言返答があった。この間にも俺の返事を待っていたのかと思うと少し切ない。それからすぐにメッセージが続いた。 『来週また会おうね。甲斐くんと中華楽しんで!』  そして俺とお揃いで使っているスタンプが送られてきた。切ない。 「は、お前断ったの? 週末の泊りなくなったって言ってたじゃん」  俺が報告するより前に甲斐は焦るような呆れるような顔で言った。本当ならば来る金曜から二泊三日のお泊りデートの予定であったが、楓さんの仕事の都合でキャンセルになってしまったのだ。確かに甲斐にその話をしたが、簡単に一度だけ、溢しただけだ。 「それはそうなんだけど、前にもデート優先しちゃったしさ、ちょっと前に楓さんが時間くれたから大丈夫」  そう、お泊りデートの穴埋めとして楓さんが無理をして時間を作ってくれたので、先日たくさんいちゃいちゃしてもらっているのだ。だから会わなくてもいいとは言わないまでも、少しくらい友人に時間を割く余裕はある。  しかし天秤に掛けることしかできない俺に対して甲斐は妙案を閃いたのだった。 「じゃあ楓さんも呼ぼうぜ」  3日ぶりに会う楓さんは眩しかった。学生ふたりに安い町中華の店に呼び出されたのに嫌な顔ひとつせず、むしろ機嫌よく現れた。スーツにコートを羽織った楓さんはどこから見ても上等な男で、良い意味で店内で浮いている。 「お待たせしました。いい匂いだね」 「お久しぶりです、先日はどうも。こっちどうぞ」  楓さんの姿が見えるなり甲斐は俺の正面から立ち上がり楓さんに席を譲った。いつもは飄々としているがこういうところはスポーツマンらしいと思う。  堅苦しかったのは始めだけでふたりはすぐにいつも通りのテンションに落ち着いた。タイプはまったく違うけれど相性は良いのだろう。お互いの印象が良いことは既に聞いている。  そうなると一番浮ついているのは俺かもしれない。何せイレギュラーに会えた楓さんはとんでもなく格好良くて、しかし彼氏を前にでれでれする姿を甲斐に見られるのは気恥ずかしい。どんな顔で過ごせばいいのかわからなくなるのは仕方がないだろう。  それにこれが少し前であれば気持ちの赴くままにブンブン尻尾を振っていられたのかもしれないが、今の俺にはそうできないわけがある。  何を隠そうほんの数日前、俺は目の前の恋人により“開発”されてしまったばかりなのだ。  楓さんは俺がこれまで出会った男性の中で、間違いなく最も美しい男だ。それは単純に俺の好みに一致しているとかそういう話ではなく、彼の行きつけの喫茶店が従業員を増やさなければいけない程に人々を魅了してしまう容姿をしているのだ。楓さんの魅力について語ればきりがないのだが、数ある魅力の中のひとつとして外見はもちろんとして、彼の清純さは格別の物だと思っている。  何といっても楓さんは色恋に関する知識が乏しすぎるのだ。それは人によっては大きなマイナスポイントと捉えるかもしれない。しかし今や楓さんは俺の彼氏だ。楓さんの清純さを愛せない分からず屋はまったく楓さんに相応しくないのでどうでもいい。ただ純粋に愛することは得意なので楓さんは俺に対して惜しみなく愛情を注いでくれるので恋愛スキルについては問題ない。問題(俺は問題とは思っていないが)は主に性知識だ。真面目に誠実に生きて来た楓さんの性に関するキャンバスはほぼ無地の状態だ。俺はこのキャンバスが誰かの手に渡らなくて本当に良かったと思っている。楓さんならこの状態で完成としても芸術として成立するだろう。美しい姿で人々を魅了し続ける人生で彼が清らかさを損なわずに居られたことは奇跡なのだ。  そんな清らかな男に開発されるなんて、誰が想像できただろうか?  初めてお互いの舌と舌が触れ合った時、楓さんはひっくり返る勢いで驚いていた。その反応があまりにも可愛くて俺が楓さんに驚いてしまったくらいだ。男というのは性欲が絡むとバケモノになってしまうことがある。例えば何も知らない無垢な相手を自らの手で穢してやりたいと思うなど。だけどその時俺は柔らかな繭に出会ったような心境で、いつも楓さんがそうしてくれたように、少しずつ楓さんに触れた。  舌を触れさせるキスがあると教えて、綺麗好きな楓さんが嫌がらないように、少しずつ、少しずつ、一緒に覚えていった。  いつしか心地よいものとして覚えてくれた楓さんは自ら俺の舌と戯れるようになった。唇を舐め、歯列の隙間を割って入り、舌先同士を触れさせる。焦らすようにツン、と触れ、俺が応えようとすればするりとかわす。それが堪らないのだ。堪らなくなって追えば反対に捕らえられ、逃げられない程絡みつかれる。溜まった唾液が立てる音に胸の鼓動は速くなり、触れてくれる大きな手が嬉しくて頭は逸らせず、その結果俺は最低限の酸素しか与えられない。そうなると徐々に思考がままならなくなり、息が苦しくなって目を開ければ色気の宝石みたいな瞳が俺を射抜き…………  と、いう具合で楓さんのポテンシャルは大変えぐかった。頭が良いので物覚えが早いし、運動神経も良いので身体を使うのも上手い。しかもよく気が付く性格もあって俺の反応を分析するのも得意だ。何よりも俺は楓さんにべた惚れなのだからそんな相手に抱かれてしまえば沼に落ちるのは必然だった。  そして衝撃的な事件が起きたのが3日前のことだ。  前述の通り楓さんが日曜日を俺にくれた。その時に楓さんが言ってくれた「光くんのしたいことしようね」は「朝まで抱いてやるよ」という意味ではない。あくまで「光くんのしたいことしようね」という意味なのだ。なので俺が楓さんにゆっくり休んでほしいから会いたくない、と言えば楓さんは俺に会わないだろうし、日帰り旅行がしたいと言えばすぐに車の手配をしてくれたはずだ。  しかしこれもお察しの通り俺は時間の許す限りいちゃいちゃしてくださいと申し出た。  まだ明るい部屋で思い切り楓さんに抱きついて壁際に追いやった。くっついてもくっついても足りなくて数えきれないくらいにキスをした。いつも手入れされた唇は薄くて小さくてもぷるぷるで、何回唇を押し付けても適度な柔らかさと弾力で応えてくれる。  堪らなくなった気持ちのままに舌を出せば何も言わなくても優しく唇で食んでくれる。舌の表面も、裏側も、ふわふわの唇になぞられて首の付け根から頭のてっぺんまでぞわぞわと淡い快感が抜けていく。 「は……へぁ……ッ」  舌を離されたあとで開けっ放しの口から間抜けな声が漏れ出た。それも受け入れるみたいに楓さんが優しく頬にキスをしてくれて、直後に思い切り唇を塞がれた。無遠慮に侵入って来た舌が我が物顔で上顎を舐める。だけど決して乱暴ではなくて、でも優しいとも言い切れない。「これが好きだよね?」と教え込むようなねちっこい触れ方だ。  楓さんの触れ方はその時々で変わるから彼は本当に俺を魅了する天才だと思う。優しくされたい時は優しく、激しくしてほしい時は激しく、寂しい時は忘れられないように濃厚に触れてくるのだ。  だからあの日のキスは強烈だった。楓さんは俺の口腔内を隅から隅まで舌で触れた。ゆっくりと楓さんの気持ちを塗り込んで、口から溢れた愛情を拭う手も優しく叱るみたいに絡め取られた。いつしか立場が逆転し、俺の方が壁に押し付けられてしまい、溜まった空気が熱くてとても気持ち良かった。  長いキスの合間で息を吸おうと首を反らせたタイミングで軽く頭が壁に当たってしまった。それがいけないと楓さんは俺の後頭部に長い指を差し込み引き寄せる。これでもう自由に酸素が吸えなくなると覚悟すると何故か背筋が甘美に震えた。  苦しいのも気持ち良いのも、なんでもいいから楓さんに与えられたかった。またしばらく会えなくなるなら一秒でも長く楓さんを感じられるように楓さんを残してほしかった。  夢中になって身体を抱き寄せて、俺も舌を絡ませた。楓さんの熱くなった舌を陰茎を愛撫するみたいに吸い付いて扱いた。倒錯的な行為に余計に疼き、本物の陰茎に手を伸ばすとそこははっきりと主張していた。 「ああ、硬いの、うれしいぃ」 「わ、ンッ」  突然の反撃に楓さんが一瞬だけぎゅっと目を瞑った。その反応があどけなくて可愛くてキスを再開しながらベルトを弄った。が、また掌を握られ自由を奪われてしまった。 「もうちょっとゆっくりしよ、ね?」  そんな風に優しく諭されてしまっては為す術がない。俺の頭の中は触りたい、触られたい、それでいっぱいなのに許しが出ない。もちろん触ろうと思えばこんな緩い拘束は振りほどけるし、何より片手は自由だから相手のでも自分のでも触れることができる。それでも楓さんはこの後確実に俺を満足させてくれるという期待から、吐息の合間に切なく喘いで視線で媚びることしかできなかった。  静かな部屋にはキスの音が響いた。何度も唾液が溢れて、吐息が漏れて、リップ音が弾ける。その間、身体には触れてもらえず、叫びたくなるくらい切なかった。肌を滑る服の生地に勃起した乳首を擦り付け、涙を滲ませた陰茎を持て余し情けなく宙に向けて腰を振る。  満足に息ができない状態でそれでも唇を塞がれて柔らかい部分を舐めまわされると徐々にその状態が当たり前に変わってしまった。全身が粟立ち快感を求め、それでいて一点にだけ愛撫を受ける。  いくら懇願しても楓さんは「可愛い」と言って頬や額にキスを落とすだけだった。絶え間ないキスの海に沈められ、行き場の無い熱は身体中でマグマみたいに煮え立っている。  楓さんは不意に唇を解放し、愛し気に俺を見つめた。 「光くん、可愛いね」  ようやく長いキスから解放された。焦らされたこの憐れな身体に触れてくれと言葉の限り訴えたかった。  しかし思い切り息を吸い肺に酸素が巡らせると、温もりを失った唇があまりにも寂しくなった。 「キスしてよぉ」 「可愛い」  温もりを取り戻す瞬間に注がれた言葉が全身に響き渡った。再び与えられた僅かな快感は柔らかく触れた唇から無限に広がり、身体の芯がガクガクと震え始めた。  何も知らなかったはずの楓さんに俺はこんなにも暴かれている。キスの方法をひとつ教えただけなのにこんなにも翻弄されている。愛する人に、可愛い人に、たったひとつの術でも全力で愛されてしまう。  自覚するとダメだった。身体中が電撃を受けたみたいに痺れてしまい膝から崩れ落ちた。ほとんど意識は朦朧としていたが、楓さんの愛情以外のすべてが遮断されたみたいで幸せだけを感じていられた。  気付いた時には真っ青になった楓さんに抱えられており、これを天然でやっているんだから天才だよなあとしみじみしてしまった。  「光くんがしたいこと」は当然キスだけで終わるはずもなく、それは熱くて甘いお家デートの開幕に過ぎなかったのだが、開幕直後に俺は口の中を性感帯として開発されてしまったのだ。  つまり3日前に惚れ直した(いや惚れ増した?)ばかりの相手を前に俺は熱を上げずにはいられなかった。あの日のときめきが色濃く俺の中に残っているのだ。  そう、ときめきなのだ。恋人同士のロマンスなのだ。だから俺はふたりだけの秘密の思い出をいきなり甲斐相手に暴露されてとてつもないショックを受けた。 「楓さん絶対そういうこと言っちゃダメ!」  なんでびっくりした顔するんだよ! 恋人の性癖をばらしていいわけないじゃんか! どうしてわからないんだよ! 「俺ショックなんだけど……なんでそんなこと言っちゃうんだよお……」  楓さんとは喧嘩したことがなかっただけに、思いがけない裏切りに動揺を隠せない。  ああまさかそんな、思慮深いはずの楓さんが……。無垢すぎるがゆえのノンデリなのだろうか……。今までこんなことなかったのに……彼氏の友達とのごはんに浮かれちゃったの……?  しかし混乱しているのは俺だけではなかった。 「光くん、口内炎ができただけでもごはん食べなくなるし、結構猫舌みたいだから、口の感覚が繊細なのかと思ってて……」 「え?」  俺だけは決して忘れてはいけなかったのだ、奇跡の清純を。 「ああ、こういうのも言われたくないか、ごめん、本当にごめん、無神経だった」  楓さんは白い顔をさらに白くして、けれども真っ直ぐにこちらの目を見て謝罪した。それでも大いに混乱していることが伝わってくる。 「……お前繊細すぎね?」  甲斐の発言は完全にフォローだった。恐らく俺が何と勘違いして取り乱したかも察している。  楓さんは俺を傷付けてしまったことに大きなショックを受けている。たしかに俺は口内炎ができると食欲が落ちるし、熱い物はゆっくりじゃないと食べられない。そんな奴は辛い物も苦手だと考えるのは楓さんが思慮深い証拠だ。他意のない、純度100%俺のためを思っての発言であって、決して「キスだけでイッちゃうくらい口の中が性感帯」なんて思っての発言ではない。それを意識しているのは俺だ。俺だけだ。ときめき過ぎた。 「楓さんごめん、俺の勘違いだった、俺がごめんなさい……」 「そう……?」  恐らく俺の口が性感帯あると気付いたのは俺と甲斐だけで、俺を開発した張本人だけがわかっていない。そしてそれすらも察しの良い甲斐は理解している。その証拠に早くフォローしろとさりげなく肘打ちを受けた。 「俺エビチリも大好き……」 「エビチリも」  甲斐がからかうように強調した。それでも楓さんの顔から不安の表情が拭えず、俺は自分を責めても責めきれない思いでいた。 「光は本当に楓さんのことで頭がいっぱいなんすね~」 「いやもう、ほんと、おっしゃる通りです、まじで」 「楓さんはなんも悪くないんで落ち込まなくていいっすよ」 「そう、それ、ほんとそれです、はい」  楓さんは結局何のことかわかっていないようだったけれど甲斐のおかげで場の空気が保たれた。  その後は和やかに腹いっぱいになるまで中華を堪能し、油に濡れた楓さんの唇に悶々とするなどした。  そして甲斐と別れた後で俺は泣きながら楓さんに謝って家でちょっとだけよしよししてもらうのであった。

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