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やさしい夜

 真っ暗な闇に目が慣れてどれくらい経っただろう。分厚い遮光カーテンの向こうから微かに救急車の音だけが聞こえる。寝返りを打つ音にも敏感になり、また慎重に身体の向きを変えた。  今日は楓さんの家にお泊りだ。ご飯を食べた後はソファーに並んでホラー映画を観た。外でべたべたできない分、俺はここぞとばかりに楓さんにひっついてカップルの夜を堪能した。普段は日付が変わる頃にはうとうとしている楓さんでもホラーには耐性がないのか、あるいは俺が騒ぐせいで午前一時を過ぎてもその目はぱっちりと開いていた。  が、映画が終わって寝る支度をしてしまうと楓さんは電池が切れたように眠ってしまった。夢の中まではついて行けず、俺は今ひとりで暗い夜を持て余している。  楓さんは寝姿まで穏やかで静かな寝息は集中しないと聞き取れないほどだ。ホラー映画を観た後に恋人が先に眠ってしまい俺が暗闇の中で眠れずに過ごしていると知れば、楓さんは優しく微笑み俺を慰めてくれるかもしれない。思ったよりも怖かったよね、とか、今度は楽しい映画を観ようね、なんて言っておしゃべりに付き合ってくれるかもしれない。それで俺が甘えて懐に潜り込めば温かい体温で包み込んでくれるだろうし、キスにも応えてくれるだろうし、パジャマの下に手を滑らせれば俺の恐怖を甘い感情で誤魔化してくれることだろう……。  そう、つまりはそういうことだ。  こんなに部屋の中が静かで真っ暗で眠れずにいるのは別に映画が怖かったからではない  ホラーに託けてくっついた恋人の体温が最高過ぎた。ぎゅっとしがみついた身体に埋まった心臓がドキドキしていたのが可愛かった。恐怖シーンに強張る顔が新鮮で正直幽霊なんてノイズでしかなかった。映画の終盤くらいはいかにして今夜のお誘いを成功させるかで頭がいっぱいだった。  いよいよベッドに入る支度も済んでいちゃつこうと意気込んでいたのに直前になって忘れていた尿意が脳裏を掠めた。敗因はそこにあったのだろう。事が済むまで我慢できない程度の強さではなかった。けれども最愛の人との甘いひと時を迎えるにあたって排除できる邪魔はすべて対処しておきたかった。  最善を尽くすべく俺はトイレに向かい、そしてウキウキと寝室に戻ると衝撃的な光景が待っていた。 「寝るの早ーッ!」  もちろん小声だ。俺の「トイレ行ってくる」からわずか一分程度だ。もはや寝ながら歯を磨いていたのかと思い直すほどの速さで楓さんは眠っていた。白い頬に落ちる睫毛の影の美しさに俺は膝から崩れ落ちた。  ベッドに入りリモコンで部屋の灯りを落とした。そこで楓さんを起こせば俺の希望は叶えられただろう。しかし俺は楓さんに背を向けた。いくら普段から寝付きが良くてもこの速さで寝てしまうのは異常だ。それくらい楓さんは眠気を圧して俺との時間を作ってくれたということだ。疲労の限界まで俺に尽くしてくれた楓さんにこれ以上を求めるのは身勝手過ぎる。そう自分に言い聞かせた。  さてどのくらい時間が経っただろうか。そのうち鎮まると思っていた腹の熱はめげずに主張を続けている。三大欲求とはよく言ったものだ。ここは同格同士をぶつけてやり過ごそうと実は結構な強さで訴えてくる睡魔を受け入れることにした。しかし無になり頭をからっぽにしようと思考を止めると悶々とした下半身の熱が浮き彫りになる。気を抜くとすぐに先ほどしがみついた骨張った肉体の感覚が触れた部分に蘇ってしまうのだ。  ダメダメと一度寝返りをして今度はあえて映画のホラーシーンを思い返した。どうせ眠れないのなら恐怖で欲望を塗り潰そう。そして俺は暗闇に浮かぶ亡霊や物陰に潜む負の存在を想像した。映画に集中している時は少しの演出でもあんなにきゃあきゃあ騒いでいたのに、今となってはどれほど自分を怖がらせようとしても姿を隠しているのかと思うくらい静かな恋人の寝息と体温に全神経が持っていかれてしまう。  幾度となく恋人に手を伸ばし掛けては自らその手を叩き落した。日頃細やかに尽くしてくれる楓さんに対する俺の愛だ。  心と身体が葛藤する中で寂しいという感情が覗く。それはもしかすると性欲よりも厄介な存在だ。  楓さんとの関係は簡単に公言することはできない。だからこそふたりきりでいる時は思い切り恋人らしく過ごしたい。楓さんもそう思ってくれているはずだけど、恋人としての触れ合いはいつも俺がおねだりするばかりだ。楓さんがそういう性質であるのは理解しているし、応えてくれるだけで幸せだし、不満に思うことはない。けれど時々、本当に時々、この状況を「虚しい」と嘆くこともできるかもしれないと考えてしまうことがある。  良くない。  思考がうっかり落とし穴にはまりかけた。大体のことはネガティブにもポジティブにも考えられる。あえてネガティブに考えるなんてこの時間が不毛な証拠だ。 「げ、もう三時じゃん」  あえて声にして思考を断ち切った。スマホの画面には「2:46」の文字。俺は一時間半も無駄な時間を過ごしていた。もはや性欲をやり過ごすのは無理だ。明日、楓さんの貴重な休日を貰ってふたりで楽しく過ごすためにさっさとスッキリして寝るべきだろう。 「ねむれない?」  トイレを借りようとそうっと起き上がるも抜かりない恋人はむにゃむにゃと目を覚ましてしまった。 「おなかすいちゃった?」  あくび交じりに問われ、思いがけない発言に呆気に取られてしまった。楓さんはまさか俺がムラムラして眠れずにいるなんて夢にも思わないのだろう。それにしても「おなかすいちゃった?」なんて……。 「何か作ろっか」  俺の返事を聞かないまま楓さんはベッドから抜け出してキッチンへ向かった。  お椀に半玉盛られたうどんを啜りながら強烈な性欲が眠っていくのを感じた。別段空腹を感じたわけでもなかったのだが、ぼーっとしながら冷凍庫からうどんの麺を電子レンジに入れる楓さんに言い知れない心地の良さを覚えたのだ。 「おいしい」  楓さんは何も言わずにこ、と眠そうに笑って返した。  灯りはダイニングにだけ、眠気のために口数も少なく、控えめに麺を啜る音しかしない。  それでも内側から満たされていく感覚は温かく幸せだった。  寝ぼけながら作ってくれたうどんはほっとする味がした。

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