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第45話

 底冷えがする表に対して、居間はぽかぽかと暖かい。薪ストーブの上で、おでんがくつくつと煮えていた。  牛すじ、分厚く切った大根と松葉に刺した銀杏(ぎんなん)。すべて理人がとりわけ好きだった、おでん種だ。間宮は案の定の展開をみせているさまに、今さらめいてやるせないものを感じた。 「そういや、あいつの職業はなんだ」  無用の混乱を与えぬよう、世間話の延長というふうを装って訊いた。愚問、と暗に皮肉る、ため息交じりの答えが返る。 「ヨーロッパの某国に駐在中の外交官」 「そうか、そうだったな。遠恋は淋しいな」  ソツなく話を合わせる反面、無性に苛立つ。牛すじをつまみ食いしてから、どっかりとソファに腰かけた。  と、朋樹がこちら向きにカウンターから身を乗り出した。キャニスターが倒れて、コーヒーの粉がこぼれたことにも気づかぬ様子で。 「遠恋の中休み。休暇をもらって帰国するんだって」  それは脳が独自に、なおかつ精緻に組み立てた、朋樹にだけ通用する事実だ。ともあれ眼鏡を外したり、かけなおしたりするさまから嬉しさがにじみ出す。頬が紅潮して、そのへんの高校生よりよっぽど初々しい。  実年齢は四十五歳だが、精神年齢のほうは奇禍にみまわれて以後、年を重ねるのをやめた形だ。恋の力は偉大で、自然の摂理に逆らって人体に影響をおよぼす。  中休み、と間宮は呟くにとどめた。科学や医学がいちじるしい進歩を遂げても、脳のメカニズムの全容が解明されるには程遠い。  朋樹にとって今日という日は二種類のパターンのみ。すなわち〝理人は泊まりがけで出かけている〟。あるいは〝やむにやまれぬ事情があって長らく遠くへ行っていたのが帰宅する〟。生体の、電気信号がどう働いてそんな法則を確立するに至ったのか。これもまた恋の力のひとつ、人体の神秘だ。  そう、神秘とは言い得て妙だ。何しろ後者を発動したさいは摩訶不思議な現象が起きる。間宮に突っかかるのが通常モードの朋樹が、どういうカラクリなのか間宮を、愛を囁くのだ。  役得、と割り切るのは難しい。誘惑に打ち勝つのは、もっと難しい。理人に成りすまして朋樹を抱く俺は卑怯者だろうか、それとも救いがたいピエロだろうか。 「京都人のイケズぶりを表す『ぶぶづけ、いかがどす』も、かくやだな」  形ばかりのおもてなし、という(てい)で供された酸味の強いコーヒーをすすりながら、掃き出し窓に張りついて離れない後ろ姿に話しかける。スルーされた。家路を急ぐ理人が門の外に立ち現れる瞬間を見逃すまいと、そわそわしどおしなのだろう。

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