「大丈夫、静流(シズル)しか連れて来てないし、警察マスコミその他も綺麗に巻いておいたから」 「おまえな……」 「万が一どこかに漏れたとしても、俺のほうでうまくやっておくよ」 　ボスがすごく綺麗な顔で笑っている。でも、藤也(トウヤ)さんは怖い顔のままだ。 「それより、ソウくんにオートロックの使い方、教えておいたほうがいいんじゃないか？　エントランスまで迎えに来てくれたよ？」 「は？　部屋を出たのか？」 　藤也(トウヤ)さんの怖い顔が俺を見た。怒られるのは怖いけど迎えに行ったのは本当だ。俺は両手をギュッと握り締めながら頷いた。 「誰かわからないのに、わざわざ下りて行ったのか？」 　顔も声もますます怖くなった。握り締めている両手がブルッと震える。どうしよう、藤也(トウヤ)さんを怒らせてしまった。 「おい」 　怖い声に体がビクッとした。怖いけど、答えないといけない。そうしないともっと機嫌を悪くしてしまう。 「声が、……ボスの声が、したから、入り口を開けないとって、思って」 「声？」 　藤也(トウヤ)さんの言葉に、俯いたままコクンと頷く。 「声って、……なるほど、モニターか」 「あぁ、あまりにも反応がないから、おおーいって呼んだんだ」 　小さなため息が聞こえる。怒るだけじゃなく呆れたのかもしれない。 （そうだった、俺、預けられてたんだった） 　それなのに勝手に部屋を出てしまった。そんなことをしたら怒るに決まっている。風俗店で働けるようにいろいろ教えてくれたのに、そんな藤也(トウヤ)さんを怒らせてしまった。 　怖くなってきた俺は、俯いたまま両手にグッと力を入れた。そうしないと体全体が震えそうだった。 「おい、ソウくんが怖がってるぞ。おまえ、自分が強面だってこと忘れてるだろう」 「うるせぇ。おまえが来たのが原因だろうが」 「ちゃんと巻いてきたんだから問題ないだろう？　それとも会社に出向いたほうがよかったか？」 「ふざけんな。俺の会社を潰す気か」 「俺が行ったくらいで潰れる会社じゃないよな」 「後始末が面倒臭ぇだろうが」 「はいはい。じゃあソウくんにはオートロックの使い方、教えておくんだね。俺以外の奴が来たとき、どうするつもりだったんだ？」 「本宅(こっち)には会社の奴は誰も来ねぇよ。高宮すら来ねぇんだ、使い方なんて知らなくても問題ねぇだろうが」 「へぇ、懐刀の秘書も来ないのか。でも俺は来るよ？」 「来るんじゃねぇ」 　藤也(トウヤ)さんの声は怖いままだけど、ボスの声は楽しそうに聞こえる。俺が勝手なことをするのはボスだって困るはずなのに、どうしてボスは怒らないんだろう。 （もしかして、俺を迎えに来たとか？） 　そうだ、きっと働くお店が見つかったんだ。だから機嫌がいいに違いない。 （……そっか、もうお店に行くんだ） 　あれだけ早く風俗店に行きたいと思っていたのに、いざ行くとなると急に怖くなってきた。でも、早く行かないと藤也(トウヤ)さんに迷惑がかかる。わかっているけど怖い。この部屋から出るのが怖い。 （……ダメだ、早く行かないとますます怖くなる） 「あの……っ」 　両手にグッと力を入れて顔を上げる。そうしてボスの顔を見ながら声を出した。 「あのっ、俺、お店に、風俗店に行くの、大丈夫ですっ。すぐ、行けますからっ」 　言えた。これで藤也(トウヤ)さんの機嫌もよくなるはず。そう思ったのに、今度はボスの綺麗な顔が少し怖くなった。 「ソウくん、風俗店に行きたいの？　客として？　……まさか、働く側として？」 「まだそんなこと言ってんのか……」 「藤也(トウヤ)はソウくんを風俗に沈めようとしてるのか？」 「するか。俺は真っ当な商売してんだぞ」 「じゃあ、どういうことだ？」 　どうしよう、何か間違えたのかもしれない。藤也(トウヤ)さんだけじゃなくボスまで怖い顔になった。 「おまえ、まだそんな勘違いしたままだったんだな」 　藤也(トウヤ)さんの呆れたような声に、唇をグッと噛み締める。怒られる、そう思ったら力を入れたはずの両手がカタカタと震え出した。 「勘違いって……あぁ、俺が売人だと言ったから、風俗に連れて行かれるかもって勘違いしたのか」 「臓器売買だとか風俗だとか、どっちも違うって言っておいたんだがな。いや、俺がもっと強く否定しなかったのがいけなかったんだろうなぁ。こいつ、頭の回転は悪くないのに思い込みが激しいんだよ」 「学んで推測する経験が圧倒的に偏っているんだろうな。静流(シズル)、書類出して」 「なんだ？」 「今日はこれを渡すために来たんだ。藤也(トウヤ)も気にしていただろう？　戸籍関係も入れておいた」 「……おう」 　金髪の人が渡した書類を見ている藤也(トウヤ)さんの顔が、また怖くなった。 「どうにかしたいなら手を貸すが？」 「やるなら、うちの優秀な弁護士にやらせる」 「フッ」 「なんだよ、胡散臭ぇ笑顔浮かべやがって」 「いや、思ったとおり、おまえのドストライクだったんだなぁと思って。藤也(トウヤ)は昔から顔に似合わず小動物系が好きだったもんな。それも、庇護欲誘うような悲惨なやつばかりだ。たしかにソウくんは生まれたての子犬みたいだからなぁ。それも見事なまでの捨て犬、蹴り飛ばされてもご主人様に必死についていくタイプだ」 「こいつを犬と一緒にすんな」 「おっと、怖いな。俺なんかより、よっぽどこちら側の人間に見えるぞ？」 「うるせぇ。用事が済んだなら、さっさと帰れ」 「ソウくんとクイズ番組も堪能できたし、今日は帰るか。……で、風俗に沈めるのか？」 「だから、やらねぇって言ってんだろうが！」 　藤也(トウヤ)さんの大きな声に慌てて下を向いた。二人の話はよくわからなかったけど、書類に何かよくないことが書いてあったに違いない。そのせいで俺は風俗店に行けなくなった。だから藤也(トウヤ)さんは怒っている。 （どうしよう……） 　俺はどうしたらいいんだろう。 「ソウくん」 「……っ」 　ボスに呼ばれたけど顔を上げることができない。ボスも怒っていると思ったら、綺麗で怖い顔を見ることなんてできなかった。 「ソウくん」 　もう一度呼ばれた。今度は聞いたことがないくらい優しい声だ。それに怒っていないようにも聞こえる。そんなわけないと思ったけど、二度呼ばれて無視するほうが怖い。 　おそるおそる顔を上げた。そっと見たボスの顔は、すごく綺麗な笑顔だった。 「いいこと思いついた」 「おいこら藤生(フジオ)、おまえまた、ろくでもねぇ――」 「ソウくんは、風俗店に連れて行かれると思ってるんだよね？」 「だから違うと言って、」 「じゃあ、まずは練習しないと駄目だな」 「藤生(フジオ)！」 「……練習、」 　そうか、風俗店に行くにも練習が必要なんだ。もしかして、藤也(トウヤ)さんは俺がいろいろできるようになるのを待ってから練習するつもりだったんだろうか。それなのに俺はようやくテレビを見るようになった段階で、だから風俗店に行けなくなったんだ。 「あの、練習って、」 「こんな奴の話なんか聞かなくていい！」 「うるさいなぁ藤也(トウヤ)は。さてソウくん、俺がいい練習方法を教えてあげよう」 「おい、藤生(フジオ)！」 「風俗店で働けるようになりたいなら、藤也(トウヤ)にしっかり教えてもらえばいい」 　やっぱり藤也(トウヤ)さんが教えてくれるはずだったんだ。ボスは俺がその段階になっていないことを知らないに違いない。 「あの、俺、練習する前に覚えないといけないこと、全然できてなくて。だから練習も、できてなくて、」 「なんだ、そういう話になっているんじゃないか」 「違ぇよ！　俺は普通のことをやらせてるだけだ。風俗の練習なんかさせるか。そんな練習の約束もしてねぇからな」 「……ふぅん、俺が思っていた以上に入れ込んでるな」 「うるせぇ。大体おまえが押しつけてきたんだろ」 「これまでだって似たようなことは何度もあっただろう？」 「本当にな。俺んとこは保育園でも更正施設でもねぇってのに、おまえのおかげで面倒ごとばかりだ」 「面倒だと思ったら即切り捨ててきたじゃないか。でも今回は違う。信頼する秘書にすら会わせずに完全なプライベート空間に三週間も住まわせている。しかも囲うように一歩も外に出していない。俺が何も知らないとでも思ったか？」 「うるせぇ」 「いいことじゃないか」 「うるせぇって言ってんだろ」 　さっきよりも藤也(トウヤ)さんの声が怖くなくなってきた。 （……もう、そんなに怒ってないとか？） 　そうであってほしい。藤也(トウヤ)さんに怒られるのはすごく怖い。同じくらい呆れられるのも部屋から追い出されるのも怖かった。 「別にいいじゃないか。俺たちは子どもを残す必要もないし、思うままに生きることができる。そうなるようにお互いに努力してきた。藤也(トウヤ)も好きにすればいいさ」 「……ハァ。俺はおまえと違って、いろいろ真っ当な感覚なんだよ」 「あぁ、もしかして年齢のことか？　あと一週間もすればソウくんは十八歳だ。選挙権が与えられ、様々な契約もできる立派な大人だ。ある意味、こちら側にとってはいいカモになる」 「相変わらずだな」 「それが大人ってものだろう？　俺たちはそのことを少しばかり厳しく教えてやるだけだよ」 「おまえは昔っからそうだったな」 「当然だ。俺はほしいものを手に入れるためには何でもする。おまえもそうすればいい。もちろん俺はこれまでも、それにこれからもそうするよ？　……静流(シズル)」 　ボスの声にゾワッとした。首の裏側がゾワゾワするような、耳の後ろがゾクゾクするような変な感じがする。何だろうと思ってボスを見たら、ボスと金髪の人がキスをしていた。 （へ……？） 　ソファに座ったままのボスが上を向いて、後ろに立っていた金髪の人が屈んでキスをしている。キスをしながら、ボスの右手が金髪の人の首の後ろを何度も撫でているように見えた。 「おいこら、未成年になんてもん見せてんだ」 「ふっ。これも性教育の一環だよ。それにソウくんはもう十八歳になるじゃないか」 「ふざけんな」 「ふざけてなんかないさ。それに、これ以上のことをソウくんはやろうとしていた。そうだろう？」 　ボスの目が俺を見た。 （そうだ、俺は風俗店で働かないといけないんだ） 　だからキスもするしセックスもする。風俗店で何をするか、小さい頃からお店のお姉さんたちと一緒にいたからわかっている。 　ボスに「そうです」と答えると、藤也(トウヤ)さんが大きなため息をついた。 （やっぱり俺が働けないのが悪いんだ） 　これ以上藤也(トウヤ)さんに迷惑をかけないためにも、早く練習しないといけない。どういう練習をするのかわからないけど、ボスたちみたいなキスから始めるのかもしれない。 （……藤也(トウヤ)さんと、キス） 　そう思ったら顔がカッと熱くなった。働くために必要だとわかっているのに、急に恥ずかしくなって藤也(トウヤ)さんの顔もボスの顔も見られなくなる。 「ははっ、ソウくんは可愛いね。よかったじゃないか藤也(トウヤ)、十分意識されてるみたいだぞ？」 「うるせぇよ。つーか、おまえら用事済んだならさっさと帰れ」 　ボスが笑いながら立ち上がった。帰るんだとわかっているのに、顔を上げることも挨拶することもできない。ますます怒られるようなことをしているとわかっているのに、俺は熱い顔が気になって床ばかり見ていた。