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第8話 練習の練習
「いつから練習始めるんだろう」
そのことがずっと気になっていた。藤也 さんは何も言わないけど、だからって練習しないはずがない。
「練習するのはいいんだけど……」
いつからするのかわからないのが不安だった。相手が藤也 さんだと思うだけで緊張する。おかげで今朝は出かける藤也 さんの顔をちゃんと見ることすらできなかった。
「……そっか、練習の練習をすればいいのか」
そうすれば緊張しなくなるかもしれない。そう考えた俺は、お店で見た映像のことを思い出した。いろんなテレビが見られるくらいだから、きっとああいうのも見られるはず。
「ええと、たしかここを押して…………あった」
藤也 さんに使い方を教えてもらっておいてよかった。目的の映像を見つけた俺は、お昼ご飯も忘れて何度も見返した。
もうすぐ五時になる。お昼ご飯を食べに帰って来ない日は大体このくらいの時間に帰って来る。
俺はもう一度洗面所にある大きな鏡で自分の姿を見た。テレビで見たやつとは少し違うけど、何となくそれっぽくは見える。
「勝手に拾うのはまずいんだろうけど」
いま着ているのは一昨日藤也 さんが捨てたグレーのシャツだ。袖を引っかけたって言っていたけど、こういうことに使う分には問題ないはず。
「勝手にゴミ箱から拾うのは問題だと思うけど、シャツは持ってないからさ」
テレビで見た女の人は白いシャツだけ着ていた。だから白のほうがいいんだろうけど持っていないからしょうがない。
「……帰って来た」
ドアを開ける音が聞こえて、慌てて玄関に行った。ちょうど藤也 さんの顔が見えたから、いつもどおり「おかえりなさい」と声をかける。
「……どうしたんだ、その格好」
藤也 さんの目が細くなった。声もいつもよりずっと低くて怖い。
(失敗した)
もしかして白じゃないからだろうか。それともテレビみたいにベッドの上で待っているほうがよかったんだろうか。わからないけど、藤也 さんを怒らせたことだけはわかった。
「その格好はなんだって聞いてるんだ」
「あの、俺、練習しようと思って、」
そう答えたら大きなため息が聞こえた。
「藤生 の言ったことは忘れろっていっただろうが。それにその格好、」
そこまで言った藤也 さんが足早に部屋に向かった。慌てて追いかけると、さっきまで見ていたテレビが映っている。
「なるほど、これを見た結果ってわけか」
「練習しないとって思って、それで、あの、」
「おまえも健全な十七歳だ、見たけりゃ見ても……いや、未成年だから本当は見ちゃいけないんだろうが、俺はそこんところは厳しくしねぇよ」
今度は小さいため息だ。チラッと見た藤也 さんの顔は、さっきよりは怖くなくなっている。でも怒っていないかまではわからない。どうしよう、どうしたらいいんだろう。
「おまえ、そんなに風俗店に行きたいのか?」
「……本当は、ちょっと嫌、だけど。でも! 俺、迷惑かけたままじゃダメだと思ったから、」
「迷惑なんて言ったか?」
「でも、押しつけられたって、」
「それは違うって言っただろうが。それに初日にここに住めと言ったはずだ。それは押しつけられたからってことじゃねぇ」
「でも、このままじゃ、迷惑にしかならない」
「子どもが小せぇこと気にしてんじゃねぇよ」
「……でも、」
俺を押しつけられて大変なはずだ。お母さんも大変だったのに、赤の他人の藤也 さんが大変じゃないわけがない。
俺は早く藤也 さんの役に立ちたい。こんな俺に優しくしてくれる藤也 さんのために働きたい。そのためには早く風俗店で働けるようになるのが一番だ。本当はもう少しここにいたいと思っているけど、それじゃあもっと迷惑をかけてしまう。
「少しずつ教えりゃいいかって思ってたんだが、思った以上にやばいな」
小さいため息が聞こえたけど、声はそこまで怖くない。もしかして、もう怒っていないんだろうか。
「おまえ、このままじゃ悪い大人にいいようにされるぞ。十八になれば、おまえも一人前の大人として扱われる。だが、このままじゃあ、ろくでもねぇ人生になる」
「ろくでもない人生」というのは、お店に来る人たちがよく言っていた言葉だ。お姉さんたちの中には毎日のようにそう言っている人もいた。
(俺の人生、とっくにろくでもないことになってる)
中卒だし勉強していなかったから頭が悪い。何もわからないからお店の雑用以外で働くことすらできなかった。こんな俺みたいな奴はろくでもない人間なんだそうだ。家賃を取りにきたサングラスの人にそう言われたことがある。
(藤也 さんも、俺のことをそう思っているんだろうか)
そう思ったら今度は胸が苦しくなってきた。怖いわけじゃないのに手が震えそうになる。
「俺、どうすれば、」
このままじゃ藤也 さんに迷惑かけてばかりになる。練習の練習すらできない俺は、ただの役立たずでろくでもない人間でしかない。
「おまえは何がしたい?」
(俺の、したいこと?)
前は、お母さんのために働きたいって思っていた。ちょっと前までは、お金がほしいって思っていた。そうして家賃を払って、あの部屋でお母さんを待とうと思っていた。でも、それもできなくなった。
(いまは、藤也 さんの役に立ちたい)
押しつけられた俺を部屋に置いてくれて、いろんなことを教えてくれる藤也 さんの役に立ちたい。本当は迷惑料を払うのが一番いいんだろうけど、俺にはそんなお金はなかった。それなら、やっぱり風俗店で働くしかないと思った。
「掃除とか、洗濯とか、あと、風俗店の、練習とか」
「最後のはいらねぇって言ってんだけどな」
「でも、」
俺にできることは、そのくらいしかないんだ。
「藤也 さんの、役に立ちたい、です。だから風俗店に、行くしかないです。そのくらいしか、俺にできること、ないから」
「……なるほど、こりゃある意味純粋培養だな。捕まった相手が藤生 んとこでよかったなぁ。これが三玄茶屋 だったら、間違いなくイロモノ人形にされてたぞ」
「あの、」
「さすがに未成年に手を出すってのは気が引けてたが、十八になるんならまぁいいか」
藤也 さんの手が俺の顎をギュッて掴んだ。そのままグイッと持ち上げられる。
「俺は守備範囲が広い。下は十代から上は六十代までイケる。女だけじゃなく男も、まぁ大体はイケるな。好みじゃない奴は無視するが、基本的に据え膳もしっかり食う。商売柄未成年には手を出さねぇが、ま、おまえはもうすぐ結婚もできる年齢だしな」
「あ、あの……?」
「腹は立つが、藤生 が言ったとおりおまえは俺のドストライクだ。小せぇ体にちょっと足りねぇ思考回路とド天然で、俺のあとを必死についてこようとする。俺に気に入られたくて必死になってる姿は、たしかに躾前のチビワンコに違いねぇ」
「藤也 さん、」
藤也 さんの怖い顔がグンと近づいてきて驚いた。
「どうしようもねぇ人生も偏った頭も、すこぶる庇護欲を誘う。ついでに言えば、これからおまえを俺好みに躾けられるって楽しみもある。俺にとっちゃあうまいことばかりだが、おまえにとっても悪くない話だろう」
「あの、」
「どうだ蒼 、俺のものになるか?」
名前を呼ばれてびっくりした。
(何で俺の名前、)
俺は普段、本名を名乗らないようにしている。それがあの街で生きていく必要最小限の方法だったからだ。だからボスにも蒼 だと答えた。それなのに藤也 さんは俺の名前を知っている。
「俺のものになるなら風俗店に行かなくていいぞ? あぁ、代わりに俺専用にはなってもらうがな」
(藤也 さん、専用)
どういう意味かわからなかった。でも風俗店に行くよりはずっといいと思った。
「蒼 、俺のものになるか?」
「……なり、ます」
そう答えたら怖い顔がグッと近づいてきた。驚いて目を瞑ると、唇に温かいものが当たった。
「十八になるまではキスだけだ。十八になったら、いろいろ教えてやるよ」
目を開けると、不思議な色の目がじっと俺を見ている。それだけでドキドキしてきた俺は、必死にコクコク頭を動かして返事をした。
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