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※メビウス
⚠注意
脅迫・穴扱い・首絞め・暴力・うつや摂食障害を匂わせる描写・恋人以外への巨大感情が含まれます。
性描写はほとんどありません。R15程度です。
尾上さんの過去の話です。
こちらを読まなくても、先の話は理解できるようになっています。
大学の時に煙草を覚えた。
サークルの先輩が吸っていて、やけにかっこよく見えた。一本もらってむせながら、肺にも入っていない煙をめいっぱい吐き出したのを覚えている。
それももう、二十年は前の話だ。俺は今でもあの日のことを夢に見る。
∞
俺は映画研究会に所属していた。
なんとなく、大学ではサークルに入るものだと思っていた。高校は書道部だったけれど、書道サークルは何となく堅苦しい感じがして、入部する気になれなかった。それなりに活動していてそこまで忙しくない。そんな、どこにでもある何でもない所にいたくて。映画が好きだったこともあり、映研に入った。自分達で映画を作るような真面目なサークルではなく、たまに部室に集まっては映画を見て感想を話したり、ただただお喋りをするようなゆるいサークルだった。
俺はどちらかと言うと勉強がしたい方だった。せっかく学費を払って入ったのだから、勉強しない方が損だ。親元から離れた関西の私立大学。滑り止めで入った大学だったが、興味のある分野も広く学べるし不満はなかった。変なプライドや焦燥感も、本命の学校に落ちた時に全部無くしてしまったから、むしろ良かったのかもしれない。素直な気持ちで何でも出来た。
映研は小さなサークルだった。全学年合わせて二十人程度しか人がおらず、そのうちの四分の一はまともに顔を出さなかった。しかし、その分一人一人と仲良くなれたのは良かった。
憧れていた先輩がいた。二つ年上で背が高くて、やけにタバコの似合うクールな人。口数は少ない人だけれど、孤立気味だった俺を気にかけてくれる優しい人だった。
タバコを持つ手を盗み見る。横顔が綺麗だと思った。
「あの……一本貰ってもいいですか」
「良いけど、尾上吸わないでしょ」
貴方みたいになりたくて、少しでも近づきたくて、なんて言えるわけがない。きっと俺が世渡り上手だったら、『○○先輩みたいなカッコイイ感じになりたいんスよ〜』なんて、嘘でも本当でもないことを言えたのだろう。
「タバコ吸ってみたくて」
「じゃあ、吸い方わかる?」
一瞬バカにされているのかと思ったが、タバコには吸い方があるのだと言う。
「吸いながら火、つけて」
言われるがままにタバコに火をつける。思い切り吸い込んでしまい、むせてしまった。
「ゆっくりな。まあ、無理しなくていいよ」
気を使われてしまった。
吸い方を教えてもらいながら、なんとか頑張ってみたもののあまり上手くいかない。
「あとちょっとしかないし、俺のあげるわ」
少し潰れた箱に二本の煙草。マイルドセブンと書かれたソフトパッケージ。あの時の高揚感は、忘れもしない。何かが変わったわけではない。それでも、憧れた先輩に少しだけ近づけたような気がして、嬉しかったのだ。
それから俺はマイルドセブンを吸うようになった。
○○先輩には仲のいい佐伯という友人がいた。中肉中背で、大した取り柄もないのに態度だけはデカい茶髪の男。○○先輩と同い年の映研所属だから、俺の先輩でもあるのだけれど、あまり話が合わずどちらかというと好きではなかった。部室で顔を合わせた際に、適当な世間話くらいはする程度の仲。やたら人との距離が近く、デリカシーもない。そういうタイプは苦手だ。浮いた話も多く、あまり印象は良くなかった。俺はその人が苦手だったけれど、彼はそうでもなかったらしい。むしろ、好きな方だったのかもしれない。
それから十年の月日が流れ、佐伯先輩は再び俺の前に現れた。
派手な柄シャツ、真っ白なズボン、キャラものの便所サンダルにサングラスをかけた、まるでチンピラのような出で立ちの男と出くわした。金髪になってはいたが、最悪なことに知っている顔だった。
正直面倒臭いと思った。俺は大学から遠く離れた地元で就職したはずなのに、大して仲良くもない大学時代の知人とサボり先のパチ屋でバッタリ会ってしまって、露骨に逃げることも出来なかった。しかも見た目がすごく怖い。この人が同郷だなんて聞いてないぞ。
「尾上だよね? 久しぶりじゃん。元気してた?」
俺の顔を覗き込んでは、馴れ馴れしく肩を抱く。相変わらず距離が近い先輩に辟易しながら、適当な相槌を打った。
「この後時間ある? 昼飯食おうよ」
「いや、あいにく予定がありまして」
「じゃあ、いつ空いてる?」
そう言われると逃げられなくなってしまう。こういうのは社交辞令だと思っていたが、違うのだろうか。お前のことが嫌いだからこれ以上関わるなとは言えないんだ、大人だから。まあ、適当に一回飯を食ったらそれで終わりだろうしと安易に考えていた。
「今日の夜はどうですか」
「いけるよ。じゃあね、七時にこの近くの居酒屋でどう?」
「……分かりました」
本当に嫌だし、行きたくない。でも、約束してしまったからには行かなければならない。変なところで真面目な自分が面倒だと思った。
居酒屋の半個室に腰を下ろし、とりあえず生を注文してからタバコに火をつける。
佐伯先輩が俺のタバコをちらりと見た。
「尾上さ、大学ん時のこと覚えてる? ○○のこととか」
○○先輩の名前を出されて、ドキリとした。
「覚えてますよ。○○さんと連絡とってるんですか?」
「連絡とってたよ。でもアイツ結婚したし忙しくなったから、最近は全然。つまんねー」
○○先輩、結婚したんだ。
先輩が卒業してから一切連絡をとっていない。本当に何も知らなかった。
「……そうなんですか」
佐伯先輩はタバコに火をつけた。キャスター特有のバニラのような甘ったるい匂いが広がって、眉をしかめる。俺はこの匂いがあまり好きではない。
「尾上さ、アイツのこと好きだったんでしょ」
心臓を一突きされた気分だった。
顔が引き攣って、かろうじて作っていた愛想笑いが剥がれていく。後ろめたい事なんて何もないはずなのに、少し焦ってしまった。
「……尊敬してましたよ」
恋愛感情はなかった。しかし、それは何年も時間が経ったから分かることで、大学生の俺は敬愛と愛情の区別が曖昧だったのだ。だから、当時は○○先輩が好きなのだと勘違いしていた。
「そういうのいいから。お前ゲイだろ」
虚をつかれたとは正にこのことを言うのだろう。
大学時代の知り合いに、こんな話をしたことはない。じゃあ、この男は何を知っていると言うんだ。誰から何を聞いたんだ。怖い。
「お前と、あれは彼氏か? ラブホ入ってくとこ見た。去年くらいかな?」
一重で切れ長の眼が歪んでいる。口角を吊り上げ、いやらしい笑みを浮かべている。
確かに半年前まで交際している男はいたが、まさかこの男に見られているとは露にも思わなかった。
「……別人じゃないですか」
「嘘つかなくていい。俺も似たようなもんだからさ」
俺はこの男が言う『似たようなもの』が、何のことか分からなかった。
自分と似ても似つかないこの男に、恐怖を抱いている。
「それは、どういうことですか」
「俺も男とHするって話」
絶句した。数秒は時間が止まっていた。その時の衝撃を俺は一生忘れないだろう。
大学時代は浮ついた話ばかりだったこの人が、男とセックスしている。全くそんな素振りを見せなかったから、完全にノンケだと思い込んでいた。
「女でも男でも、穴があればいいってわけ」
「え……いや。それにしても、どうして俺に」
その事実を告げられても、ただただ混乱するだけだ。なぜこの人は、俺にそんなカミングアウトをするのだろう。
佐伯はタバコの煙を俺に向かって思い切り吹きかけた。
「ストレートに言わないと分かんないか? ヤらせろって言ってんだよ」
彼の目は至って真剣だった。冗談だなんて毛ほども感じられない。光の通らない、小さな黒目に吸い込まれるようだった。
冷や汗が流れた。絶対に断らなければならない。出来るだけ波風を立てず、上手く。
「嫌って言ったらアイツに言う。尾上は実はホモで、お前のことが好きなんだぞ、ってな」
そんなの禁じ手じゃないか。この男は、俺がゲイ(実際はバイだが)であることも、○○先輩を慕っていることも、それをひた隠しにしていたことも全部全部分かっていて、その上でこんな脅しをかけているのだ。そう思うと、怒りがふつふつと湧いてきた。この男は、こいつは……とんでもない奴だ!
「……俺は! 別に○○先輩のこと、そういう意味で好きなわけじゃ、ないです!」
思わず声を荒げてしまう。後ろめたいことなんてないのに、よく分からない感情に支配されている。
強いて言えば、俺は他人が怖いのだ。
人の話に尾ひれが着くのも怖かった。悪意を持った、こいつのような人間が怖い。自分も同族であることを隠し、事実をねじ曲げ、俺を気持ちの悪い存在に仕立て上げるのだろう。
──怖い。愚かにも想像してしまった。
「俺の話分かるよな? 穴貸せ」
「い、嫌です!」
出口を塞ぐよう隣に回り込まれ、部屋の隅に追い詰められる。足が震えて腰が抜けていた。
穏便に波風を立てず、なんて言葉はもう頭になかった。ちょっとしたパニックになっていた。俺はもっと上手くやれるはずなのにと、ただただ震えていた。
「あ? じゃあアイツに言っとくわ。お前あの時ケツ狙われてたぞ〜……ってな?」
○○先輩との思い出も、あの時の思いも全部、こいつによって踏みにじられていく。ずっと綺麗なまま残しておきたかった大切な思い出が。
それは何より耐え難いことだった。
「……お、俺とすれば気が済むんですか」
壁に押し付けられ、両肩にめり込む指の強さに恐怖した。チンピラに対して楯突く力も勇気もない。目尻に涙を溜め込んで、こぼれないようにするのが精一杯だった。唇がわなわなと震え、荒い息が漏れる。
「おう。言わないでおいてやるよ。……尾上ちゃん」
怒りと悲しみと悔しさと。負の感情が綯い交ぜになったなにか。頭の中で何度こいつを呪ったか分からない。……気色悪い。
俺はこいつと地獄に落ちるんだなと思った。
それからのことは思い出したくもない。ゴミみたいな奴とカスみたいな俺のどうしようもない一日が意味もなく過ぎていく。
俺は奴のお気に入りらしかった。俺を突然呼び出して、ほぼ無理矢理に突っ込む。何度も腹を殴り、『まんこ』に精を吐き出すのがお決まりの流れだった。
奴から連絡が入ると、脅されて強迫観念に囚われていた俺に選択肢などない。俺だけが都合のいいように使われ、喘ぎ声にもならない呻き声を上げていた。
奴とした日は必ず吐いた。吐き癖がつくと胃液で喉を痛める。昼食べたものを便器にぶちまけて、それからは夜飯を食う気にもならない。そんな生活を続けていたら、元々痩せ型の体型なのに五キロほど痩せていた。もはや骨と皮だけに近い。かろうじて生きているような状態だった。
半年ほどそんな生活を続けていたある日のことだ。セックスの途中で首を絞められた。息が出来なくて、苦しくて、上手く声が出せない。口からは気の抜けたうめき声が漏れるばかりで、身体の中に恐怖が籠る。俺がどれだけジタバタと暴れようとも、首に手をかける力はよりいっそう強くなる。意識が遠のいていくのを感じて、俺はその時初めて『死』を意識した。
拘束が解かれ、ふと我に帰る。この地獄のような時間がわずか十数秒のことだったと気づき、心の底から震えた。
奴の目は普通ではなかった。瞳は焦点があっておらず、薬物でもキメているのではないかと疑ってしまうくらいだ。その場から逃げだそうとしても、奴の方が体格がいいから、すぐ取り押さえられてしまう。そのうち、暴れるだけ、逃げようとするだけ無駄だと学んでしまった。どんなに辛くても終わりさえ見えれば我慢できてしまった。そんなことに慣れたくなんてなかった。
一番奥を突かれる度に堰き止めていた涙がこぼれ落ちる。一つも気持ちよくなんてないから、とにかく早く終わってくれ。
首を絞められると、意識が、落ちていく。
重い瞼を開ける。頭も重い。
奴はベッドの中で呑気にいびきをかいて寝ていたから、こんな奴殺してやりたいと思い、首に手をかけた。そうすればこの地獄から抜け出せると思ったのだ。
触れた首は脈を打ち、この男が生きているのだと伝えてくる。ここでこいつを殺せば、俺は人殺しというレッテルと一生消えない罪を背負っていかなければならない。そして、この先の人生が楽になることもないんだと教えられている。
乾いた笑いが出た。なんて理不尽な世の中なんだ!
馬鹿らしいと思い、そっと手を離した。
奴から逃げるように部屋を出た。それからしばらく宛もなく走り続け、奴が追いかけて来ないことを確認して、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
あ、死ぬのってこんなに簡単なんだ。人間はこんなに簡単に殺せてしまうんだ、そう思ってしまったら、言い表せない恐怖が全身を襲った。全身がガクガクと震えて知らず知らず涙が溢れる。人間はいつか死ぬ、事故や病気で呆気なく死んでしまうことも分かっている。それでもどこか、まだ三十の自分とは縁のないものだと思っていたから、そのどうしようもない事実を突きつけられて愕然とする。しばらく立ち上がることも出来ず、通行人の好奇の目に晒されながら、死にたくないと何度も呟いていた。
俺は馬鹿だ。
メールも電話も着信拒否にした。どうしてあんな奴に従って、良いように使われていたのか今では理解できない。俺がそう思うようになったのは、洗脳や支配から解き放たれたということなのだろうか。
仕事の都合で外せない場合を除き、奴の近所には近寄らないようにした。あまり出歩かないようにもなった。出来るだけ一人にならないようにしたし、車で移動した。始めからこうしておけば良かったのだ。あんなのはただの『脅し』で、それ以上でもそれ以下でもない。真に受けてしまった自分が悪いのだ。そう思うことにした。
あれから四ヶ月が経ち、奴からはなんの音沙汰もない。
[newpage]
残業にはなったが、十九時には帰れてよかった。コンビニで夕飯を買って家路に着く。どこからかカレーの良い匂いがして、遠い青春の日々を思い出していた。
吐き癖は多少改善され、油物でも量が多くなければ食べられるようになった。前よりも食事が楽しくなったのは良いことだ。体重も少し増えた気がする。
腹も減ったから、少し急いで歩いた。
自分の安アパートの前に来て、上着のポケットから部屋の鍵を取り出す。鍵を入れて回してみるが、おかしい。鍵が開いた音がしない。朝出る時に鍵を閉め忘れたのだろうか。次からは気をつけようと思い、ドアノブを回した。
ツンとした甘い匂いが鼻につく。嫌な匂いだ。
『それでは明日の天気です』
それは女性アナウンサーの声だった。おそらく夜のニュース番組だ。
鍵は締め忘れたかもしれないが、こんなのはない。……こんなはずはない。部屋の中を、明かりが煌々と照らしており、テレビが大音量で鳴り響いている。明日は少し冷えると気象予報士が告げていた。
全身に冷や汗が滝のように流れる。今、この部屋の中で、明らかに良くないことが起こっている。もうそれだけで腰を抜かしてしまいそうだった。
「おかえり。遅かったじゃん」
背筋が粟立つ。この世で一番嫌いな、気色の悪い声だった。
玄関近くのトイレから顔を出したのは紛れもなく奴だ。奴に鍵を渡したこともなければ、そもそも家に上げたこともない。……どうしてここが分かったんだ。
「なんで……」
「会いに来てやったんだよ。まんこちゃん」
「あ、あ……ああ!」
俺は一目散に踵を返して逃げ出そうとする。そんな俺の腕を、奴はつかもうとする。
まずい。
逃げなければ、あの地獄のような生活に逆戻りだ。
もう必死だった。すんでのところで身を翻し、部屋を抜け出した。逃げなければ殺される、死にたくないと強く思った。
それからは無我夢中で走った。随分と長い時間走ったつもりだったが、実際は数分足らずですぐに捕まってしまった。体力で俺が勝てるはずもないし、身体が弱ったのも元はと言えばこいつのせいだ。全部、全部こいつのせいなのに!
「そんなんで撒けると思ってんの」
「や、やめろ……!」
思い切り引き倒されて、視界が反転する。次の瞬間には頭を殴られていた。くらくらして、それだけで意識が飛びそうになる。
「あ゙ッ……が」
奴は俺が逃げないよう馬乗りになり、思い切り首を絞める。首を絞める手をなんとか外そうとするも、力が入らない、足りない。声が出ないから、ヒューヒューと息の音だけがする。
……死にたくない。死にたくないと何度も何度も声を出したつもりだった。声は出ていなかった。助けを求めても誰もいなかった。やっぱり、声は出ていなかった。
「う゛っ……ぐ、あ……」
「……馬鹿なヤツ。帰るぞ」
無理矢理立たされたと思ったら、頭に酷く重い衝撃が走る。もう一発殴られたのだ。肩を組まれズルズルと引き摺られながら、俺は意識を手放した。
目を開けたら朝だった。混濁した意識の中、見知った天井を見つめていた。頭が重くて動ける気がしない。
猛烈な眠気が薄れていくのと同時に、強烈な痛みに襲われる。頭、顔、首、腹、そして尻の穴。顔にも腹にも固まった白い粘液がこびり付いていて気持ちが悪い。俺が意識を失っている間も、『好き勝手』していたのだと気がついて、ゾッとした。
部屋に不快な匂いが染み付いて気分が悪い。
痛みを堪え、玄関の鍵を閉める。何度も何度も確認した。意味はないかもしれないが、何もしないよりはマシだ。気休めくらいにはなる。全ての部屋のあらゆる場所を探したが、奴はいなかった。
……もう嫌だ。結局俺は逃げられなかった。何もかも投げ捨てて知らない所へ逃げてしまいたい。もう全部捨ててしまえ、こんなゴミみたいな自分ごと。どうせ死ぬのなら、今死んだって同じだろう。
それなのに、どうして手離せない。死にたくないと一度でも強く願えば、生きたいと思ってしまうのか。
誰かこんな俺を叱ってくれ、罵ってくれ。こんなに苦しいのに、死にたいとすら思えない俺はおかしいのだろうか。
年配の警察官に訝しげな目で見られる。顔のアザは思ったよりも大したものではなく、傍から見れば、殴られて首を絞められたのだと信じられないらしい。あまり真剣に話を聞いてはもらえなかった。とりあえず病院に行って、診断書を貰ってきたらまた話をすると言われて終わり。正直面倒なんだろう。明らかにワケありの男同士のいざこざなんて。
奴の様子があまりにもおかしかったので、薬物をやっているんじゃないかと申し出たが、何の証拠もないからあまり真剣には受け取ってはくれなかった。俺も憶測でしかないから強くは言えなかった。結局、自分の身は自分で守るしかないらしい。そんなことが出来るなら、俺は苦しんでなんかいないのに。
交番近くの公園でベンチに腰掛け、腕を組んで座っていた。見上げると曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。
重たい頭でこの後のことをぼんやりと考えていた。
勝手に侵入されているのだから、部屋は安全ではない。とりあえず明日は仕事を休むとして、今日はどこかに泊まらなければ。今日だけならホテルでもいいが、長期になると金が持たない。
……実家には帰りたくなかった。迷惑をかけたくないとか、そんな善人みたいな理由じゃない。こんな馬鹿みたいなことで世話になるのが恥ずかしいだけだ。
今だけは、どうしても誰かに頼りたくなる。助けてくれそうな友人を一人思い浮かべた。しかし二、三年は会っていないし、そいつにだって生活はある。断られたらそれまでだ。震える手で携帯電話のキーを打つ。
藁にもすがる思いだった。いつもなら、迷惑をかけたくないと渋るところだが、緊急だから許してくれと甘えてしまっていた。携帯電話が振動し、友人からのメールを告げる。そのメールにはたった一言、いいよとだけ書かれていた。
俺は一目散に友人の元へ向かった。普段は車で通る道を、走って移動した。
俺はもう何もかも捨ててきてしまった。少しの現金と携帯電話があるだけで、あとは自分の身ひとつ。元々大した財産もない。残ったのは汚れた自分だけ。
俺は彼がいなければどうなっていただろうか。そんなことをたまに考える。
しばらくして、警察から連絡があった。奴が捕まったと。別の女性からも通報があり、逮捕に踏み切ったそうだ。そしたら余罪が出るわ出るわ。傷害に強姦、薬物乱用まで。初犯でも実刑は固いらしい。
憑き物が落ちた気分だった。これで奴に怯えて暮らす生活を抜け出せる。数年経てばシャバに出てきてしまうのは恐怖でしかなかったが、後のことを考えても仕方がないと自分に言い聞かせた。
その後、俺はすぐに部屋を引越した。しばらくは手を上げる動作に怯え、玄関の鍵も執拗に確認していたが、二、三年も経てば少しずつ良くなっていった。
結局、奴はまた薬物で捕まって、今に至るまでずっと塀の中にいる。さすがにもう、奴に怯えることはなくなった。
それから高松と付き合うまで、真剣な付き合いはもちろん身体の付き合いも一切なかった。特定の相手を作るのが嫌なんじゃない。その過程でよく知らない他人と関わるのが怖いだけだ。良き友人のように、世の中は悪い奴だけではないと知っている。でもそれは、付き合ってみないと分からないことだ。新しい人間関係を築くのが億劫になり、一人で苦しんで、孤独になっていく。このまま一人で死ぬことになってもおかしくないと、そう思っていた。
俺はずっとマイルドセブンを吸っている。どこのコンビニにもあるから、手に入れやすくて楽だし、これ一筋だと高松には言っているが、それだけじゃない。
馬鹿な話だ。俺は○○先輩の影を追っているのだろう。あの忌々しい奴に汚された思い出を取り返すように。メビウスと名を変えてもずっと、きっと永遠に。
高松に対して後ろめたい気持ちはある。そりゃあ、二十年も前の男のことを引き摺っているなんて、言えるわけがない。たとえそこに恋愛感情が無かったとしてもだ。タバコを吸う指がエロいと言われた時、胸を一突きされた気分だった。それでも、今更やめられなくて、これを否定されたら自分が自分でなくなってしまいそうで。
人には秘密の一つや二つ、あるものだろう。墓場まで持っていく覚悟もある。
俺は今でも、キャスターのあのバニラの匂いが嫌いだ。
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