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42歳の2人
「よく聞け」
尾上さんは俺の前で腰に手を当て、仁王立ちでふんぞり返っている。そのあまりに仰々しい態度に、俺は気圧されてしまった。
風呂から上がり、ゆっくり過ごそうとリビングのドアを開けたら、偉そうな俺の恋人がいた。
「どうしたんですか……?」
尾上さんは勝ち誇ったような顔をして、不遜な笑みを浮かべている。光に反射するメガネも相まって、悪の組織の幹部かマッドサイエンティストのようだ。なにか嫌な予感がするのは、おそらく気のせいではない。
「俺の誕生日まで敬語禁止な」
「……はい?」
何を言い出すのかと思えば、また、尾上さんのよく分からない企みが始まったぞ。
「だから、今日から敬語禁止だって」
考えるのをやめ、仁王立ちの尾上さんをとりあえずスルーしてキッチンに向かうと、焦った尾上さんが追いかけてきた。
冷凍庫からアイスクリームを取り出す。風呂上がりのアイスは美味い。
「あ、俺もアイス食べたい。それと、話も聞け」
冷凍庫から、チョコレートのカップアイスとスプーンを尾上さんに手渡した。
尾上さんは不満げだ。アイスくらいじゃ騙されてくれない。
「はい、どうぞ。それで、なんですか……今度は」
半ばあきれながら、ソファに深く腰かけた。尾上さんも隣に座って、スプーンでカップのアイスクリームを掬っている。
尾上さんはたまに変なことを言い出すのだ。
きっと、俺をからかって遊ぶのが好きなんだ。セックスの時に、声を我慢するんだと言ってみたり、俺を焦らして試してみたり、毎度毎度返り討ちにあっているのに、懲りる様子はない。
「俺の誕生日まで、俺とお前は同い年だろ。だから、敬語なんていらないわけだ」
先日の7月29日に誕生日を迎え、俺は42歳になった。そして、尾上さんの誕生日は11月3日だ。つまり、その間の三ヶ月だけ、俺と尾上さんは同い年なのだ。
「もしかして、これから二ヶ月続けるつもりですか?」
「『です』はダメだって言ったばかりだろ」
さっそく釘を刺されてしまった。
「本当に続けるつもりで……なの?」
気をつけていないと、『です』と『ます』が勝手に着いてしまう。
「とりあえず俺の誕生日までな。世の中には真ん中バースデーってのがあるらしくて、それが今日なんだ。だから、今日から始める」
「真ん中バースデー?」
聞いたことのない単語だった。スプーンを持つ手を止め、首を傾げていると、得意げな顔をした尾上さんが教えてくれた。
「真ん中バースデーっていうのはな、二人の誕生日の丁度真ん中にくる日のことを言うらしい」
「へえ。そんなのがあるんですね」
ミーハーを自称している俺ですら聞いたことがないのに、どうして尾上さんがそんなことを知っているのかは分からない。
しかし、いい機会だろう。さん付けなし、タメ口で喋るのもいいかもしれない。
恋人になってからしばらく経つが、俺はいまだに『尾上さん』と呼び続けている。出会ってから三年ほどそう呼んでいたから、いきなり変えろと言われても、慣れないのかもしれないけれど。
「ずっと気になってたんだ。もう、友達じゃないんだから、別にいいだろ?」
「まあ……浩之がそう言うなら、いいか」
「ひ、浩之……」
尾上さんの視線は分かりやすく泳いでいる。恥ずかしいのだろうか。
「恋人なんだから、名前で呼んでも良いよね? それとも……嫌だった?」
スプーンですくったアイスクリームを尾上さんの顔の前に差し出す。
尾上さんは目を細め、眉間に皺を寄せてからわざとらしく大口を開け、アイスクリームに食らいついた。
「嫌じゃない」
「だったら、俺のことも健太郎って呼んで?」
「……け、健太郎」
可愛らしく俺の名前を呼ぶものだから、我慢できずに口付けた。尾上さんの唇はチョコレートの味がする。
尾上さんは頬を紅潮させ、身を捩っている。恥ずかしいのだろう。
「可愛い。キスだって何回もしてるのに、こんなに恥ずかしがって……」
なんだろう。可愛らしい尾上さんをからかうつもりだったのに、ふと、頭の片隅に何かが引っかかった。別に下の名前で呼び合うのは初めてじゃない。慣れていないだけだ。
バツの悪そうな尾上さんと目が合う。
そういえば、健太郎と艶っぽく呼ぶ声には聞き覚えがある。尾上さんが俺を名前で呼ぶ時といえば……。
もしかして、尾上さんは俺との情事を思い出して、恥ずかしくなっているのだろうか。
「何考えてるか知らないけど……思ってても口に出すな。余計なこと言うなよ」
「恥ずかしいんだ?」
「バカ。調子に乗るんじゃない。なんなんだ、さっきからニヤニヤして……」
「浩之から言い出したのに。タメ口が良いんでしょ?」
「そうだけど、変なこと考えるなよ。普通に、ふつうに話せばいいんだからな」
念を押してそう言われると、余計に何かしたくなってしまうのが俺の悪い癖だ。
さあ、どうしてやろうかな。タメ口か名前呼びを利用してなにかしたい。いや、むしろ敬語を使ってなにか出来ないだろうか。俺はついつい楽しくなって、ニヤケ顔をやめられなかった。
「ねえ」
ソファに座ってテレビを見ていたら、隣に座っていた高松が手を重ねてきた。妙にソワソワしていたから、なんとなく察してはいたし、俺もその気でいた。
今日は土曜日で、明日も休みだから。
「どうした?」
俺も分かっているくせに、白々しい返しをしてしまう。目線も合わせず、横目で高松を見るだけだ。
「土曜なんだし、しませんか? 浩之さん」
「ひ、浩之さん……?」
不覚にも『浩之さん』呼びにときめいて、声が裏返ってしまった。今までは『尾上さん』。ここ一週間は『浩之』だったのに。
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど、お前、喋り方戻ってるぞ」
俺が制定した敬語禁止令。高松が何を考えているのかは分からないが、一週間ほどフランクに話していたのに、そういう雰囲気になった途端、敬語で話しやがる。
太くごつごつとした指が、俺の手の甲をゆっくりとなぞる。だから、ついつい目で追ってしまう。
一瞬、身体が震えた。高松は爪の先まで優しく触れてから、指を絡めていた。
「お前なにするつもりだ」
「マッサージですよ」
高松はそのまま俺の手を揉み始めた。手のひらの中心を程よい加減で指圧されると確かに気持ちいい。別にコリがあるわけでもないだろうに、どうしてこんなに気持ちいいのだろう。
「手にはいっぱいツボがあるみたいですよ。だから気持ちいいし」
「……なんだよ」
「性感帯にもなるんですよ」
「……まさか」
高松は親指の腹で俺の手のひらを軽くなぞる。触り方が急にいやらしくなった気がする。確かにぞわぞわとした感触はあるが、気持ちいいというほどではない。本当に手なんかが性感帯になるのだろうか。
「くすぐったいだろ」
高松は指の付け根を何度も擦っている。触り方にいやらしさを感じるが、なにも感じない。ただ触られているだけだ。
「じゃあこれは?」
今度は指の股を爪の先で擦られている。ほんの少しだけゾクゾクして、身震いしてしまう。そんな俺を見て、高松は「フフッ」と、軽く声をたてて笑った。
「ちょっと、気持ちいいかも……」
「そのうち俺に手触られるだけで気持ちよくなっちゃうんですよ」
馬鹿な、笑い飛ばしてやると思ったのに、高松と目が合ったら、そんな気も起こらなくなってしまった。
高松は不自然なほどに優しい笑みを浮かべていた。
何かを企んでいるのは明らかだった。
そして、高松は俺の肩を抱き、耳元で吐息混じりに囁くのだ。
「浩之さんの身体の隅々まで、気持ちいいところ探しましょう?」
背筋を甘い痺れが駆け抜け、思わず声が漏れてしまう。
高松の口調は優しいが、肩を抱く手は力強い。俺を逃がす気なんかさらさらないのだろう。
「た、高松……?」
なんかよく分からないけれど――怖い。
「違うでしょう? 健太郎ですよ」
「け、健太郎……なに?」
「久しぶりだから、いーっぱいえっちなことしましょうね」
耳に吐息がかかると、嫌でも身体が跳ねてしまう。
「ま、待て! なにするつもりなんだ! ちょっと、ちょっとだけタンマ!」
高松は止まってくれない。うなじをなぞられ、唇を奪われたあたりで俺は抵抗をやめた。
ゲッソリした。身体が鉛のように重い。ベッドから起き上がる元気もなく、タバコを吸う気力もない。
なんなんだこいつ。今もベッドに腰かけて悠々とiQOSを吸っているし。
「ふざけんなよ……」
それはもう丁寧に、時間をかけてゆっくりと抱かれた。俺を労わるんだか、いたぶっているんだか分からないほどに焦らされた。
丁寧な言葉で、痛くないですか、気持ち悪くないですか、なんて聞かれても困るんだ。意識まで飛びそうなくらい気持ちがいいのを、高松だって分かっているくせに。
「お前はほんとどうして、そういうロクでもないことばっかり思いつくんだよ……」
高松はiQOSを吸い終わったのか、ベッドに滑り込んできた。
肌が触れ合う。高松の体温は俺よりいつも温かい。
「いやあ、よく考えたらセックスしてるときは普通にタメ口だし、面白くないなって思って。尾上さんを辱めるなら、こっちの方がいいよね?」
高松はひらひらと手を振って、あっけらかんと笑う。
俺が何かを企んでも、いつも高松に踊らされてばかりだ。それなのにこいつときたら。その余裕綽々な態度が気に入らないんだ。
どこまでも腹の立つ奴!
「そんな意地悪するんだったら、もうタメ口ダメだ! 戻せ!」
「いいんですか? 尾上さんが言い始めたのに」
負けを認めるようで癪だが、もう知ったことか。
「うるさい。お前が悪いんだぞ……」
気だるい身体を無理矢理起こした。
ベッドサイドのテーブルに手を伸ばす。ソフトケースからタバコを一本取り出し、火を点けた。
俺は痛む腰をさすりながら、煙がかからないよう、高松に背を向け息を吐いた。
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