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第10話:明日を夢見る大人は
俺は読書感想文で何度か賞をとったことがある。何を書けばウケが良いか、ある程度分かってしまうからだ。
俺はただ器用なだけの男だ。器用で明るいばかりに人が寄ってきてしまう。
俺は一度離婚している。理由は不倫をされたから。
今まで生きてきた中で一番のショックだった。あまりに落ち込んでしまい、当時普通の友人だった尾上さんに慰めてもらったほどだ。
あらゆることは信用で成り立っている。不義理をすれば割を食う人間がいる。
あの日、俺以外の男とホテルに入っていった彼女は、俺をどう思っていたのだろうか。もう愛想も尽きていたのだろうか。結局なにも分からないまま、不倫の末の離婚、最悪の別れ方になってしまったのは今でも悔やまれる。
俺は思い知った。紙切れ一枚で家族になったのだから、逆もまた然りで妻といえど所詮は他人なのだと。
お前は悪くないと尾上さんは励ましてくれたけれど、俺は相手が百パーセント悪いだなんて思っちゃいない。
これは自分の至らなさに目を瞑ってきた報いなのだ。
自慢ではないが学生時代はそこそこ勉強が出来た。明るく話しやすい性格で、誰かに頼られることも多かったし、俺の周りには人が集まった。
優等生キャラの弊害か、面倒な役回りを任されることも多々あったが、頼りにされるのは悪い気もせず、断る理由もないからと安請け合いをし続けた。
「高松くんしか頼める人がいないの」
幾度となく聞いた言葉だ。俺だってそれが都合のいいおべんちゃらだと気がついている。それでも俺は適当な人間だから、人の良い顔をしていいよと言うのだ。自分より頭の良い奴も、真面目な奴もいっぱいいるのだから、そちらに頼めばいいのにと思うことはよくあった。
別に自分を卑下しているわけではない。
リーダーシップがあるとか、コミュニケーション能力があるとか、そんなことを言われてもいまいちピンとこない。ただのおしゃべり好きなだけの普通の人間だ。むしろ、誰かに指示をするとか、偉そうにするとか、そういうことは苦手な部類に入る。人の上に立つための素質自体はないのだろう。
だから俺に対して『特別な何か』を求められても、応えられる気がしない。勝手に何かを見出して、勝手に裏切られた気になられても困るのだ。
今は高校生なんてまだまだ子供だなと思うくらいには年をとってしまった。でも、本質はきっと変わっていない。
初めての彼女はクラスで二番目に可愛い子だった。可愛いから気になってはいたが、それ以上の好意はない。いや、時間が経てば恋心くらいは抱いたかもしれないけれど。
告白されて、断る理由もないから付き合った。キスもセックスもしたし、付き合ってからはちゃんと好きだった気もする。それでも、後ろ髪を引かれることは一切無かった。
もうその子の名前も覚えていない。自分は冷たい人間だろうかと、今になってそう思うのだから笑ってしまう。
大学に入ると、とにかく年下にモテた。バイト先で、サークルで合コンで。大して見た目は良くないはずなのに、話好きで面倒見の良い(実際は断りきれないだけだ)キャラはウケが良いのだろう。
それでも長続きしたことはなかった。どうにも、俺は深く付き合うにはつまらない男らしい。何がつまらないのかを考え、何度フラれても、俺は変われなかった。
努力は得意だが、きっと空回りしていたんだろう。相手の嫌なところが目についても、サヨナラ出来ずに寄りかかられて疲弊していくばかり。お願いされると断れない。ここまでくると悪癖だ。
交際相手が欲しいと思うのは見栄と好奇心からくるもので、性欲を満たすだけなら誰とも付き合わず、その場限りの関係の方が何倍も楽だった。
人から与えられる好意をどう扱えばいいのか、どう応えればいいのか、俺はずっと分からない。恋愛の熱に浮かれていただけで、本気で人を好きになったことなどなかったのかもしれない。
俺は周りが思っているよりずっと冷たい人間だ。
見た目に気を使っているし、人並みに努力だってするけれど、中身はペラペラで薄い人間なんだと自分で分かっている。
おしゃべりでいい加減だから明るく見えるだけ、少し器用で上手く生きているだけ。俺に『良い人』を求めないでくれと、身勝手にもそう思ってしまう。
だってそれは、俺が作り上げた『良い人』だから。偽物だから人を裏切るし、酷く傷つけることもある。嘘を隠すために嘘を重ね、もう三十年近くも経ってしまった。
俺はハリボテなんだ。それなのに、この人生の主役を気取って、最早引っ込みがつかなくなっている。
本当の俺は大したことのない酷い人間なんだと言いふらして、楽になれたらどれだけ良いだろう。
もう二十年も前のことだ。俺には忘れられない男がいる。
その男は友人の一人に過ぎなかった。
大学生の当時、バイト先の居酒屋で共に働いていた一つ年下の男の子。ブリーチをした綺麗な金髪に、複数開いたピアス、チャラチャラした見た目の『イマドキの若者』だった。初めは素っ気ない態度をとられ、嫌われていると思っていたのに、話すにつれて明るい素直な奴なんだと気がついた。
それから彼は友人になった。
俺は騒ぐのが好きだから、何人か集めて飲み屋に誘い、徹夜で遊んでいた。彼はその集まりに必ず来ていたし、ノリも付き合いも良い奴だと気に入っていた。
その関係が変わっていったのは、俺がそれなりに女遊びを覚えた頃だっただろうか。男に迫られたのは初めてのことだった。
あれは大学三年の春。ほとんど飲みサーと化した名ばかりのボランティアサークルに入り浸り、まともに講義も出ず、バイトに明け暮れていたあの頃。
夜の街を飲み歩き、終電を逃して、消去法で渋々入ったラブホテルだ。今思えば、お互いそこまで酔っていたわけでもない。帰ろうと思えば徒歩でもタクシーでも帰ることが出来た。でも、俺たちはそうしなかった。
彼──飯田翔太という男は見た目こそ派手だが、俺の後ろを健気に着いてくる忠犬のようだった。人の顔色を常に伺っている臆病な面があり、彼はいわゆる『大学デビュー』なのだとうすうす勘づいていた。
金髪もピアスも、きっと馴染んではいないのだろう。
女の影もほとんどない。ラブホテルだってほとんど行かないのだろう、妙に緊張している。さっきだって視線が泳いでいた。
足元も覚束無い翔太をベッドに寝かせ、俺もベッドに深く腰掛ける。耳まで真っ赤になった彼に声をかけた。
「フラフラしてたけど、大丈夫か?」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。オレこそ……こんなとこ連れ込んじゃってごめん」
翔太はベッドにもたれこみ、力無く四肢を投げ出した。
「ほんとだよ! 男二人でラブホなんて、なんのつもり?」
肩を竦めて、大袈裟に困ったポーズをとる。お得意の冗談だったのだ。
それなのに、翔太は神妙な面持ちで考え込むものだから、俺も焦ってしまう。
「いや、冗談だよ。あはは……」
翔太は真面目な顔をして少し考え込んでいた。その間どうすればいいのか分からず、苦笑いを続けていた。
「あのさ……健太郎は男じゃ無理? オレ、ケツ開発しててさ……ちんぽ挿れてみたいんだよ」
それは突然の告白だった。
驚きはしたが、その時の俺を支配していたのは好奇心だった。嫌悪感もなくむしろ乗り気だった。
最低な言い方をすれば、穴なら何でも良かったのかもしれない。新しい遊びや趣向に興味を持ったのと同じだ。
俺は元々素質があったのだろう。
「いいよ。俺はどうしたらいい? 初めてだからわかんないんだけど……」
「え……? あ……その、自分で準備するから、健太郎は突っ込むだけでいいよ」
翔太は明らかに狼狽えて、それだけ言うとそそくさとバスルームに消えていった。
一人ベッドに残され、ぼんやりと思考を巡らせているうちに酔いも覚めていく。二つ返事で承諾した自分をどこか遠くに感じていた。男のケツの穴に突っ込むことになるなんて、思いもしなかったのに。
男の身体は案外具合が良かった。普通に勃ったし、イけた。
突っ込んで、腰を振って、イけば終わり。
挿れる穴が違うだけで、女相手とそこまで変わらないから、突っ込む側はそんなもんなのかと思いこんでいた。今になって思えば、翔太が気を使ってくれたおかげなんだと分かる。不快感も不便もないようにしてくれた。
ただ、当時の俺はそんなことに気付く余裕も経験もなく、コイツとヤれば楽が出来ると勘違いをしていた。俺にだけ都合のいい関係の出来上がりだ。
それから何度も身体を重ね、翔太という男を知っていく度に、彼は苦しそうな、泣きそうな顔を見せた。今思うと分かりやすいSOSだ。
それなのに、その心中を察することが出来なかった。どこか痛いのだろうかと頓珍漢な思考をしていたのだから救えない。
俺に恋愛感情など一切なかった。セックスはするけれど、今まで通り翔太は友人だった。その認識を疑うこともなかった。
翔太はベッドに腰掛け、タバコに火をつける。彼はスリムタイプの細いタバコばかりを好んで吸っていた。
俺は気怠い身体をベッドに投げ出し、何の気なしに言ったのだ。
「恋愛とかめんどくさいことしなくていいし楽だわ。助かるよ、翔太」
──返事がない。俺は不思議に思って、彼の横顔を盗み見てしまった。そして、心底後悔した。
目を細め、唇を噛んでは無理矢理口角を上げ、声を詰まらせたように小さく嗚咽を漏らしている。そんな顔を見てしまったら、俺はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。
どうしてそんな顔をするのか、心の底から分からないのだ。
みんなは俺のことを好きだと言うけれど、どこを好きになるんだろう。
恋愛が分からないから、性欲で突き動かされているだけだ。そんな獣と同じような自分に、愛や恋というものを求められても応えることなど出来ないのに。
「翔太、お前……」
「……ごめん、やっぱ無理だわ。遊びでこんなこと出来ない。オレは……お前のこと好きなんだ」
絞り出したように言う彼の言葉は熱い。──暑苦しいほどだ。それなのに俺の身体は芯から冷えて、サーッと頭が冴えていく。
付き合うとか好きだとか、そういう面倒臭いものから逃げるために彼と関係を持っていたのかもしれない。俺だけに都合のいい関係なのだから、初めから破綻していたのだろう。そんなものが上手くいくはずがないのだ。
翔太は泣いていた。大粒の涙を流し、何度もしゃくりあげている。
俺にだって人の心はあるから、翔太に対して申し訳ないと思うし、どうかこれ以上傷つけないようにと上手い落とし所を探していた。それなのに。
「健太郎は何でも出来るから、俺の気持ちなんて分からないと思うけど……俺は割り切れないんだ」
一瞬で頭が沸騰した。きっと俺が悪いんだと分かっていても、それでも。
──健太郎は何でも出来るから?
俺を超人だと決めつけて、ヤケになったように吐き捨てる台詞を何度も聞いてきた。
俺はなんでも出来るわけじゃない。確かに器用ではあるけれど、それなりに努力だってしてきた。それを、誰も分かろうともしない。むしろ俺に傷つけられたと言いたげな顔をする。
もう、どうでもいい。結局はみんな俺の上っ面しか見ていないのだ。
「……考えさせて」
それだけ言って、俺は彼の前から姿を消した。イエスでもノーでもない、ただの保留。
翔太の番号を着信拒否にして、携帯電話をベッドに放り投げた。冷蔵庫から缶ビールを取り出して、おもむろにプルタブを開ける。口を付け、ぐいと思い切り煽った。
「……俺は、別に好きじゃないよ」
俺は子供だ。怒りに任せて逃げてしまったのだから。
『好き』ってなんなんだ。友人に対する情とどう違う? 性欲だけでセックスしたらダメなのか。責任というものを取らなければならないのか。
一人を愛し続ける覚悟も、幸せにする責任も、そんな重いものを、俺は背負える気がしない。俺は逃げ続けていくのだろうか。流されたままでい続けるのだろうか。今は良くても、若さを理由に出来なくなっていく。そう、気がついていた。
──その時に、俺はどうするつもりなんだ?
それから、翔太とは一度も会っていない。今は大学と離れた場所で暮らしているし、この先の人生で会うことはないのだろう。俺は彼を傷つけ捨てて、逃げるように色んな男を抱いた。逃げて逃げて逃げ続けて、誰かを愛することも出来ず、独りで生きていくことになろうとも、それもまた自業自得だと思うのだ。
恋愛というものは難しい。友人と接するように楽しい話をし、優しくしていれば良いと思っていた。でも、それでは足りないらしいと、気づいたところでもう遅い。
俺の囁く愛の言葉は、ドラマや漫画の受け売りばかりで、きっと本物ではなかったのだろう。
取ってつけたような三文芝居。どこかで聞いたようなセリフを吐き、キザに演出してみても、俺は大根役者だと糾弾され、気づけば一人舞台だった。歴代の彼女達は俺が芝居を打っているのだと、はたして気付いていたのだろうか。
空虚。
俺はずっと夢を見ていたのかもしれない。目を開けて見る夢を。
尾上さんと出会ってから、俺の世界は色付いている。
尾上さんは明らかに他と雰囲気が違う、異質な人だった。話してみればどこか世間から浮いていて、それでも一本芯の通った人だった。
俺には自分の世界を真っ直ぐに生きる、唯一無二の人が輝いて見えた。そして、その人は弱った俺に救いの手を差し伸べてくれた。
この人を無下にできない。この優しい人には幸せであって欲しい。そう思ったら、知らない感情が湧き上がっていた。
今まで生きてきて初めて、大事にしたい人に出会ってしまった。尾上さんの笑う顔が見たくて、この人を幸せにしたいと心から思っている。これが人を愛するということなのだろうか。
誰かと深い関係を築くのは難しい。 遊ぶ分には事欠かないが、親友と呼べる、心を許せる相手はいない。
そんな自分だから、尾上さんから向けられる無防備な愛に戸惑ってしまうけれど、俺を完全に信用して身を預けてくれるのは嬉しいのだ。
彼の意志の強さは(少々融通が効かないところもあるが)目を見張るものがあり、尊敬している。
尾上さんは優しいけれど、俺の全部を許してもらおうとは思わない。彼のおかげでどれだけ自分が変わろうとも、そんな虫のいい話があってはいけない。
俺は『本当の良い人』になりたいんだ。かっこよくありたいし、優しくなりたい。そして、大人になりたい。
そうでなければ、俺はまた人を傷つけてしまうから。
俺はいつだって、『誠実で愛情深い人間』になる日を夢見ている。
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