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第11話:エゴ

 最近の尾上さんがあまりにも素直で心配になる。  俺の言うことを「仕方がないな」と、ほとんど何でも聞いてくれる。よっぽど嫌なことでない限り、ノーとは言わない。  これが無償の愛だというのなら、あまりに危うい。俺がそこそこ理性的だから、かろうじて成り立っている関係なんだと思ってしまう。俺が一歩道を踏み外せば、尾上さんは『俺の物』になってしまう気がして。こんなのは俺の妄想にすぎなくて、きっと杞憂で。尾上さんは俺が思っているよりずっと自立しているんだろうけど。  俺は自分があまり好きではない。  俺はただのお喋り好きでしかないのに、良い顔をして色んな人と仲良くしていると、他人を騙しているような気がするのだ。 「お前、ほんとにモテるんだなぁ。あんな若い子にまでナンパされて」  尾上さんとスーパーからの帰り道を並んで歩いていた。レジ袋が寒さで悴んだ指に食い込んでいる。今日はエコバッグを忘れてしまった。 「そういうのじゃないですよ。職場の子です!」 「へー。それにしては、ベタベタされてたけど」 「あの子、俺にだけじゃないんですよ。他の人にもスキンシップ多くて」  玄関の鍵を開けて、部屋の中に入る。気づかれないように息を吐いた。  尾上さんは俺をスーパーで見かけたらしい。仕事帰りのことだ。別にそれだけならなんてことはない。  ただ、俺は新人──俺より二十も下の、最近まで大学生だった女の子にベタベタと触られていたのだ。そんなところを恋人に見られて、あまり良い気はしない。  彼女に下心があるか、尾上さんがどう思っているかはこの際どうでもいい。俺がただ、尾上さんに対して誠実でありたいと思っているだけなのだ。それは、ただの独りよがりだと分かっている。 「振り払えれば良かったんですけど……」 「気にすんな。今さら妬いたりしないよ。お前がモテるのなんて、嫌というほど分かってるからな」  尾上さんに他意なんてない。声色も明るいし、なにより嘘がつけない人だから態度でよく分かる。  それでも少し棘を感じてしまうのは俺に問題があるからだ。毅然とした態度をとれない自分に負い目があるからだ。  キッチンに入ると、しゃがんで俯いては一番下の冷凍庫を開ける。冷凍の大判焼きと、尾上さんの好きなアイスクリームが入っている。  さっき買ってきた冷凍のうどんをレジ袋から冷凍庫に移した。 「……モテても嬉しくなんかないですよ」  俺が小声でそう呟いたのを、尾上さんは聞き逃してはくれなかった。 「なんだよ、自慢か?」 「違いますよ。俺は尾上さんだけに好かれてれば、それでいいんですよ……」 「それでも、別に悪い気はしないだろ。モテるのも人気があるのもいいことだ。それだけお前が魅力的だってことなんだから」  反射的に言おうとした言葉を飲み込んだ。  でも、でも、だって。  そんなネガティブな言葉をぶつけても何にもならない。分かっているのに、それ以外の言葉がなかなか見つからない。  どうしてだろう。俺はもっと、上手く出来るはずなのに。 「俺がすごいって言ったら、お前はすごいんだ」  尾上さんは何度も俺の頭を撫でる。ただでさえ強くパーマのかかった髪がくしゃくしゃに乱れた。  ……これじゃ、俯いたまま顔を上げられない。 「俺はそんなすごい奴の恋人なんだぞ。鼻が高いもんだ。あはは……だからさ、あんま気にすんなよ」  尾上さんは気を使ってくれている。顔は見られないけれどきっと優しく笑っている。俺を励まそうとしてくれている。  嬉しいけれど情けない。少なくとも、俺は尾上さんにそんなことを言わせたくはなかった。 「……ありがとう」  尾上さんはそれから少し黙っていたが、俺の肩を掴んでいつもより声を張り上げて言った。 「なあ、あっちで座ろう!」 「え、でも夕飯作らないと……」 「今日はそんなん良いからさ」  尾上さんが俺の手を引いて、ソファまで誘導する。  言われるがまま夕飯の準備も放ったらかして、リビングのソファに並んで座った。何故だか、尾上さんは少し緊張しているように見える。 「よし。いけないことするか」 「い、イケナイ事……?」  尾上さんは両腕を後ろで隠して、少しもじもじしている。背後に大きな袋がちらりと見えた。どうしたものか、『イケナイ事』と言われるとよこしまな妄想が頭の中を駆け巡ってしまう。  尾上さんは不敵な笑みを浮かべていた。勢いをつけて、尾上さんがテーブルの上に広げたのは──。 「お菓子、いっぱい買ってきたんだ」  大量のお菓子だった。ポテチやチョコレート、クッキーにポップコーン。ラムネやふ菓子のような懐かしい駄菓子まで、色んなものが揃っている。 「ひとりじゃ食べきれないからお前も道連れだ」 「お菓子ですか……?」 「そうだ。ポテチとチョコレートとジュース。少しくらいなら、子供みたいに騒いでもいいんだぞ? 誰も怒らないからな」  頬も緩んだ顔で楽しそうに言うから、俺までおかしくなってしまう。スーツも着たままなのに、他でもない尾上さんが子供みたいだ。 「ふふ……食べましょうか! 今日はお菓子パーティーですね。じゃあ、コーラも持ってきます!」  ウキウキで、冷蔵庫から2Lのコーラを持ってきた。  楽しくなって、ポテトチップスの袋を豪快に開け、チョコレート菓子の外袋も開けてしまう。綺麗な金色の包装を剥がして、チョコレートを口の中に放り込んだ。何の変哲もないただのブロックチョコレートが今はやたら美味しかった。 「それにしても、どうしてこんなにお菓子買ったんですか」  尾上さんは俺の質問に答えず、口の中のチョコレートをゆっくり溶かしている。明らかに何かを考えていた。 「別に……理由はないよ。たまにはパーッといきたくなっただけだ」  尾上さんは嘘をつく時の顔をしていたが、俺はそれ以上何も聞かなかった。下手くそな言い訳を返されるだけだ。 「そんなことよりほら、パーティなんだからゲームでもするか」  スーツのジャケットをソファに掛け、尾上さんはテレビとゲーム機のスイッチを入れていた。  尾上さんはゲームのサブスクに入っているらしく、テレビにはファミコンやスーパーファミコンのタイトルがずらりと画面に写し出されている。 「え、これ全部出来るんですか?」 「そうなんだよ。すごいよな」  ポテチを摘んでは、コーラで流し込む。まるで、子供の頃に戻ったようだった。 「これやったことある? 二人で出来るし、ボリュームも少なめだから、すぐにクリア出来るぞ」  それは俺でも知っている有名なアクションゲームだった。ピンク色の丸いキャラクターが可愛らしい、比較的簡単なゲームだ。 「持ってはいなかったんですけど、友達の家でやってました! 懐かしいですね、最後までやりたい」 「……あ、コラ。ポテチ触った手でコントローラー触るな」  コントローラーを握ろうとしたら、怒られてしまった。迂闊だった。 「ごめんなさい、つい……」  差し出されたウエットティッシュで汚れを落とす。それから、コントローラーを握って、ゲーム画面に目を移した。 「そういえば、俺が1Pやっていいんですか?」 「いいよ。俺は何回も遊んでるからヘルパーでいい」  画面に映し出された可愛らしいキャラクターを操作して、敵を倒していく。しばらくすると、尾上さんの操作する2Pも合流して、二人で先に進んでいった。  このゲームを最後に遊んだのも、もう三十年は前だろうか。友達の家で、コントローラーを回しながらみんなで遊んだ記憶がある。 「尾上さんってゲーム上手いですよね」 「まあ、好きでよくやってるからな」  尾上さんはゲーム全般が好きだ。家でもゲームセンターでもゲームをしているくらいだ。最新のソフトから昔のソフトまで好みは幅広く、なかなかの腕前だ。将棋やオセロまで強いから、俺じゃ太刀打ちできなかった。 「おい……おーい高松、あと二発食らったら死ぬぞ」 「……あ、あれ!?」  このゲームはそこまで難しくないからと、郷愁に浸りながらなりふり構わず敵に突っ込んでいたら、思ったよりダメージを食らっていた。 「ほら、これ取って回復」  尾上さんに促されるまま、画面端にあったお菓子の回復アイテムで体力を補給した。 「でも、尾上さんは回復しなくて良いんですか?」  俺ほどじゃないが、尾上さんもダメージを受けていたから、回復した方が良いんじゃないかなと思い至った。 「うーん……じゃあ俺にもちょっとくれ」  ──ちょっとくれ?  くれと言われてもどうしたら良いのか分からず、首を傾げていると、尾上さんのキャラクターが俺の操作するキャラクターにくっついた。まるでキスをしているようだった。 「そうそう。回復アイテムあげられるんですよね! これ、なんて言うんでしたっけ……ちゅーとかキスじゃなくて」  くっついてアイテムを分け与える、このゲームの回復方法の名前……。 「くちうつしだろ」 「それだ!」  名前が分かってスッキリした。それにしても懐かしい気持ちになる。 「昔も同じこと言ってた……三十年前かぁ」 「そういえば、高松はどんなゲーム持ってたの」 「スーファミとプレステですね。ソフトはね、本当に誰でも持ってるようなソフトだけだったかな……」  自分の家でゲームをすることはあまりなかったように思える。 「うちはたぶん、よそより貧しかったんです。だから、スーファミとかプレステとか、ゲームの本体はすぐに買ってもらえませんでした。年の離れた妹や弟と一緒に遊べるようになってから買おうって話になったんですよね」  弟妹が小さい頃の俺は、友達の家に遊びに行った時だけゲームをしていた。テレビの話は出来るけれど、ゲームの話は苦手だった。  自分よりも幼い弟妹に嫌な思いはさせたくなかったけれど、両親にわがままを言うつもりもなかった。だから、二人と遊べるようになるまで待ってから、ゲーム機を買ってもらった。 「ずいぶんと出来たお兄ちゃんだったんだな。俺なんかと大違いだ、偉いよ」 「そんなことないですよ。尾上さんは?」  少し恥ずかしくなって、話を尾上さんの方にもっていく。 「俺ん家はたぶん、よそより裕福だったんだろう。ファミコンもスーパーファミコンもプレステもあったし、ソフトだって欲しいって言えばだいたい買ってもらえたから」  尾上さんの家にはゲーム目当てのクラスメイトが集まったらしい。確かに、ゲームをいっぱい持っている子や、ゲームが上手い子は人気者だったように思う。小学生の尾上さんはゲームを通して友達とうまく付き合っていたのだろう。  尾上さんの助けもありサクサクと先に進み、気づけばもう二面のボスを倒していた。 「いえーい。簡単ですね」 「さっきまで死にそうになってたのに調子いい奴だな。まだまだこれからだぞ。……ちょっと、一回休憩」  尾上さんはタバコに手を伸ばし、流れるように火を点け、気づけば煙を吐いていた。 「子供はタバコ吸わないんですよ」 「これは……その、あれだ。ココアシガレット」  尾上さんの視線は分かりやすく泳いでいる。  尾上さんがチョコレート菓子だと言い張る『タバコのような物』からは、紫煙が揺らめいている。 「箱に『メビウス』って書いてあるんですけど、煙の出るココアシガレットですか?」 「そ、そうだけどお?」  尾上さんの声は裏返っている。開き直ったように言うものだから、思わず声をあげて笑ってしまった。尾上さん自身も笑いを堪えきれなくなっていた。 「あはは。無理がありますよ」 「ふふ。お前も煙の出るココアシガレット吸うか?」  タバコの箱を差し出す尾上さんは満面の笑みで、心の底から楽しそうに笑っている。  ──可愛い。この人はこんな風に笑える人なんだ。でも、みんなは知らない。きっと俺にしか見せない笑顔だ。 「じゃあ、一本もらってもいいですか?」  俺の尾上さんはこんなにも素敵な人なんだって、みんなに気づいてほしい。知ってほしい。でも、誰にも盗られたくない。この人は俺だけのものだ。  あれ……?  目の前でタバコの煙がゆらゆらと揺れている。頭の中にモヤがかかったようで、なんだかクラクラする。  初めて尾上さんを意識したのも、喫煙所で彼の手元をまじまじと見てしまったからだ。 「ほら、持ってけよ」  なまっ白く、細くて長い指が、俺に触れる想像を何度も繰り返した。艶っぽい声で愛を囁く彼を何度も思い浮かべた。何度も何度も彼の幻覚を見た。 「尾上さん……おがみさん」  目の前の手首を思い切り掴んで、吸っていたタバコを奪い取った。そのままフィルターに口を付けた。間接キスだ。 「……新しいの吸えばいいだろ」  尾上さんの怪訝な顔を見て、俺は一瞬で正気に戻った。背中に冷や汗がつうっと伝った。  ──ああ、俺はなんて醜くて汚いんだ。  心の奥底にしまい込んで繕ってきた、自分の身勝手な部分に触れている。全部を俺のものにしたいだなんて幼稚すぎる。  じゃあ、本当に俺のものにしたらどうするつもりなんだ? 俺のものになった尾上さんはどうなる?  昔捨ててきた罪悪感が足音をたてて近づいてくる。手にしたこれは、ココアシガレットではない。 「これは、その……ごめんなさい」 「いや、いいけどお前……なんて顔してんだよ」  顔が引きつって、口角がうまく上がらない。俺は、どんな顔をしているのだろう。尾上さんが引くような酷い顔をしているのだろうか。 「具合悪いのか? 汗かいてるぞ」 「いえ……大丈夫です」  俺はどうしてしまったんだ。  俺は綺麗な人間ではない。欲しいものを欲しいだけ手に入れて、その後は知らん顔をしているような、むしろダメな人間だ。それなのに、格好良く思われたくて、嘘で上書きし続けている。  俺には分からない。ずっと、ずっとどうしたら良いか分からないままなんだ。 「尾上さん。その……キスしてもいい?」  唇を塞げば、何もかも隠せると思っていた。主体性もないくせにわがままで、いつまでたっても子供のままの、自分を。 「……なんでキスしたいんだ」 「なんでって。いや、その……体力回復に」  咄嗟に口を出たのは下手くそな言い訳だった。  尾上さんは一瞬だけ眉をひそめた。 「……そうか。じゃあ、俺の元気あげるよ」  尾上さんは俺の肩に手を置いて、唇を重ねた。数秒間だけ、ただただ唇を重ねていた。

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