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第84話 その腹に宿るのは
「近江くん」
弾けるように名を呼ばれ、瞳を向けた。
視線の先にいるのは郭遥の妻、澪蘭だ。
澪蘭は、まださほど大きくはなっていない腹を嬉しそうに擦っていた。
郭遥と澪蘭は、高校卒業と同時に婚姻関係となり、一緒に暮らし始めた。
だが、郭遥の心は消えてしまった愁実に捕らわれたままで。
郭遥に相手にされないと、子供ができなければ自分は捨てられてしまうと泣きつかれた。
その時は、セックスだけが子供を作る方法ではないだろうと進言し、事なきを得た。
それからも、冷たく当たる郭遥のフォローの意味合いで、澪蘭を気に掛けていた。
清白家の御曹司に〝離婚〞などという疵をつける訳にはいかなかった。
1人目の子供、郭騎 が産まれた後、郭遥は輪をかけ冷たくなり、俺は澪蘭の淋しさを紛らわせる相手になっていた。
政略結婚である2人の間に、想いなど存在しない。
俺が慰めれば丸く収まるのならという甘い考えで、澪蘭の誘いに乗り、手を出してしまったあさはかな自分。
初めて会った時、郭遥の冷たさに嘆く澪蘭の泣き濡れた姿に、腹底が炙られたのは事実だ。
倉庫街でも、比留間の屋敷でも、俺は喰われる側だった。
貪られる対象として向けられていた視線しか知らなかった。
清白のこの屋敷で俺は、澪蘭の喰い物でしかなかった。
だけど。ただ1人、礼鸞の瞳に映る俺は、獲物ではなかった。
ミケが仕向けた奴らに襲われた俺の姿に煽られた礼鸞。
礼鸞にならばと仕掛けた俺の誘いは、苛立ち紛れに断られた。
そこに恋情が、なかったから。
あったのは、欲に塗れた本能だけだったから。
感情のない交わりで、俺を傷つけないための拒絶。
今思えば、それが礼鸞なりの愛情だったのだとわかる。
そう考えれば、あの時苛立たれた原因も辻褄が合う。
俺の行いは、傷つけまいと瞳を逸らせる礼鸞の自制心を、馬鹿にする行為だったのだから。
俺が抱える礼鸞への想いは、憧れや尊敬の一種であり、恋愛のそれとは違う気がした。
俺は礼鸞に、拒絶するコトも愛なのだと教わっていたはずなのに。
澪蘭への情のかけ方を間違った。
だが、今更だ。
澪蘭の腹に宿っているのは、…俺の子だ。
ふふっと嬉しそうに笑いながら、腹を擦る澪蘭に脂汗が止まらない。
医療の家系である神楽ならば、内密に済ますコトもできるだろうと堕ろしてくれと願っても、聞き入れてはもらえなかった。
「郭遥さまにバレたら、どうなるかわかりませんよ」
動揺を悟られぬように落ち着いた声色で紡いだ言葉を、澪蘭は軽くあしらう。
「大丈夫よ。あんな家庭に興味のない男が気付くわけないじゃない。凍結してた受精卵を使ったって言えば、納得するでしょ」
放って置かれた腹いせだと言わんばかりに、澪蘭は捨てるように言葉を吐く。
だが、本当に怖いのはそちらではない。
「……当主にバレたら、貴女も危ないんです!」
スズシロの男が妻に浮気されただけでも大問題だ。
寝取った相手が秘書である俺で、子を孕まされ、あまつさえ、騙され他人の子を育てさせられているなど、…洒落にならない。
当主は、俺どころか、郭遥の妻である澪蘭や、産まれた子供までもを滅するだろう。
激しい剣幕で怒鳴る俺に、澪蘭の瞳に涙が浮かぶ。
「いや。絶対に、いやっ」
腹に宿る命に、不安定になる澪蘭の精神。
これ以上追い詰め、無謀なコトをされても困る。
俺は、次に紡ぐ言葉を見つけられなかった。
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