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第141話 黒藤の人生

 後を追って部屋を出た俺の前で、柴田の緩い話し声が耳に届く。 「マルとペケは、比留間で預かるから心配いらねぇよ」  話す声は穏やかだが、指先は黒藤の肩にがっちりと食い込んでいた。 「心配なんてしてないよ」  意味ありげな視線を俺へと向ける黒藤に、眉を潜め、顔を背ける。 「まあ。金で買った道具だもんな。物に情はかけねぇか」  ははっと空笑った柴田は、じゃあそろそろその道具のありかに案内してもらおうかと首を傾げる。  マルが待つ控え室へと向かう道すがら、柴田が再び口を開いた。 「そういやお前、なんで逃げなかったんだ?」  どのくらいの頻度でやり取りをしていたのかはわからないが、河堀と連絡が取れなくなってから数日は過ぎている。  黒藤ほどの人間なら、異変に気づいていたはずだ。  ヤバイと思わなかったわけ? と、問う柴田に、黒藤は乾いた笑いを零す。 「もういいかなって。……ヤンチャすんのも疲れたし」  若い頃から、長いものに巻かれ、世渡りを続けてきた黒藤。  空気の読むコトには長けていて、ドロ船に乗るコトはなかった。  雉も鳴かねば撃たれまいと、大物を隠れ蓑に、目立たぬように生きていた。  比留間に目をつけられるまでは、のらりくらりと気ままに暮らしていた。  天原とはぶつかるコトもあったが、それ以上に能力に惹かれ、潰そうとかやっつけてやろうとは、思っていなかった。  だが。塵も積もれば山となる。  小さな衝突を繰り返すうちに、憎さが積もり積もった。  耐えかねて起こしたあの事件で、比留間に追われる羽目になる。  潰されるならそれも自分の人生だと諦めようとしたが、河堀に身体を張られた。  そこまでされてしまっては、逃げないわけにはいかない。  でも、一度諦めた人生は、諦める前ほどの熱量を持てなくて。  人の顔色を窺うコトにも疲れ、ここを支配し、惰性のままに生きていこうと考えた。  ぼそぼそと自分の生い立ちを語った黒藤は、困り顔の笑みを浮かべる。 「ここに比留間の看板を掲げようって考えたのは河堀で、実行したのもあいつ……って、今さらこんな言い訳されても、だよね」  ははっと自嘲の嗤い声を立てた黒藤は、はあっと小さく息を吐く。 「逃げんのも隠れるのも疲れたし、そろそろ終わってもいいと思って……だから、逃げなかった」  自分の命など好きにすればいいと、黒藤は、にたりと笑む。  黒藤は、この先の人生を諦めた。  捨てるコトを厭わない命を断ったところで、黒藤は泣きも喚きもしないだろう。  今、黒藤を殺めても、その望みを叶えるだけで、比留間(こちら)の溜飲が下がるとは思えなかった。

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