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第6話 脱走の試み
シリルはまだ脱走を諦めていない。
鎖を外させるのが駄目だったのなら、自分で鎖を外せばいいのだ。
シリルは「手錠は外さなくてもいいから、せめて水はいつでも飲めるようにしてください」と頼んだ。叶えられるまで、しつこく騒いだ。
騒いだ甲斐あって、寝台の脇に水の入った桶が設置されることとなった。手錠に繋がれたシリルは、水を飲む時には犬のように屈んで飲むことになるが、満足だった。
これで脱走の準備が整ったのだから。
侍従長がいなくなると、シリルはそっと手錠の鎖を桶の水に浸した。固い鎖も、水に浸し続けて錆びれば軟くなるはずだ。
シリルは毎日勤勉に鎖を水に浸し続けた。
アロイスは定期的にシリルの様子を見にきた。何もしないで帰ることもあれば、事務的にシリルを抱いていくこともあった。
その日も、アロイスはシリルの部屋を訪れていた。今日は、何もしないで終わらせる気なのかどうか。シリルは用心深くアロイスを睨みながら、なるべく距離を取っていた。
「侍従長から、最近変わった報告があってな」
「変わった報告?」
「なんでも、世話に来るとよく鎖が濡れているそうだ」
訝しげにアロイスを睨んでいたシリルは、驚きに息を呑んだ。まさか侍従長にバレていただなんて。
「反応からすると、やはり悪だくみの一環だったようだな。答えろ、鎖など濡らして一体何をする気だったのだ?」
「答えるもんか!」
シリルはぷいと顔を逸らした。
「まさか、鎖を錆びさせて脱走する気だったわけでもなし……」
アロイスの呟きに、ついビクリと肩が震えた。目論見を言い当てられたから。
「……本気で鎖を錆びさせる気だったのか?」
「ぐ!」
アロイスの肩が揺れたかと思うと、彼は声を上げて笑い始めた。
「はは、ははははは! 一体何年かかると思っているのだ! せめて塩水をかければよいものを!」
「そんなもの手に入るわけないだろ!」
笑われたことが悔しくて恥ずかしくて、顔を赤くして言い返した。
「それもそうか。それにしても笑った、笑った。こんなに愉快なことは久方ぶりだ。盗人、お前は面白い男だな。楽士兼道化師にならないか?」
嫌味ではなく本気で面白がっているようで、アロイスは眦の涙を拭っている。悔しさがますます募った。
「オレは盗人じゃない、シリルっていう名前があるんだ!」
「ほう、それは初めて聞いた。シリルか、覚えておこう」
アロイスは蒼い瞳を細める。
本当に名前を覚える気はあるのだろうか、とシリルは内心で訝しんだ。
「ともかく、これで脱走など不可能だと理解しただろう。諦めろ」
「嫌だ、絶対に諦めない! オレは絶対に塔の外に行くんだ!」
シリルは叫んだ。
心を折ることなどできない。絶対に屈しない。塔の外に出ることだけが生きる希望なのだから。
「『絶対に諦めない』ね……。度し難い男だ。愚かだな」
アロイスは、すっと笑みを消した。表情の消えた顔は、絶対零度の冷たさを纏っていた。
「ならばお前に贈り物をするとしよう」
「贈り物?」
「防食加工を施した鎖だ。嬉しいだろう?」
「な……!」
なんて底意地の悪い男だ。自分のことを絶望させようとしている、その顔を見て愉しもうとしているのだ。シリルは冷たい瞳の色に、そう感じ取った。
「首輪もつけてやろう。今度から鎖は首輪に通そう。思うに、手錠と鎖が一体になっていたのがいけなかったのだ。手錠を外しても鎖が外れることがなくなれば、食事の際くらいは手錠を外すことを許可してやろう」
「悪趣味なやつ……!」
首輪の提案に、シリルは憎悪を込めて睨みつけた。彼は本格的に犬猫扱いする気なのだ。
「なんとでも言うがいい。では、早速手配するとしよう」
去っていくアロイスの背中を、シリルは睨みつけ続けた。
数日の間を置き、首輪と新しい鎖を手にした侍従長を従えて、アロイスがシリルの前に現れた。
「手配していた首輪と鎖だ。喜べ。この首輪は犬用の物を流用したわけではなく、人間用に誂えたものだ」
「そんなので喜ぶか!」
シリルは吠えた。
「シリル、お前によく似合うだろう」
アロイスはシリルの名を口にした。
名前を覚えるという言葉は嘘ではなかったようだ。
「さあ、つけてくれ」
彼はかたわらの侍従長に命じた。
命じられた侍従長は、まずシリルの手錠から伸びた鎖を取り外した。
瞬間、侍従長が手順を間違ったことに気がついた。彼は先に、首輪を取りつけるべきだったのだ。恐らくは、先に首輪をつけたら鎖が重くて可哀想だと思ったのだろう。
今、シリルは何にも縛られていない。ただ、手に手錠を嵌められているだけだ。部屋の外にさえ逃げ出せば、なんとかして外に出られるかもしれない。
「っ!」
シリルは駆け出した。アロイスの横をすり抜け、この部屋から飛び出すのだ。
「おっと」
決意も空しく、勢いよく飛び出したシリルは、あっさりとアロイスの身体に受け止められた。
数日間閉じ込められ続けていたシリルの走りには、まるで素早さが足りなかった。
「勢いよく飛び込んできてくれるとは、情熱的だな?」
「くそっ!」
嫌味たっぷりの笑みに、悪態を吐いた。
「本当に諦めを知らぬな、お前は。無謀な試みを止めようとは思わぬのか?」
「思わない!」
「ふん、愚かだな」
シリルは抱え上げられ、再び寝台の上に戻された。相変わらず軽々とシリルを持ち運ぶ。なぜこの王はこんなに馬鹿力なのだろうか。
侍従長が平謝りしながら、シリルの首に首輪を取りつけた。再び鎖に捕らえられてしまった。いつの日か、ここから逃げ出す日は来るのだろうか。すぐには次の脱走方法は思い浮かばない。
「私はシリルとしばし話をしたい」
「かしこまりました」
アロイスの言葉に、すぐさま侍従長は寝台の横に椅子を持ってきた。椅子の上にアロイスが泰然と腰かけたのを確認すると、侍従長はすぐさま退室した。
二人きりになり、アロイスに見つめられた。
いつも一方的に観察して去るか、もしくは犯していくかなのに。
「さて、シリル。お前はなぜそんなにも籠から逃げ出そうとするのか? ここの何がそんなに気に食わない?」
「何が気に食わないだって? 本気でわからないのか?」
無理矢理閉じ込められて、時々男に犯されて。そんな生活に満足を覚える人間が一体どこにいるというのか。
「わからないな。言ってみるといい」
アロイスはあっけらかんと言い放った。どこまで本気なのか、判然としない。
「なら言ってやる。まず、閉じ込められて気分がいいわけないだろ。オレは自由に飯を食いたいし、自分で自分の身体を洗いたいし、きちんとトイレに行きたい! 好きなところを歩きたいし、働きたい!」
「ふむ……意外な回答だな」
顎に手を添えながら、彼は呟いた。
嫌味などではなく、胸中の言葉が漏れただけといったような淡泊な表情だった。
「意外だって? 捕らえられていることが不快だってことすら、理解できなかったっていうのか?」
「そうではない。運動できない不自由や、排泄の場所を選べない不快感については理解を示そう。だがそもそも、下層民だったお前がどれだけ自由だったというのか」
「は……?」
何を言いたいのかわからず、シリルは固まった。
「ここに現れたお前は、体躯に似合わぬほど痩せていて軽かった。衣服は薄汚く、大した荷も持っていなかった。捕らえられていなかったからといって、お前は好きなものを食えたのか? 好きな時間に好きなことをする自由があったというのか? 仕事に追われるだけの日々だったのではないか?」
「……」
アロイスの言葉に、シリルは押し黙った。
すべて彼の言う通りだ。一日一個のパンだけ食べて節約しながら、一日中必死に仕事に打ち込んでも、まともに稼ぐことはできない。自由など何もなかった。そんなくそったれな世界が嫌で、外を目指しているのだから。
「だから部屋を抜け出したい理由があるとしたら、下層に大切な者がいるのかと思っていた。だが、先ほどはそのような者の存在はお前の口から出てこなかった。だから意外だと言ったのだ」
大切な者。その言葉に、親方やエミールの顔が思い出された。
「オレの大切な奴は……みんな上層民に殺された」
「……そうか」
意外なことに嘲るでもなく、アロイスはただぽつりと答えた。
「なんで上層民はくそみたいな奴しかいないんだ、それもこれも全部お前のせいだ!」
為政者である彼への怒りが爆発した。
「なんだよ楽士って! 音楽の才能がある奴が上層に集められたって、そんなの……」
無駄だったじゃないか、と言おうとして飲み込んだ。言ってしまったら、エミールの努力まですべて無駄だったと言うことになる。
「上層の者がすべて悪しき者というわけではない、という理屈は今のお前には通じぬだろうな」
「……」
シリルは口を閉ざす。綺麗事など聞きたくなかった。
「楽士がどういう者を指しているのか気づけなかったことについては、悔いている。三代前の王が直接的に記さなかったとしても、気がつく手がかりはあったはずだ。気がつけなかったのは、そして盲目的に音楽の才がある者を上層に集めたのは、ひとえに私を含めて王らに怠慢があったからだ」
「怠慢……?」
アロイスから反省の意を感じ取った。
それが冷血漢な彼にそぐわぬように感じられ、つい彼の顔を見つめてしまった。
「じゃあ、今からでもマシな世界にしてくれよ。上層から音楽家どもを追い出してくれ!」
希望を見つけたような気がして、シリルは必死に訴えた。下層民をゴミとしか思わず平気で殺す奴らが消えれば、少しは世界に希望が持てる。
「は?」
だがアロイスが向けたのは、心底呆れたような冷たい視線だった。
「楽士が見つかった今、そんなことをする必要性はない。まさかそこまで考えなしだとはな」
「必要性はない……?」
一瞬近く見えた相手が、あっという間に遠ざかった。
楽士が見つかったから、必要ない。楽士さえいれば下層民など、どうでもいいということか。王は最初から下層民のことなど、気にかけていなかったのだ。
だからこの世界はこんなにくそなのだ。
「ああ、そうかよ!」
「シリル?」
シリルは背を向けると、寝台の片隅に蹲った。もう話などしたくなかった。
「おい」
アロイスが、シリルの肩に手をかける。
「触るな!」
その手を勢いよく振り払った。
「……わかった。今日のところはこれくらいにしておいてやる。だが、楽士としての務めから逃げられるとは思わぬことだ」
背中に、冷酷な言葉が投げかけられる。
遠ざかっていく足音と、扉が開いて閉まる音で、彼が立ち去ったことがわかった。
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