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第7話 贈り物

 アロイスが立ち去った後、シリルは寝ることにした。    この部屋では、惰眠を貪るしかやることはない。  シリルは寝台に横になった。綿の詰め込まれたマットレスと、羽毛の枕がシリルを柔らかく受け止める。室内が暖かすぎて、毛布を上から被る必要はない。    下層にいた頃は、ボロ布を被って硬い寝台の上に寝ていたなと思い出す。毛布とは名ばかりの薄っぺらい布から足が出ないように身体を丸めて寝て、朝になると無理矢理丸めた身体が硬くなっていてすっかり冷えていた。    つい一月前の自分が現状を知ったら、羨ましがるだろうか。少なくとも下層民の中には、今の自分を羨ましがる者もいるであろうことは確実だ。    食うに詰めたら、身体を売るのは下層では普通のことだ。上層民に呼ばれるような高級娼婦になることを目指す者だっている。  今の自分は高級娼婦並の待遇と言えないだろうか。相手するのは一人でよく、食事が用意され、暖かな部屋で世話係に世話してもらえる。掃除も洗濯もしなくていい。望んだって、早々受けられるような待遇ではない。    塔の外に出ようと思ったのは、このままでは生きていけないと思ったからではなかったか。腹いっぱい食べられて凍えもしないのであれば、外を目指そうとしなくてもいいのでは。  決意が萎えそうになる。   「シリル、手を止めるな。サボるんじゃない」    かつての親方の口癖を、ぽつりと呟いた。己を叱咤するために。    閉じ込められて食うだけの日々で、どうして生きていると言えるだろうか。塔の外の世界を見るのは、自分の生きる唯一の目標なのだ。生きるために、諦めてはいけない。    大体なんだ、あの王は。自分は好きな時に好きな物を食べられて好きな服を着れる癖に、下層民の生活を知った気になって。  思い出すとだんだん腹が立ってきて、シリルは寝返りを打った。    下層民に自由がないだなんて、何もわかっちゃいない。同じ下層民が主張するならいざ知らず、最上階に住むアロイスが口にしたならそれは侮辱だ。  親方から受け継いだ彫刻の仕事をすることは、シリルの誇りだった。仕事ができないのは、尊厳に関わる。   「でも……それを放り出したのはオレ自身なんだよな」    塔の外を目指すということは、今までの生活を捨てるということ。誇りにしていた仕事も放り出して。よりにもよって自分が楽士だと判明したのは、親方から受け継いだものを投げ捨てた罰なのかもしれなかった。  苦悩の中で、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。    シリルは暖かな部屋の中で目を覚ました。身体を起こして伸びをすると、首が鎖に引っ張られるのを感じた。鎖付きの首輪を嵌められたのだったと思い出した。   「失礼します」    侍従長が腰を低くして入室してきた。手にはトレーを持っている。   「朝食でございます」    と言って、侍従長はトレーに被せた蓋を取り払った。   「これは……」    食事はいつも腹いっぱい食べられるが、取り立てて豪華なメニューではない。パン一個に、くたくたに煮込まれた具の浮いた塩味のスープ、それから燻製肉の薄い切れはしが数枚。その程度のものだ。  アロイスはこちらを盗人だと思っているのだから、食事の内容になど気を遣わないだろう。    それが今朝は違った。    パンは小麦色にこんがりと焼けていて、スープには具の旨味が染み込んでいるのか、ほんのりキツネ色に色づいて表面がキラキラと輝いている。燻製肉は分厚く切られ、脇に添えられたスクランブルエッグには赤いソースがかかっていた。    極めつきは、召使いが取り出したものだった。召使いは寝台横のサイドテーブルに、それを置いた。こんもりと色とりどりの果物が盛られた籠だ。こんなに多種多様な果物は目にしたことすらない。   「『果物ならば手錠をかけられたままでも齧りつけるだろう』と、陛下からの贈り物です」    一体どういう風の吹き回しだ、とシリルは目を丸くさせた。   「この豪華な朝食も?」 「ええ、楽士様を気遣っておいででした」    侍従長の言葉が真実であるようには思えなかった。   「アロイスにそう言えって言われたんですか?」 「いえ、本当のことでございます」    豪華な朝食を見下ろしながら、シリルは思った。アロイスの奴め、食べ物で機嫌を取ろうとしているなと。豪華な朝食と果物なんかで絆せると思ったら、大間違いだ。   「食事の際は一時的に手錠の拘束を解いてよいと、許可をいただいております」    侍従長は鍵を取り出すと、手錠を外してくれた。    揚げるようにカリカリに焼かれた燻製肉の匂いが鼻を擽ると、急に空腹感を覚えた。決して絆されたりしないが、もらえるものはもらってやろう。食べないなんてもったいないことは、できない。  シリルは朝食に手をつけ始めた。    こんなに美味い飯は初めてだと思った。燻製肉は噛むと肉汁が溢れ出て、スクランブルエッグにかけられた名前のわからない赤いソースは塩気があって食欲が進んだ。いくらでも食べられる、と思った。最後に果物籠の中からスモモを一つ手に取り、齧りついた。甘く瑞々しい果汁が喉を潤した。  シリルは生まれて初めて、食事に満足というものを覚えた。腹を満たすだけが食事ではないのだと知った。    その日の昼、アロイスは何人かの男女を引き連れて登場した。  シリルの身体は複数人によって押さえつけられた。   「何をする気だ!」    やはり気を許してはいけなかったのだ、と目の前のアロイスを睨みつける。   「何って、採寸だが?」 「採……寸……?」    彼の口から出てきた言葉に、ぽかんとした。  ぽかんとしているシリルの手を人々が広げさせ、胸や胴回りを測定し始めた。   「まるで初めて聞いたみたいな顔をしているな。……そうか、下層民だと採寸という概念すら知らないのか。いいか、採寸というのはだな」   「それくらい知ってる! 服を新しく作るために、身体のサイズを測るやつだろ? でもオレの身体の採寸をするなんて、まるでオレに服を作ってくれるみたいじゃないか」   「まさしく、その通りだ」    首肯したアロイスが信じられず、穴が開くほど見つめた。   「なんで……?」    純粋な疑問が、呟きとして漏れた。    服を新しく仕立てたことなどない。服を仕立てることができるのは、上層民かよほど裕福な中層民だけだ。下層民は常にお古の服を着るのが当たり前だ。たとえ裁縫職人をしている下層民でさえ、布と糸が高すぎてとても自分用の服を縫う余裕などない。    今着ている勝手に与えられた服も、立派な仕立てではあるが古着だろう。  シリルは新品の服を着たことなど、なかった。    どうしてアロイスがわざわざ自分に新しい服をくれるのか、わからなかった。   「私も反省したのだ。私は昨日お前に下層での暮らしに自由などあったかと尋ねたが、果たして下層よりもマシな暮らしを提供できていただろうかとな。籠の中の暮らしを向上させてやるのも、捕らえた者の務めと考えたまでだ」    彼の言葉をゆっくりと理解し、ふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。   「それはつまり、オレをペット扱いしているってことか……!」   「ペット扱いだと? なぜそうなる、理解できんな」    アロイスは、やれやれとばかりに首を振る。その呆れた様にますます怒りが燃え上がった。   「だってそうだろ! オレが泥棒でないとわかったから待遇を上げるっていうなら、わかるよ。でもお前の言い草は、オレが逃げようとしないように待遇を上げるってことだろ! そんなの、ただの餌付けだろ!」    今となっては、朝食に舌鼓を打ってしまったことが悔しくてたまらなかった。機嫌を取るどころか、美味い飯と服さえ与えれば、逃げる気力が失せるだろうと思われていただなんて。酷い侮辱だ。   「わかった、お前が盗人ではないという主張を信じよう」    ああ言えばこう言う。今まで鼻で笑ってきた癖に、あっさりと信じるだなんて挑発にしか聞こえなかった。   「嘘をつくな!」    アロイスに掴みかかろうとし、採寸をしていた周囲の人々に強く押さえつけられた。   「陛下、このままでは採寸が行えません」    採寸をしている召使いの一人が、困った声で訴える。   「……わかった、私は姿を消そう。どうやら私がいても機嫌を損ねるだけのようだからな」   「服なんかいらない、採寸なんてしなくていい!」    アロイスの背中に叫んだが、採寸が中止になることはなかった。   「お願いします、採寸が終わるまでじっとしてていただけないでしょうか」 「……」    懇願され、シリルは大人しくせざるを得なかった。別に召使いたちを困らせたいわけではない。  召使いたちは、無事にシリルの身体を採寸し終わることができた。

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