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第30話 伸ばされた手

 一フロア下りるだけの螺旋階段は、すぐに終わった。シリルは儀式場に下り立った。    そこは最上階とそっくりの儀式場だった。真っ白な壁と床でできていて、線状の紋様が無数に刻み込まれている。最上階とは違うのは、中央に何も載っていない祭壇があることだ。儀式場は寒々しかったが、吹雪に直接晒されてここまで辿り着いたシリルには、この程度の寒さは気にするほどのことでなかった。    最上階ではあれば塔の全体図があった位置には、代わりに細長い透明な窓があった。外を吹雪が吹き荒れているのが見える。    最後にほんの少しだけ、外を眺めてみてもバチは当たらないだろう。シリルは吸い寄せられるように窓に近寄ってみて、それが窓ではないことに気がついた。ドアノブがついている。これは扉だ。    ノブを回してみると、すんなり回ってカチャリと音を立てた。少し押してみると扉がわずかに開き、冷たい風が吹き込んできた。あんなに熱望していた、安全に外に出る方法がこんなところにあった。    シリルは外に通ずる扉を閉めた。    今ならば儀式で命を捧げる以外に、一か八か外に飛び出してみるという選択肢もある。もしかすれば、信じていたように外に理想郷があるかもしれない。  だが、その選択肢を取るつもりはない。    思えば自分はただ外に出たかっただけでなく、自由に生きたかったのだ。外に出さえすれば、自由に生きられると思っていた。外に出なくても、自由に生きられると今ではわかっている。    自分の意思によって自由に行動した結果、自分はこの身を犠牲にしようとしている。    今ではもう、外に出る夢よりもアロイスの方が大事になっているからだ。彼に生きていてもらうには、塔を復活させなければ。それがシリルにとって、本当に大事なことだった。    これが自分の望み、自分にとっての自由。シリルは胸の内で、自分に言い聞かせた。    シリルはドアのそばから離れ、中央の祭壇に近づいた。祭壇の近くには、短剣の刺さった土台がある。祭壇の上に楽士が身を横たえ、この短剣で心臓を貫けばいいのだと理解できた。心臓を貫けば、床を放射線状に這う紋様を通して、血が塔全体を巡っていくのだろう。自分が楽士だからだろうか、本能的に儀式の仕組みが理解できた。    土台から短剣を引き抜く。古ぼけた宝剣は柄が複雑な形をしており、彫刻が彫り込まれている。どう見ても実戦向きではない、儀式用の宝剣だ。刃が鈍く光る。    ごくりと唾を飲み下すと、シリルは祭壇に上がり身を横たえた。短剣を両手で掲げ、胸に刃を向ける。    この短剣を突き刺せば自分は死に、アロイスを含めた塔の皆が助かる。自分は死ぬのだ。この先の人生を歩むことはない。   「もうちょっとだけ、生きたかったな……」    せめてもう半年だけ。あと半年は、アロイスを独り占めできることになっていたのだ。それなのに途中で死ななければならないなんて、心残りだ。掲げた刃の先が揺らぐ。    さっさと儀式を完遂しなければならないのに。こうしている間にも、塔からどんどんと熱が失われていっているのだから。  シリルはぎゅっと目をつぶり、勢い任せに刃を下ろそうとした。   「シリル!」    瞬間、アロイスの声が耳に飛び込んできた。    幻聴が聞こえるなんて、自分は無意識下でよほど彼に会いたいと思ってしまっていたようだ。そんな未練は捨てなければならないのに。   「シリル、やめろッ!」 「へ?」    手が勢いよく払われ、短剣が手から離れた。カランカランと短剣が床に転がった音が聞こえ、シリルは驚きに目を開いた。    アロイスが長い黒髪を振り乱し、蒼い瞳でしっかりとシリルを見据えていた。走ってきたのか、顔は汗だくで服装は乱れている。こんなにぐちゃぐちゃな彼は初めて見た。   「シリル、死ぬな!」    追いかけてきてくれたのだ。それを理解した途端、胸の内に嬉しさが溢れてきてしまった。自分はこれから死ぬのだから、嬉しいなんて思ってはいけないのに。涙が眦を伝い落ちた。   「アロイス、なんでここに?」    祭壇から上体を起こし、彼を見つめる。   「ジョスランという者から話をすべて聞いた。楽士が命を捧げることで、塔が再生したという出来事がその昔あったと。お前は儀式を再現しようとしているのだろう?」    そこまで知られてしまっているのでは、誤魔化しようがない。シリルは、頷いて認めた。   「それがどうしたっていうんだよ。儀式をすれば、塔が元通りになるんだ。オレが犠牲になるべきだろ。なんで止めるんだ? アロイスは、王なら塔を永らえさせるためなら何でもすべきだって言ってただろ」    説得するしかない。塔の全員と自分一人の犠牲、どちらがマシかなんて賢い彼ならばすぐにわかってくれるはずだ。   「なんで止めるんだ、だと? そんなの――お前のことが好きだからに決まっているだろう」    今度こそ幻聴を聞いてしまったのかと思った。彼の言葉を、都合よく耳が変換してしまったのだろう。だって、アロイスが自分を好きだなんて、ありえないのだから。   「え……」 「塔だけあっても、お前のいない生など無意味なのだ!」    まるで懇願するように、彼は訴えた。再びの言葉を聞いて、やっと彼の言葉は現実に発された言葉なのだと、認識できた。   「え、だって、オレのこと好きなんて、一度も……」    正確には、一度は好きだと言われた。でもそれもすぐに撤回されたのに、好きだなんて。   「言えなかった。私には初対面時にお前を無理やり組み敷き、その後も務めを強いてきた過去がある。それにお前の中には、エミールというかつての想い人との思い出がある。私が好意を口にしても拒絶されるのではないかと恐ろしくて、とても口にできなかった」    主に親友について、とてつもなく理解不能な言葉を彼が口にしたような気がして、シリルは目を瞬かせた。   「待った。エミールがオレのなんだって……?」   「想い人なのだろう? エミールという者が下層に足繁く通っていたと、裏付けが取れている。その者が、元下層民であるという記録も見つけた。引き離されても何度も会っていたなどと、想い合っているのだろう?」    アロイスの頭の中で物凄い勘違いが起こっていることを、シリルは初めて知った。   「いろいろ調べてくれたのに悪いけど、エミールはただの友達だよ。仲がいい友達だから、会いにきてくれてただけだから」    きっとエミールは、上層で心細い思いをしていたのだろう。それでしばしば、下層にまで足を運んでくれていたのだと思う。それは依存ではあるかもしれないが、決して恋情などではない。   「……本当か?」   「本当だって、そんな嘘つかないよ」   「私は無駄な勘違いをしていたのか……。いや、無駄でもないか。どちらにせよ、私は赦されないことをお前にしてしまったのだから」    どうもアロイスが自分のことを好いてくれているらしいことは、現実だと認識できた。拒絶されるのが怖くて好意を口にできなかったというのも、腑に落ちた。自分もそうだったから。彼がそんな人間じみた怯えを抱いていただなんて、愛おしさすら感じる。    それでも、シリルの頭の中は疑問符でいっぱいだった。一体どうして自分なんかを、と。   「王として身勝手な話ではあると思う。それでも私は、好意を優先する。お前に死んでほしくないのだ」    まっすぐな想いが伝わってくる。だからこそなおさら、理由を知りたくなった。   「なんだってオレのことをそんなに?」    蒼い瞳を、まっすぐに見つめ返した。   「お前が、私を籠から解き放ってくれたからだ」   「解き放って……?」   「倦んだ日常の中、お前は突然現れた。塔はゆっくり死にゆく運命なのだと思っていたのに、希望をもたらしてくれた。諦めないお前に影響されて、私は臣下たちに反抗してみようかと思えた。自由に生きてみようかと思えた。お前が、諦念に凍てついた私の心を融かしてくれたのだ」    赤裸々な心情を吐露した彼の、蒼い瞳がわずかに潤むのが見て取れた。    一緒に過ごすうちに段々と彼が変わっていったのはわかっていたが、はっきりとお前のおかげだと言われ、ぎゅっと胸が締めつけられる感覚がした。  彼の中で、自分がそんなに大きな存在だったなんて。好かれているという実感が湧いてきて、とくんとくんと心臓が早鐘を打つ。   「で、でも、オレが妊娠するの、嫌がってただろう?」    まだ信じ切れず、言葉を重ねる。   「嫌がって……? いや、私はお前が意に染まず子を孕んだら、酷く傷つくだろうと案じていたのだ」    彼が自分の妊娠を嫌がっていると感じていたのは、まったくの勘違いだった。彼はシリルが子を望んでいるとは、思ってもみなかったようだ。意志に反して妊娠させてしまったのではないかと、心配してくれただけだったのだ。  愛してくれているのだと、確信に変わる。   「お前は私のことが嫌いだろう。それでも、願わずにはいられないのだ。シリル、頼む――私と一緒に生きてくれ」    かつても、一度された頼みだ。けれど、そこに籠められた想いは、前回とはまったく違う。前回は、「共に諦めてくれ」という意味だった。今度は真逆で、「諦めないでくれ」と言ってくれている。    生きても、いいのだろうか。諦めずに探せば、生き延びながら塔を救う方法が見つかるだろうか。   「お前らしくないではないか、素直に身を捧げるなど。私がいくら妨害しても決して瞳の光を失わなかったお前は、どこに行ったのだ?」    絶対に塔の外に出るんだと、諦めなかった。あの時のような気持ちでいていいんだろうか。  アロイスがそっと、手を伸ばす。この手を取っても、いいのだろうか。    一瞬、躊躇い……シリルはしっかりと彼の手を掴んだ。

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