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第31話 緑の世界

「わっ」    手を掴んだ途端引き寄せられ、横抱きに抱き上げられた。彼の顔が近くなり、思わず頬が熱くなる。   「私のことが憎いだろうに……生きることを選んでくれて、ありがとう」    礼の言葉には、万感の想いが籠っているのが感じられた。あまりのいじらしさに、腹が立つ。思い知らせてやらねば、自分の想いを。   「あのさ。アロイスはもう一個、勘違いしているよ」 「もう一個?」 「こういうことだよ」    アロイスの胸倉を掴んで顔を引き寄せると、目を閉じ彼の唇を奪った。唇で直接好意を伝える。    心臓の鼓動が五月蠅い。緊張で胸倉を掴んでいる手が震えている。    唇を離して目を開けると、蒼い目が大きく見開かれていた。   「なぜ……?」    どうやら、唇を合わせただけでは伝わらなかったようだ。    わざわざ口に出さねばならないなんて、と羞恥心を覚える。だが、自分に嫌われているかもしれないと思いながら好意を口にした彼の方が、ずっと勇気を振り絞ったのだ。彼に好かれているとわかった状態で告白する自分の方がずっと楽だ、と勇気を振り絞る。   「お、オレもアロイスのことが好きだってことだ!」 「だが、お前は私を憎んでいたはずではないか。一体、どうして?」    どうやらアロイスの「なぜ」は「なぜキスしたのか」ではなく、「なぜ好きなのか」という意味だったようだ。勇気を出して告白したのに、と顔が真っ赤になる。   「どうしてって、そんなの……理由なんかないよ! 好きになっちゃったんだから仕方ないだろ!」    たしかに、自分は当初アロイスのことを憎んでいた。  けれども一緒に過ごすうちに、ふとした瞬間に彼が見せる一面に心を奪われてしまったのだ。    壁が壊れた時に、真っ先に駆けつけ抱き締めてくれた瞬間の感触。遊戯盤を挟んで向かい合った時の、不敵な表情。窓の外を見つめながら秘密を語った時の、切なげな表情。肩を揺らして笑っていた顔。髪油を塗ってくれた時の、丁寧な手つき。鎖を剣で断ち切ってくれた瞬間の彼。塔から落ちそうになった自分の手を、力強く掴んでくれた彼の手。    すべてを好きになってしまったのだ、仕方ないじゃないか。   「憎むべき相手を好きになるのに理由がないなど、そんなことがありうるのか?」    蒼い瞳はまだ驚きに見開かれている。   「そんなこと言われたって、実際そうなんだってば!」    シリルは恥ずかしさを誤魔化すために、彼の厚い胸板を叩いた。   「ふっ」    不意に彼が笑みを零した。   「ははははっ、そうだな。人を好きになるのに理由などいらないか、たしかにお前らしい。それでこそ、自由な小鳥だ」    朗らかな笑みに、釘付けになる。こんなに快活な笑みを見るのは、初めてではないだろうか。すべての苦悩から解き放たれたかのようだ。シリルの目には、自由になったのは彼の方に感じられた。   「シリル。絶対に共に生きたまま、この苦境を乗り越える方法を探そう。そしていつの日か、お前が夢見ていたように外の世界の理想郷を探しに行こう。私も外についていくからな」   「本当に……?」    いつの日か外に行く時には、彼もついてきてくれる。それはとても心強く、幸福なことだった。期待に胸が膨らむ。  今、これ以上ないほど彼と想いが通じ合っている。そんな感覚があった。   「シリル、今度は私から口づけしても?」    アロイスの問いかけに、シリルはただこくりと頷く。  横抱きにされているシリルに、アロイスは顔を近づけ……二人の唇は重なった。    アロイスは、シリルの唇を柔らかく食む。唇で唇を食まれる感触が快くて、うっとりと目を閉じた。    柔らかく湿ったものが唇に触れ、シリルは口を軽く開いてそれを受け入れた。彼の舌が、シリルの口内を探る。  舌と舌を交わらせるキスなんて、初めて会った日以来だ。あの日とは違って、舌と舌が溶け合っていくような心地よさが胸の内に広がる。夢中で舌同士を交わらせる。    身体中に、熱が広がっていくようだ。否、寒々しかった室内が実際ぽかぽかと暖かくなっていた。  口づけを続けていると、暖かさがどこまでも広がっていくかのような感覚に襲われた。塔の中ばかりか、王の力が壁を越えて塔の外へと、どこまでもどこまでも広がっていく。そんな錯覚を覚えた。    彼がそっと舌を引き抜き、口づけは終わった。    瞬間、チチチチと小鳥のさえずりが耳に届いた気がした。  そんなわけはない、儀式場のどこに小鳥がいるというのか。シリルはアロイスの腕の中で周囲を見回し、呆気に取られた。    透明な扉の向こうに、緑が広がっているのが見えたからだ。吹雪は晴れて、外がよく見えるようになっている。外には緑色の大地が広がり、多種多様な植物が生えている。小鳥たちのさえずりは、外から聞こえるようだ。上方から降り注ぐ光は、日光だろうか。   「これは、現実か……?」    アロイスならばこの現象が理解できるのだろうかと思ったが、そんなことはなかった。アロイスもまた呆然と目を見開いていた。   「なあアロイス、何が起こったのかちょっと確かめてみないか?」    永遠のものと思われていた、外の吹雪が晴れたのだ。壁が崩壊したフロアも、きっと今頃暖かくなっていることだろう。壁の崩壊に関しては、対処を急ぐ必要はないに違いない。  シリルはそれよりも、目の前の未知に心を捕らわれていた。   「あ、ああ、そうだな」    アロイスは横抱きにしていたシリルの身体を、足を下にしてゆっくりと下ろした。シリルは床の上に立つと、扉を見据える。   「アロイス、行こう」 「ああ」    扉に駆け寄ると、ノブを回して扉を開ける。途端に、清涼な風が頬を撫でた。二人は慎重な足取りで、戸口をくぐって塔の外へと出た。   「うわっ」    革靴越しに感じる地面の柔らかさに、シリルは声を上げた。たたらを踏んだシリルの背を支えながら、アロイスは頭上を指さした。   「シリル、見ろ」    頭上を見上げると、蒼が広がっていた。どこまでも澄み渡った――空。   「御伽噺の世界だ……」    空の美しさに、シリルは呟く。  この世界を暖めているのは王の力ではなく、太陽なのだと確信できる美しさだった。    ふと、ジョスランから聞いた話を思い出した。「神の許嫁」と心を通わせることができた神は、真の力を発揮できるようになると。もしやこれは、アロイスの力によるものなのだろうか。   「いや、現実だ。これからは、これが私たちの現実の世界となるんだ」    アロイスの言葉に、自分たちが縛めから解き放たれたことを知る。これからはもう、どこへでも自由に飛んでいけるのだ。   「アロイス、外に行く時はついてきてくれるんだったよな?」    振り返りニヤリと笑うと、彼もまた片方の口端だけを吊り上げてニヤリと笑みを返す。   「もちろんだとも」 「じゃあ、行こう!」    シリルは彼の手を握ると、緑の野を駆け出した。広大な野原が、地平線まで続いていた。    これからは、この緑の世界で生きていくのだ。

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