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第6話

 帰り道、流路は天音の手を握ってゆっくり丘から下る道を辿った。いつのまにか夏祭りは終わっていて、下まで着くとすっかり人はまばらになっていた。そこでさすがに手を離したけれど、二人は寄り添って店までゆっくり歩いた。 〈森の音〉に戻ってくると、店の入口の隣にある住居側の玄関から入った。かなり歩いたし、流路とのあれこれで浴衣は汗をぐっしょりと吸い込み、全身が濡れていた。 「あっちー。シャワー、順番に浴びる?」天音が振り返ると、「……一緒に入らない?」と流路がこちらを見て言う。  一瞬固まったあと「……だ、ダメ!」と慌てて拒否した。汗をかいていた身体がますます一気に体温を上げ、鼓動が急に速くなる。 「なんで。一緒に入った方が早いのに」 「お前……。調子に乗ってるだろう……」 「だって……天音、オレのこと好きって言ったろ。触らせてくれたし」  天音はさっき自分が口走ったことを思い出して、さあっと顔に血が集まるのを感じ、「ダメったらダメ!じゃ、お前が先に入れよ」と、浴室へと流路を押しやった。 「ええ……?つまんないな」  流路は渋々といった様子で浴室の扉を開けて入って行く。 「……ったく」  天音はひとりごちた。これ以上さっきみたいにキスされたり触られたり、それより先のことをされたら……心臓がもう持たない。  今やすっかり自分の部屋と化したゲストルームに入って浴衣を脱ぐと、まどかさんたちに貰った専用のハンガーに帯と一緒に掛けておいた。上の肌着は脱ぎ、下着だけの姿になって、床に寝転がる。さっき焦ったせいで火照った肌にひんやりした木の床の感触が気持ちがいい。  そのままいつしか天音はウトウトしていたようだった。コンコン、とノックの音がして扉が開いた気がしたが、眠気と長い時間歩いた気怠さから動けずにいると、唇に柔らかい感触があって急に意識がはっきりする。  吐息を間近に感じてパチリ、と目を開けると流路の顔が目の前にあって「うわっ!」と声をあげた。 「あ、起きた」 「なっ、何だよっ!」  天音はガバっと飛び起きた。 「だって寝てるから……そんな格好で。隙があるよなあ、天音は」  風呂上がりの流路からは体臭に混じってシャンプーとボディソープの香りが立ち上っていて、天音は妙な気持ちになってきた。 「……お前って、ほんとに……」 「ん?」 「なんでもないっ!俺も風呂、入ってくる……!」  流路をぐいっと押しのけてなんとか部屋を脱出した。 まったく、気を許したらどんどん踏み込んでくる。こんな展開になるなんて、初めてここに来た時は思ってもみなかったのに……。  浴室でシャワーを浴びては、風呂に浸かっては、展望台で起こった様々なことをいちいち反芻してしまい、『うわぁ!』と叫び出しそうになって困った。あげくについに自分からも『好きかも』とか言ってしまった。もう逃げられないかもしれない。  気持ちの整理が全然できず、胸の中がざわついて落ち着かず、風呂から上がってもひどくゆっくりと身体を拭き、髪を乾かした。どういう顔で流路と向き合えばいいのかまた分からなくなってきて、そうやって時間を稼いだ。 (今日はもうあいつ、先に寝ていてくれないかな……)と二階のリビングを覗くと、ひっそりとしている。「もう寝たか……」と安堵してゲストルームの扉を開けた。 「遅かったな」  流路の声がして「わっ!」と天音は思わず声をあげる。 「び、びっくりした……!なんでこっちの部屋にいるんだよ」  しかもベッドの上に流路は横たわっている。 「え、ダメだった?風呂上がるの待ってようと思って……」 「寝たと思ったのに」 「寝れないよ、あんなことしたら」 「……うー」  逃げ場の無くなった天音は追い詰められて唸った。 「ほら、天音。こっち来て」  流路がぽん、ぽん、と横になったままシーツの上を叩くので、観念して流路に背を向けて横になった。 「あれ、そっち向いちゃうの」 「……ん」  向かい合ったりしたらまた顔が赤くなりそうで、流路の方が振り返れなかった。  すると、流路の腕が後ろから天音をすっぽりと抱き竦めた。   うなじに口を付けて甘噛みされ、「あ……」と声が出て、それだけのことでまたトロリと気分が解けていく。 「やっと、捕まえた」 「ちょ、流路……」 「オレ、天音に好きになってもらおうなんて本当に思ってなかったんだ。あの葉書も、絶対に返事なんて返って来ないと思ってたから、逆に出せた。けど、必死にツテを辿って天音の住所を調べてたときから期待してたんだ、たぶん。天音にまた会えないかなって。あのときのことをせめて謝れたらって」 「……うん」 「そしたら天音から返信が来て、でもそんなのどうせ社交辞令だろうと思って諦めてたのに、本当に来てくれたから……。来て、オレの作ったメシを美味そうに食べたりして……。あげく、一緒に泳ぎに行ったりしてくれて、無防備だし……。だから、諦めてたのに、触りたくなった。我慢できなくなったんだ」 「お前……さては俺を懐柔してやろうと思ってメシ作ったり優しくしたりしたんだろ」  天音は少し意地悪してやろうと思ってそう言った。 自分だけドキドキさせられるなんてごめんだ。 「優しくするのは、オレが天音を好きだからだよ。天音には何でもしてやりたいって思った。ここに来てくれて、久しぶりに会った瞬間にやっぱり好きだと思った……」 「……よくそんな恥ずかしいことばっかり言えるな、流路」  胸に迫ってくる切ないような焦れったいような気持ちを誤魔化すために、天音は声を尖らせて悪態を吐いた。 「本当の気持ちだから」  流路の唇がちゅ、ちゅと後頭部や首筋やうなじに降って来て、心臓がまた爆発しそうにドキドキしてくる。 「……ダメだ。俺、もう持たない……。こんなんじゃ、寝れない……」  天音は降参して言った。 「大丈夫だよ、天音。今日はもうこれ以上なんにもしないから……寝てもいいよ」  そう言われて、なんだかホッとしたような惜しいような複雑な気分が入り交じる。  天音はじわじわと少しずつ動いて流路の方に向き直った。 「……キスくらいなら、してやってもいいけど」 そう言うと、流路の頬が少しひくついた。 「天音って、天然の煽り体質だな……」 「煽ってなんか……」  頬に大きな手がそっと置かれ、唇に優しく唇が重なる。  ――ああ、やっぱり本当にこいつを好きになってしまったのかも。  それが高校のあの日からなのか、ここを初めて訪れた日なのか、再びキスをされた日なのか、いつからなのかは分からないけれど。  翌朝、まだ薄暗い時間に一度目を覚ましたとき、流路の顔が目の前にあって仰天し、《うわぁ!》と天音は声にならない叫びを上げた。そして気付けば逞しい腕で腕枕をされていたことが分かって赤面する。  男と付き合うってこういうことなのか……。ん?付き合う?付き合ってるいるのか、俺たちは。  では友達なのかと言えばもはやそうでもないし、ああいうことをして好きだと言い合えば付き合っていることになるのか。そして、そうだとしたらこの場合、何と呼べばいいのだろう。恋人?パートナー?彼氏……?  そもそも天音はこちらが流路を受け入れる側なのだと自分でも思っている、ということを自覚してまた驚いてしまった。 (俺……今まで女の子としか付き合ったことないのに)  初めての彼女は中三の頃の同級生だったけど、その子とは軽いキスしかしないまま高校に入って自然消滅した。高校でも告白されたことはあるにはあったが、隣のクラスの知らない子だったり、同じ部活だけど恋には発展しなさそうな子だったりしたから断ってしまった。  大学一年の秋、バイト先の飲み会の席で、天音は飲んでいなかったけど酔っ払ったらしきひとつ年上の女性に告白された。『最初は天音くんの顔が好きになった、けど一緒に働くうちに明るくていい子だなと思ってますます好きになった』と言われた。そろそろ彼女を作ったりして青春ぽいことをしなければならないのでは、と思っていたし、綺麗なひとだったから二つ返事でOKした。  そのひととは普通に水族館やアミューズメントパークでデートしたり泊まりに行ったりして、普通に初めてのセックスを済ませた。そういうときにチラリと流路とのキスを思い出さなかったわけではない。最中にあの熱心で丁寧なキスを思い出して、どうやったら上手く舌を絡ませたりできるのか考えながら彼女としてみたが、それが上手く行ったのかどうかは自信が無かった。  そのひととは二年付き合って別れた。どうやらいつまで経っても彼女にそこまで熱意が持てない天音に愛想を尽かしたようだった。  その後にできた彼女は社会人になってからいわゆるコンパ的な飲み会で知り合ったひとだった。それも告白は向こうからだった。そして結果的には仕事にかまけてフラれたわけである。  その二人とも本当に自分は好きだったのだろうか。告白されて、見た目も好みの範疇だから付き合って、普通のカップルがするようなことを倣ってやってみた。それなりに関係が盛り上がったときもあったはずだし、ちょくちょくセックスしてちゃんと射精できていたし、気持ちは良かったはすだ。けど、感情がどれくらい入っていたかというと疑問だ。現にどちらの彼女と別れてもそれほど衝撃は受けなくて、『ああ、やっぱりこうなったな』と思っただけだった。  流路にキスされてどうしていいか分からなくなり、意固地に彼を避けて、そのまま高校を卒業してしまったあのとき、いつも胸の中はキリキリと痛んでいた。それはきっと罪悪感のせいなのだと思っていた。自分を想ってくれていた流路に何も応えることなく、避けて冷たくしたことへの。  けれど、もしかしたらあの痛みは――本当の気持ちを抑えていたせいだったのだろうか。  流路の自分とは違った男らしく整った顔をぼんやりと天音は見つめた。至近距離で見るその肌には薄っすらと髭が伸び始めている。  こいつといると居心地がいい。キスされたり触られたりするとビリビリと電流みたいに快感が走る。だからまた触られたいと思ってしまう。それは性欲だけからもたらされる感情じゃなくて――やっぱり好きってことなんだろうな。  そんなことをつらつらと考えては流路の寝顔を見ていたら、いつのまにかまた寝入ってしまったようだった。  気付けば陽が高くなっていて、隣に流路の姿はなく、きっちり天音の上には毛布が掛けられていた。 「……おはよう」  階段を降りて、店に続く扉を開けるともう流路はランチの仕込みを始めていた。時計を見るともう午前十時過ぎだ。 「おはよう、天音」  そうだった。昨日から名前で呼ばれるようになったんだった。そう思うと同時に一気に昨日のあれこれが思い出されて、また、ぼっ、と頬が熱くなった。 「ごめん、俺、開店の準備も手伝わなきゃいけないのに遅くまで寝てて……今度から起こしてくれよな」 「え、別にいいよ。店を手伝ってほしいって言ったのも、正直言うと天音を引き留めたかっただけだから……。そりゃ、忙しい時間はいてくれると助かるけどさ」 「え、俺、何もしなくてもここにいていいってこと?」 「……いいに決まってる。何もしなくても、いつまでいてくれてもいいんだ」 「そうなのか……」そうなのか。そんなに許されていいんだろうか。「けど、手伝うよ。俺も何もやらないと手持ち無沙汰だし、身体もなまるし」 「そう?じゃ、野菜とかちょっと切ってもらおうか……。あ、その前に朝メシ出すよ。あ、卵はどうしたい?スクランブル?目玉焼き?」 「……スクランブルがいい」 「よっしゃ、任せて。カウンターに座ってな」 (また甘やかされてる……) 『好きだから優しくしたい』と流路は言った。ならば甘えてもいいのだろうか。俺はまだ何も返せていないけど。  頬杖をついてぼんやりと流路の立ち働く姿を眺めていると、ほどなくして珈琲とプレートが出て来た。天音は「わ〜!」と、あれこれと思い悩んでいたことも忘れて、また子供のように感激してしまう。  オープンで焼いたクロワッサンに、カリカリに焼いたベーコン、スクランブルエッグと手造りらしきヨーグルトにオレンジやキウイなどのカットフルーツ。 「まあ、アメリカンブレックファーストみたいな感じ?今度からそういうのも出そうかなと思って。ブランチみたいな、軽いものが食べたいってお客さんもいるから」と流路は言う。 「……流路って天才?」天音は唸った。 「そんな簡単なもので天才って呼んでもらえるなら世話ねえな」  ヤバい。どんどん餌付けされているような気がする。ここにいる限り旨いメシは出てくるわ、もてなされるわで、全然帰る理由が見当たらない。ただし、完全に人間としてはダメになりそうだ。 「流路っていつもそんなんなの」 「そんなんって?」 「……好きなヤツに優しくして、甘やかして駄目にするタイプ?」 「駄目にするってなんだ。してないよ。あと……こんな風にしてるのは天音にだけ。前に付き合ってたひとは向こうが年上だったせいか何かと気を遣ってくれたし……」 「……ふうん」  そう言われると、それはそれで面白くない気持ちにもなる。まさかこれは嫉妬というやつだろうか。なんだかモヤモヤしたが、豪華な朝食に集中していたらそれも忘れた。  日曜のランチの時間は平日よりはそこそこ忙しく、客が一旦引けたのは十四時ごろだった。そこから流路がさっと作ったピラフで昼食を済ませて片付けと仕込みをしていると、車が停まる気配があり、しばらくして店の扉が開いた。 「こんにちは〜、如月くん」 「ああ、澤木さん、どうも。あれ、お友達?」 「そう!昨日、花火大会に一緒に行ってウチに泊まってったんだ。エミちゃんっていうの」  澤木が言うと、後ろから背中まである長い髪を緩く巻いた女性が顔を出した。「小川エミっていいます。よろしくお願いします」 控えめに言う彼女はかなり綺麗な人だった。 「エミはわたしの友達の中でも昔からダントツに男性陣に人気なんだ〜。なかなかこんな田舎では見ない美人でしょ?」 「ちょっと、やだな、彩花、やめてよ」 「はは、澤木さんもエミさんも二人とも美人だよ」  流路がにこやかに笑い、(さすが経営者、ソツのない態度だな)とまた天音は思った。 「昨日エミにも二人のこと紹介したかったのに会わせられなかったから、ついお店に来ちゃった。ごめんね、中途半端な時間に」 「いや、大歓迎だよ。ランチの時間は終わっちゃったけど、なんでも作るよ」 「えー、フレンチトーストにしようかな。エミもそれでどう?オススメだよ」 「うん、じゃ、わたしもそうしようかな」 「承知しました。少しお待ちくださいね」  流路はそう言って材料を用意し始め、二人は一番奥のテーブルに腰掛けた。  普段のお客はといえば中高年以上の人たちばかりなので若い女性が来ると二人だけでもにわかに店内は華やぐ。 「ああいう人たちにももっと来てもらえるようになるといいよなあ」  天音が言うと、 「そうだな。そろそろSNSとかもちゃんと始めて宣伝しないとだよな」  と流路は答えたが、相変わらず全く焦りは感じていないようだった。本当にほぼ趣味でこの店をやっているのだろう。ただ、(まだ若いのにこんなに野心が無くていいのか?)と、つい天音は心配になってしまう。本人は楽しそうにしているから、これでいいのかもしれないが。    ここのところ天音はペーパードリップでの珈琲の淹れ方を教えてもらっていた。それで「今日、天音が淹れてみるか?」と言われ、「やるやる!」と、張り切って珈琲豆をグラインダーにセットする。  豆は隣の街で生豆から焙煎をしている専門店から四種類ほどを取り寄せているらしい。澤木たちが注文したのはコロンビアやブラジルなどの豆が予めブレンドされている種類のものだった。  熱湯を通して温めたドリッパーにペーパーフィルターをセットし、二杯分の挽いた珈琲豆を入れて、まず少しずつ湯を落として蒸らす。数十秒待ったら、ケトルから細く絞った熱湯を円を描くようにしながらゆっくりと注いでいく。 「天音、上手くなったな、淹れ方」 「そう?」  ちょっとしたことさえも褒められてしまって、くすぐったい気持ちになった。  ふと気付くとテーブル席の方から澤木とエミが、にやついた笑みを浮かべながらこちらを見ている。おおかた仲が良さそうに働く男子二人を見て女子特有の萌えとかいうやつを感じているに違いない。本当は苦笑したいところだったが、天音は少しだけ彼女たちに向けて微笑みを返した。    フレンチトーストと珈琲をテーブルに置くと「わあっ」と二人が声をあげた。 「最高!美味しそう〜。私、バゲットで作ったフレンチトースト、好きなんだよね~」 「ねー!〈森の音〉、すごいでしょ。味も都内にある店なんかより全然美味しいんだから!イケメンが二人もいてこんなメニューが出て来て。ここらへんにはなかなかない店でしょ?」 「うんうん。アンスタに写真あげとくよ」  ひとしきり盛り上がる二人を見て「ごゆっくりどうぞ」と、天音はキッチンに戻った。  しばらくフレンチトーストを口に入れては感嘆の声を出していた澤木とエミだったが、天音が洗い物をしていると流路に向かって話し掛けてきた。 「ねえ、如月くん。明日って休み?結構、月曜とか火曜ってこのお店、休みにしてることが多いじゃない?」 「ああ、そうだね。明日あさっては休みにしようかなと思ってるよ」 「じゃあ、もし予定がなかったらでいいんだけど……私たちとどこかに行かない?」 「え、二人と?」  ぴく、と天音は一瞬動きを止めた。澤木の様子を見ていたら、まあそのうちそんな提案をされることもあるかと当然思ってはいたのだが。 「うん。如月くんと佐々乃くんと四人で」 「そうだね……。特に予定も無いと言えばないし……」  昨日も一緒に行動するのを断ったばかりでさすがに外せない予定があるとも言いにくかったのか、流路がチラリとこちらを見ながら言った。天音は(分かってる)と言うように流路を見て少しだけ頷く。 「じゃ、決まり!実は隣町の廃校になった小学校の建物が再開発しててね、新しいビストロと小さな雑貨屋とか洋服屋がその中に出来たんだあ。エミと二人で行こうかって言ってたんだけど、どうせなら君たちを誘ってみたいなと思って」 「うん、いいよ。ビストロもメニューの参考になるかもしれないし」 「よかった!じゃあ、明日、十一時くらいにここに来てもいい?」 「うん、じゃあそのあとはオレの車にみんなで乗って行こうか」 「えー、いいの?」 「もちろん」  流路はにこやかに笑い、女子二人はきゃいきゃい言って嬉しそうにしている。まあ、たまにはいいか、と天音は思う。そういう若者っぽい遊び方、最近していなかったしな。  二人が帰ったあと客は来ず、後片付けを済ませると、流路は翌週の仕入れの手配を電話やメールでし始めた。天音は店内を軽く掃除してから外に出て看板を下げ、ホウキを使って森から風に乗って落ちてくる木の葉を掃除する。七月を迎えて日中はさすがに暑いが、日が傾くと急に空気はひんやりと冷めてくる。  少し手を止めると、山の向こうにゆっくりと太陽が沈んで行くのが見える。赤く染まった空には都会では絶対に見かけないような大きな翼の鳥が飛んで行く。  天音は深く息を吸い込んで吐いた。会社員の頃、高層のオフィスビルのフロアはブラインドに覆われていてこんな風に夕日が沈むのを眺めることも出来なかったし、換気もロクにされていない濁った空気を吸い込んだりしたくないから、深呼吸なんてしたことはなかった。いいところだよなあ、と思う。流路がここを選んだ理由がよく分かった。  夜になるとシャワーを浴びて夕食を済ませ、リビングのソファに座ってたまにとりとめのないことを話しながら、サブスクで古い映画を流したりして過ごした。するとしばらく沈黙していた流路が口を開いた。 「明日、ごめんな天音。澤木さんの誘い断れなくて」 「え、別に俺はいいよ?たまには常連さんとのお付き合いとか必要だろ?隣町の新しい施設ってやつも見てみたいし、澤木さん、いい人だし……」 〈それにお前のこと好きそうだし〉と付け加えそうになったけれど、さすがにそれは無神経かなと思ってやめた。 「うん。けど本当は……オレは天音と二人でどこかへ出掛けたりしたかったから」 「……そっか」  ストレートな物言いをする流路につい照れて、天音はポリポリと頭をかいた。どう返したものか考えて黙っているうちに、いつしか映画を観るのに戻った。  エンドロールが流れ始め、「ふぁ……」と天音が欠伸をすると「もう寝よっか」と言われてドキリとする。そういえば昨日はゲストルームで二人で寝たのだった。  今日は流路はどうするつもりなのだろうと急に鼓動が速くなる。いや、でも、また一緒に寝るなんて。昨日は夏祭りの後の疲れでいつのまにか寝入ってしまったが、意識してしまうと目が冴えて眠れなくなりそうだった。  だから、できるだけさり気ない感じで「じゃ、俺、先に寝るな〜」と天音はソファを立とうとした。が、グッと手首を掴まれてしまう。 「ちょっと待って」 「ん……?」 「キスしていい?」  そう聞かれて『はい、どうぞ』とも言えず天音が固まっていると、ぐい、と腕を引っ張られて流路の胸の中に包み込まれた。顎を引かれて、唇が重なる。 (だから、まだ返事してないのに)と思うのだけど難なく流路の舌は口腔に潜り込んでくる。ああ、俺ってチョロいやつ。何をやってる、少しは抵抗してみろ、と天音は自分を叱り飛ばしたくなった。  けれど、やはり流路の内部を舐めとるようなキスは気持ちが良くて一気にまた力が抜ける。されるがままになって、「ふ……。はぁ」と切なげな吐息が知らず知らずのうちに漏れた。  だめだ、このままじゃまた流されて触られて、気持ちよくされてしまう。 「んっ、今日は、もう、終わり……!」  なんとかそう言って流路の腕の中から抜け出すと、天音はゲストルームに急いで入った。  けれど、出口を閉ざされた欲がじわじわと下腹に溶け残って、結局その日、なかなか眠りは訪れなかった。

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