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第8話

 それからというもの『毎日はちょっとキツい』と天音が泣きを入れたため、数日おきに〈練習〉は行われた。  店を閉めて、夜になればまた『おいで』と言われ、浴室に手を引かれる。そのときいつも天音の胸の中はざわめいて、少しの不安と期待とが入り混じる。昼間、お客が引けてホッと息をついたときに、ふと今日もするのだろうと思って身体が熱を帯びて堪らなくなるときがあった。  俺は変態なのだろうかと、いよいよ天音は自分が心配になってきた。流路の手の中で日々ぐずぐずになって、『最後まではまだちょっと』とか、もったいぶっては気持ちよくさせられて。  もうすっかり天音の弱点は流路に知られてしまっていて、的確に感じるところを触られては、遠慮することも忘れて声を上げた。流路とそういうことをするようになって初めて今までの自分が性行為に対して淡白だったことを思い知った。  女の子とのセックスをそれなりにちゃんとしているつもりだった。だが、やはりあくまでも〈つもり〉で、心から相手に気持ちよくなってもらおうとか、我を忘れてお互いに求め合いたいとか、そんなことを考えたことなどなかった気がする。  毎日のように熱心に求められて初めて相手から欲を持たれているという実感が湧いた。熱っぽい目つきも、紅潮した頬も、優しく触る指先も、全部が天音を好きだと言っていた。  だから、天音は存分にその気持ちに甘えた。ただ、最後の一線を踏み越えたら自分が決定的に変わってしまう気がして、もうとっくに準備は充分できているかもしれないのになかなか承諾することができないでいた。 そんな毎日だったが、たまに澤木がふらりと来店しては、以前にも増して流路にアプローチをしていて、天音はどうするべきかと迷った。   その日も澤木は「今度の休みにシネコンまで行って映画でも観ない?」と流路を誘っていた。 「ごめん、しばらく休みはメニューの試作とか仕入れ先を開拓するのに使おうと思ってさ。今度の休みもアポがあって……」  たいして店が忙しくないのは明白なのに、流路は苦しい言い訳で澤木の誘いをかわす。 「え〜、そう?仕事熱心なのはいいけど、たまには文化的なことを取り入れるのも大事よー?」 「そうだよね、また都合が合えば……」  天音は二人の様子をハラハラして見守っていた。恋人はいないと言っているのに、こうも誘いを断り続けていても大丈夫なものだろうか。澤木とは取引先でもあり仕事仲間でもあり、常連客でもあるという微妙な関係だというのに。  流路が在庫のチェックのためにキッチン裏のバックヤードに引っ込み、天音が澤木のオーダーしたケーキをテーブルに運んで行くと、澤木が「ちょっとちょっと、佐々乃くん、座って」と天音の袖を引いた。イヤな予感がしたが仕方なく澤木の前に向かい合って座る。 「あのさ。単刀直入に言うけど、っていうかもうバレてると思うけど…私、如月くんが気になってるんだよね」  澤木が思い切った様子で、でも僅かに恥ずかしそうなそぶりで告げてきて(わ、ついに来た)と天音は身を固くする。 「如月くんて恋人とは随分前に別れて、今も彼女はいないって言うんだけど、そのわりにはすごくガードが堅くてさ……。ねえ、佐々乃くんは如月くんに好きな人がいるかどうか知ってる?」 「……し、知らないんですよね、俺も。高校の頃からの友達だけど流路と再会したのは最近だから、その間のことは知らなくて……」 「何度誘ってもサラっと断られちゃうから脈はないんだなあ、って分かってはいるのよ。けど、告白してもないのに諦めるのもな、って気持ちもあって……。で、申し訳ないんだけど、佐々乃くんにお願いがあるんだ」  聞きたくはなかったが「……なんでしょう」と天音は身構えつつ尋ねた。 「一度、二人きりで如月くんと出掛けてみたいの。ね、お願い、彼にそれとなく都合を聞いてもらえないかな。私がデートしたがって る、って言ってくれていいから」  眉を下げて手を合わせてくる澤木に『駄目です』とも言えず、一瞬考えあぐねていると、ガチャリと音がして流路がバックヤードから戻ってきた。  こちらを見て「ん?」という顔を流路はし、澤木の方を見れば天音に向かってまだ手を合わせていて、唇の動きだけで『お願い』と言っている。  仕方なく天音はこくりと澤木に頷いて席を立った。  キッチンの中に戻って澤木の方を窺えば、なにやらうきうきした様子が隠しきれない顔でケーキを食べていて、(ああ、マズいな)と頭を掻く。  思い切って流路との関係を告げた方が良かったのだろうか?けれど、前置きなしにそんなことを伝えていいものなのか。ただでさえ澤木は人脈が広そうだ。澤木の家業である食材の卸店はこの町や両隣の町まで、飲食店の注文をほぼ一社で引き受けているのだから。 「そういえばさ、如月くん、ホームページの反響とかあった?」  先日、澤木に作ってもらっていた〈森の音〉のウェブサイトが完成して、そのセンスの良い出来栄えに『澤木さんてこっちの仕事だけでも充分いけるよね』と話していたところだった。 「そうだね、今のところは知り合いから少し連絡があったくらいかなあ。まだ立ち上げたばかりだしね」 「そっかあ。集客に役立つといいんだけどな」 「きっとそのうちお客さんは増えると思うんだ。今は田舎でも話題になれば来てくれるみたいだから」 「うん、そうだね、気長に待ちますか。じゃあ私、そろそろ行くね」  そう言って席を立ち、会計を済ませた澤木はレジに立つ天音に「よろしくね」と小声で言って、笑顔で去っていった。 「は〜〜〜」天音は嘆息した。流路に話すしかあるまい。 「澤木さんとなに話してたの、天音?」 「や、それがさー……」  天音は澤木がついに具体的な行動を示し始めたことを流路に告げた。 「そうか……難しいとこだよなあ…。まあ、オレは澤木さんにはそろそろ言わなきゃなと思ってたんだよな」 「え、マジ?大丈夫かな……」 「澤木さんがオレに対して気持ちを持っているなら言うしかないと思うんだ。気付いてるのにどっちつかずな態度を取り続けるわけにもいかないし……。彼女はたぶん分かってくれる人だと思う。休みの日に食事にでも誘ってみるよ。で、ちゃんと言う」 「うん……そうだな」  澤木に本当のことを告げて、流路の立場がこの町で気まずいものにならないだろうか。良い人たちばかりとは言っても田舎は田舎だ。人口の八割が六十代以上だというこの町で、考え方が古い人は多いだろう。  澤木が誰にも言わなくても、いずれ恋人も妻もいない二人が独身のまま一緒に暮らしているのを勘ぐる者も出てくるかもしれない。天音はまだ東京の家を引き上げていない中途半端な立場だが、流路は瑞坂町でこの先の人生を過ごすために立派な店を建てたのだ。その邪魔はしたくないな、という気持ちはあった。 「天音は何も心配しなくていいよ」  こちらの気持ちを察したらしき流路に、ポン、と頭の上に手を置かれ「うん……」と天音は頷いた。  流路は澤木に連絡し、月曜の夜に隣町の居酒屋で会う約束をした。それで少しそわそわしていた天音だったが、そこに更に気になることが出来てしまった。  午前中、天音がテーブルで調味料のセッティングをしていると「ごめん、天音。オレの部屋の本棚からソースのレシピ本を取ってきてもらえないかな?【フレンチの本格ソースレシピ】っていう赤い表紙の本なんだけど……今、鍋から手が離せなくてさ」と流路に頼まれた。 「うん、分かった。取ってくる」  そう言って二階に上がると、空気の入れ替えのためか窓もドアも全て開け放ってあった。天気予報で関東に台風が近付いていると言っていたせいか、時おり森の方からザアっと大きく湿気を帯びた風が吹きつけてくる。  本棚に近付くと、風に煽られて落ちたのか、何冊か本が下に落ちていた。「あーあ」と言って床の本をとりあえず拾い集めて手に持ち、本棚から流路の言っていた赤い表紙のレシピ本を見つけた。  こちらに引っ越してくる前にほとんど処分したのか、棚にあるのは料理本や株式に関する本と建築関係の本が数冊あるだけだった。 落ちていた本を戻そうとすると、【世界一周、絶景の旅】という、他のものとは少し毛色が違う写真集が目についた。その本から何か紙が一枚、はみ出ているのに天音は気付いた。 (ハガキか何かかな?)と何の気なしにそれを一度取り出して、またきちんと本の間に戻そうとしてハッとした。それは写真だった。  表に返すと、流路と誰か男性が寄り添って写っている。たぶんどこか旅先で自撮りで撮ったものなのだろう。国内かどうかも分からないが、背景には緑の木々とその奥に小さく海が写っている。  そのひとは男性なのだけど、〈綺麗〉な感じのひとだった。センターパートにした茶色がかった髪は頬にかかるくらいの長さで、天然なのかパーマなのか分からないがゆるくウェーブしていた。背は流路より十センチ近く低く見えるから、天音よりは少し高いくらいだろうか。  天音はごく、と唾を飲み込んだ。たぶん、このひとが流路の昔の恋人だ。年上で、自由人で、なかなか会えなくなって別れたという――。  天音はしばらく立ち尽くしていたが流路に頼まれていたことを思い出して、急いで写真を本の間に挟み、棚に戻した。  心臓が飛び出しそうに激しく鼓動を打った。そうだ、流路にはちゃんと恋人がいたのだった。そしてそれは男性だった。自分だけが特別なわけではない。 「流路、これでいいか?」  少なからず動揺しつつもキッチンに戻ってレシピ本を渡すと、「サンキュ。そこ置いといてもらっていい?」と流路は鍋を木ベラでかき混ぜながら言った。けれど、「ん?天音、どうした?」とこちらを見て首を傾げる。  天音はそれで自分の表情が硬くなっていたのに気付いた。 「あ、ごめん……なんでもない」 「……そう?」   流路は鋭いからちょっとした表情の変化も気付いてしまう。天音は写真を見てしまったことを言うべきか迷った。けれど恋人がいたの なんてもともと知っていたことだし、写真があったくらいで何だと言うのだ。  たかが写真、そう思うのに、それが残っていたことで、もしかしたら今でも流路はあのひとを想うことがあるのではと、心に大きなモヤのようなものが垂れ込めてくる。 (うわ、これくらいのことで嫉妬かよ……)  そんな自分にうんざりする。澤木のことだって流路は何とも思っていないことは分かっているのに、二人が会う約束したと思うとなんとなく面白くない気持ちになってしまうし、今度は過去の恋人の写真を見たくらいでこれだ。こんなに自分がちょっとしたことに振り 回されるような人間だとは思わなかった。  男同士の恋愛という初めての経験に浮き足立っているんだろうか。それとも流路に何度も好きだと言われて自分だけが特別なのだと思い上がっていたのだろうか。恥ずかしい。    そんな風に悶々としていたから、その夜も流路に「一緒に風呂入ろう」と言われたのについ「ごめん、今日は疲れたからやめとく……」と断ってしまった。 「大丈夫か?なんか元気なかったもんな。調子悪い?」  心配そうに顔を覗き込まれて、バツが悪い気持ちになる。 「いや、大丈夫。今日、珍しく蒸し暑かったからかも」 「そうか、関東は台風だって言ってたもんなあ。よし、今日は夕飯は雑炊にしようか?体調悪いときは暑くても身体を冷やさない方がいいよ。酒もやめとこう」 「うん……ありがとう」  流路は徹底的に優しい。それなのに、ちょっとしたことで不機嫌になる自分が子供っぽくて嫌だった。天音が元気がない理由など何も流路は知らないし、知ったところでそれは呆れられるような些細なことなのに。    しかし翌日、起きると気分はすっきりしていた。流路の作ってくれた貝柱を入れた鶏ガラベースの中華風雑炊がやたら美味くて、結局何杯も食べたあげく腹が膨れて苦しくなって、つい早い時間に寝てしまったからかもしれない。我ながら能天気なものだと思いつつ、店へと続くドアを開けた。 「はよ、流路」 「おはよう、天音。調子はどう?」  キッチンで仕込みにもう取り掛かっている流路が手を止めて微笑みかけてくる。 「うん、平気。ごめんな、昨日……」 「なんで謝んの」 「ん、別に」  言葉少なな天音に流路は近付いてきて、すばやい動作で軽く触れるキスをしてきた。 「ちょ、流路、ここ店ん中……!」 「誰もいないからいいだろ」 「や、なんつーの、ケジメみたいなのって……いるんじゃないのかなー、なんて……」 「天音って意外と堅いよなあ」 「ぐぅ……そうじゃないけど」  流路はこの老人ばかりの町に根を下そうとしている割には外で手を握ってきたりキスしたり結構奔放だ。天音は自分だけが気を揉んでいるような気がして悔しかった。そんな気持ちを見透かしたように流路は悪戯っぽい目でこちらを見ている。  なんだか、好きだ好きたと言って来ているのは流路の方なのに自分の方が取り乱してばかりいて馬鹿みたいだな、と天音は思う。恋愛ってこんな風だっけ?過去どうやって女の子と付き合って来たのか、今となれば記憶はあいまいで大したエピソードも思い出せやしない。  その日のランチの時間も客は十五人程度の入りで、平穏に終わった。簡単に昼食を済ませると、流路は今度からパフェを出すと言って大量のアイスクリームの仕込みに取り掛かった。そして天音が食洗機に下洗いした食器を入れて蓋をしようとしていたそのとき、店の電話が鳴った。 「天音、取ってくれる?」と流路に言われると同時にコードレスの受話器を取る。掛かってきた電話にすぐ出るというのはサラリーマンだったときの癖かもしれない。 「はい、〈森の音〉です」 『……もしもし。あの……スタッフの方ですか』  高過ぎず低過ぎもしない、耳に心地の良い声だった。 「あ、はい、そうですが…」 『あの……如月くんて今、近くにいます?』 「あ、はい。少々お待ちいただけますか」  天音の視線で流路は手元の作業を止め、一旦冷蔵庫にストック用のバットを入れた。 「オレ?」 「うん。誰か分かんないけど、若い男の人」  流路は首を傾げながら受話器を受け取って「お待たせしました、如月です」と電話に出た。  すると、『流路か?』という声が近くにいる天音にも漏れ聴こえてきてハッとした。 「……崇史たかし?」  その感情を抑えつつも驚いているような声音に、あ、と思う。きっと〈彼〉だ。 『流路……久しぶり』  そこまで聴こえてしまったが、自分が聴いてはいけない話だ、と気付いて足早に流路から離れてバックヤードに入った。箒とちり取りを持って流路の方を見ないようにしてカウンターを通り過ぎる。 「え?ああ、うん……」と受け応えしている流路が外に出ていく天音を目で追っているのが分かったが、気付かないふりをした。  そっと外に出て、「はー」と溜め息を吐く。きっとあの写真の人だ、そう思った。流路の口からでた『タカシ』という名前に、長い時間を共にした間柄特有の親しさが滲み出ていた。  箒を動かして掃除をしていても心はここにあらずで、流路がどういう表情でどんな話をしているのか気になった。 〈彼〉は海外を飛び回っているような自由人だと言っていたが、電話の声はそれほど遠く感じなかった。きっと日本に戻って来たのだろう。    戻ってきた。そして、〈森の音〉の番号を見つけて電話を掛けてきたのだ。それって、きっと、会いたいってことだよな?  ぎゅう、と胸が痛んで天音はシャツの胸の辺りを握った。流路は……あのひとが帰って来たことをどう思うんだろう?もしあのひとがやり直そうと言うのなら、どうするつもりなんだろう……。  手を止めて天音が立ち尽くしていると、キイ、とドアが開いた。 「天音、掃除ありがとな」  流路が微笑み掛けてくる。 「あのさ。さっきの……」 「うん……。ちょっと聴こえたよな?天音にも話したことのある……元彼だったんだ。なんか、日本に戻って来たから会いたいって言われ た」  流路はごく率直にそう話した。 「会いたいって……。ここに来るってこと?」 「断ろうと思って『もう随分前に終わったよな、オレたち』って言ったんだけど、納得できないみたいで……。『とりあえず明日の午後に行く』って言われて電話切られた」 「え、明日⁈」 「うん。急だよな……ごめんな、天音。イヤな思いさせるかも」 「いや……ううん、仕方ないよな。向こうが来るって言ってるなら……」 「本当に来たら、ちゃんと話をするから。今、付き合ってるひとがいるって。それが天音だってことは迷惑かけるかもしれないから言わないつもりだけど……。きっと勘付かれると思う」 「うん、そうだろうな。俺は平気だから。明日そのひとが来たら、ゆっくり話した方がいいだろうし……俺はどこかに行って時間潰してくるよ」 「そうか?確かに一緒にいてもらってもあいつに絡まれるといけないからな……その方がいいかもしれない」 「絡まれるって?そんな血の気の多い人なの?」  写真に写っていた綺麗な男性からはそんな印象は受けなかった。 「うーん、普段は穏やかなんだけどね。たまにカッとすると言葉が荒くなったりすることもある、かも」 「うへえ、そうか。なら、やっぱりいない方が良さそうだな」  その夜は落ち着かなくて、先に風呂に入らせてもらった天音はまたあまり流路と話もせずにゲストルームのベッドに入った。けれど、あの写真に写っていた〈崇史〉の笑顔とその隣で屈託なく笑っていた流路の表情が脳裏にチラついて目が冴えてしまって、なかなか眠りに落ちることができなかった。    翌日、金曜の午後三時といういつもは暇な時間に敷地内に車が入ってくる音がした。天音がテーブルを拭き掃除し、流路はバックヤードで発注の作業をしていたときだった。    その日は車がやって来るたびにハラハラと外を見ていた天音だったが、ここらへんではあまり見ないような、車体の長いグレーのアメ車が駐車するのが見えて(あ、来た!)とすぐに分かった。    カラン、とドアに付けてある小さなアンティーク製のカウベルの鳴る音がし、男性がひとり店内に入ってきた。    身長は天音より少し高いくらいで、一目で(綺麗な顔をしたひとだな)と思うようなひと。男性なのに、なんだか華がある。当然写真より少しまた大人びていて、長めだった髪は以前より短くなったが、相変わらず緩くウェーブがかかっている。 「いらっしゃいませ。おひとりですか」  来るのを知っていたような態度をするわけにも行かず、天音は平静を装って笑顔で彼を出迎えた。彼は店内をぐるりと見渡し、 天井や窓をきょろきょろと見たりして目を泳がせたあと、天音に視線を向けた。 「はい。あの、昨日電話したんだけど……如月くん、いる?」 「あ、お知り合いの方ですね。呼んで来ますので、テーブルでもカウンターでも、掛けてお待ちください」  右手と右足が一緒に出そうになって自分の歩き方がぎくしゃくしていないか気になりつつ、天音は崇史に背を向けてバックヤードへと急いだ。ノックをするのも忘れて扉を開ける。 「流路……。来た、あの、崇史さん……」  動揺でつい言葉がカタコトになってしまう。 「あいつ、本当に来たんだ……。ありがとう、天音。すぐ行く」 「あの……俺は、じゃあちょっと外すね」 「悪いな。でもきっと、その方がいいと思うから……」 「うん、気にしないで。適当に散歩してくるよ」 「ああ。ちゃんと……戻って来いよ」 「……当たり前だろ」  店の中に戻ると、崇史は物憂げな表情で窓の外を眺めていた。世界を旅するのが好きなひととは思えないくらい色白で整ったその横顔が陽に照らされて、なんだか映画のワンシーンのようにさえ見えた。 「あの、如月くん、すぐ来ますので。……ごゆっくりどうぞ」 「はい。ありがとう」  そう言うのを聞いて天音が去ろうとすると「あの」と声を掛けられて、ギクリとする。 「……はい?」 「君って……。ここの土地の人?アルバイトかなんか?」  崇史は美しい色の瞳を少し細めるようにしてこちらを見てくる。 「えーと、いえ、僕は……」  困った。この場合、どう答えるのが正解かが分からない。天音が考えあぐねて一瞬言葉を失うと、ガチャ、と音がして流路が表に出てきた。 「流路……!久しぶりだな!」  どこか張り詰めたような表情だった崇史は流路を見て、にわかに電気が灯るかのように表情を明るくさせた。流路はちょっとだけ手を挙げて「うん、久しぶり」と答え、困ったような顔で近付いてくる。  天音はここで行かないと席を外せなくなってしまうであろうことを察知して「あ、じゃ、俺は買い出しに行ってくるから!よろしく」と 慌てて二人から視線を逸らし、サロンの紐を解きながら居住スペースに繋がるドアを開けて階段を駆け上った。  びっくりした。想像以上に綺麗なひとだったし、一見して魅力的なひとだと思った。基本的には女の子が好きなはずの天音でさえあの横顔にはつい見惚れてしまいそうだった。  あんなひとに〈もう一度やり直そう〉なんて言われて断れるものなのだろうか?高校の途中から話もして来なかった天音との付き合いより、あのひとの方がきっと流路のことをよく知っているというのに。  なんならあの人が帰るまでこのまま二階に閉じこもっていようかとも思ったが、もし二人が――ヨリを戻したりしたら? 流路だって、何年かぶりに再会した元カレがあんなに素敵なひとだったらやっぱり気が変わることだって充分あり得るのだ。それで二人が二階に上がってくるようなことがあったら――。  そうだ。ダメだダメだ。やっぱり外に出た方がいい。  天音は流路から借りたリュックに財布とスマホとタオル、あとは水筒だけ詰め込んで居住スペースの方の玄関から外に出た。行く先を思いつかなかったけれど、まだ陽は高いし、また滝を見に行こうと思った。あそこなら一人になって冷静に物事を考えられそうだ った。  六月に来たときよりも本格的な夏を迎えて滝へと続く道はいっそう緑の色が濃くなり、咽せ返るような草木の匂いに包まれた。あちこちから蝉の鳴き声がわんわんと耳に響く。しかし夏でもこの道は日差しを遮る木々のカーテンのおかげでどこかひんやりとしていて気持ちが良かった。  木々の根っこが張ってごつごつと曲がりくねった川沿いの道を歩いて行くと、滝に辿り着いた。前回よりも早く着いた気がするのは、山道に慣れたからだろうか。水筒を取り出してコップに麦茶を淹れて飲むと、さっきからドクドクと落ち着かなかった鼓動が少し静かになった気がした。  あの人。綺麗なひとだった。海外で植物を探してばかりいる自由人、みたいに聞いていたから、もっと野生的な男くさいイメージだったのに、思ったよりもずっと身体の線も細くて柔らかい印象のひとだった。澄んでいてよく通る声にもドキっとさせられた。  あのひとと流路は初めてのセックスをしたのか。そんなことをつい考えた。自分だって高校の頃にキスされたことなんてすっかり過去のことにして心に仕舞い込んで、女の子と付き合ったり寝たりしていたのに、流路の過去に嫉妬するなんて馬鹿げている。俺だけを好きでいて欲しかったとでも言うのか?虫が良すぎるだろ。  ここに来なければ流路と関係を持つことなんてなくて、また就職して、出会った女の子と付き合って、なんなら結婚だってしていたかもしれないのに。だけど、どうしてもキリキリとした胸の痛みが抑えられない。 (あのひとが帰って来たのなら俺は用済みかも)  結局セックスだって最後までできていない。あのひととはきっと付き合ってる間に何回もしたんだろう。お互いの身体のことだって知り尽くしているはずだ。  じわ、と涙が滲んで驚いて目尻を拭う。まさかこんなことで泣く日が来るなんて。元カノたちに振られたときだって、そのあとすぐ飯を食ったりテレビを観て大笑いしたりしていたはずだ。 (いやいや、バッカじゃねーの、俺。情緒不安定かよ)と思うのだけど胸が締め付けられて仕方ない。  ――本当に俺、流路のこと、泣くほど好きになっちゃったんだ。  それとも、本当は昔から好きだった?けど、あの時はどうやって気持ちに応えるのがいいのか分からなかったから逃げた。逃げなければ、もっと違う結果になっていたのだろうか。  天音はしばらくじわりと溢れてくる涙を拭いながら滝を見つめていた。火照った頬に細かな水飛沫が当たって熱を冷ましていく。そのまま一時間ほど経って、ようやく腰を上げた。  ゆっくりと川沿いを戻り、そろそろあのひとは帰った頃だろうか———と敷地に入って行くと、間が悪いことにちょうど発つところだったらしく、崇史がアメ車のドアを開けているところだった。流路は車のすぐ傍に立っている。  二人とも険しい表情をしている。天音はあと少しだけ遅く帰ってくるべきだったと悔やんだが、立ち竦んでいるのを流路に気付かれてしまった。 「天音!」大きな声で呼ばれ、天音は思わずビクっとすると、「こっち来て……!」と流路が手招きする。  崇史は無表情でこちらを見ている。邪魔しに来たようでどうにもバツが悪かったが、仕方なく天音は二人に向かって歩いた。 「もう、帰られるんですか」    渋々声を掛けると、崇史は天音に近付いて言った。 「うん……。あのさ、君と今、付き合ってるって聞いたよ。来た瞬間、たぶんそうだって分かったけどね。でも君、別に男が好きなわけじゃないんだろ?こんな田舎にたまたま訪ねて来て、誰も他にいなくて寂しくて、非日常なことに盛り上がってるだけなんじゃない?都会に戻れば『なんで男と付き合おうとしたんだろう』って我に返って後悔することになると思うよ」 「ちょ、崇史やめろよ。天音には構わないでくれって言ったろ?」  立ち尽くしている天音に詰め寄る崇史の肩を流路が掴んで止めたが、それを振り払って崇史は続けた。 「佐々乃くんだっけ。ね、諦めてよ。オレに、流路のこと、返して」 「は……?」  天音は目を見開いた。 「だから、やめろって……!」  流路は懸命に崇史を押し留めようとするが、崇史は構わず天音の襟首を掴んだ。 「あの、俺は——」    崇史の剣幕に押されてうまく言葉が出てこない。 「ほら、怖気づいてるじゃないか。こいつには覚悟なんてないんだよ。なあ流路、さっき話したときも言ったろ?裏切られるって。この子と付き合ったら絶対この先、痛い目を見ると思うよ。ノンケなんか、どうせ女の方に戻って行くんだから。なあ、お前こそ目を覚ませよ」 「それでもっ……。天音のことが好きなんだ……。いつか、天音が離れて行ったとしても…今だけでもいいから天音にオレのこと見てほしい。オレのそばにいて欲しいんだよ……!」  そう言うと、流路は崇史の腕を天音から引き剝がし、天音を庇うようにして崇史の前に立ち塞がった。「チッ」と舌打ちする音が聞こえる。 「こんな頼りなさそうなヤツより流路のことはオレが一番分かってる」 「そうかもな。でも、オレは頼りたいわけじゃないんだ。天音を、大事にしたいだけ」 「そんなこと言ってられるのも今のうちだ。フラれてオレに泣きついて来ても知らないからな……!」 「うん。大丈夫。フラれても、もう崇史には頼らないから……」  流路の言葉に崇史は美しい頬を歪め、傷ついたような顔をした。 「くそっ。……頼ってくれよ、そういうときは……!」  そう吐き捨てるように言い、崇史は車のドアを開けると中に乗り込んだ。  バン、と大きな音でドアが閉まり、「じゃあな!」と、窓越しに言うのが聞こえる。  エンジンが唸りをあげ、アクセルを思い切り踏んだのか大きな音を立てると、崇史の車はすぐにスピードを上げて走り出し、見えなくなった。

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