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第10話

 だが呑気にしていられたのはその日までで、予想した通り翌日からさらに店は忙しくなった。やはり十五時過ぎには客はほとんど帰って行くのだが、オープンからランチの時間帯は目が回るような忙しさだった。  若い客たちが何組も訪れ、地元の常連のじいさん連中や浴衣をくれたまどかさんたちが来てくれてもかなり待たせることになるので断る羽目になってしまった。  それでもじいさん達は『急に人気になってぇ。またブームが終わったころ教えてくれよ〜』と笑って帰って行ったし、まどかさんたちは『大変そうねえ。あなた達、ちゃんと食べてる?もし忙しかったら、ウチの孫が帰って来てるからバイトに使ってやって』などと言ってくれるのがありがたかった。  店を閉めた後も互いに仕込みや掃除や翌日の準備に追われ、流路はそれでもさすがにしゃんとしていたが天音は久々の肉体労働で疲れ果ててぐったりし、遅くまで売上や仕入れの計算をしている流路に申し訳ないと思いつつも早々に寝てしまう日が続いた。  始めは流路の部屋のベッドで先に寝ていようか、それともゲストルームに戻ろうか考えたが、一緒のベッドに入ったら疲れていてもどうしたって期待してしまう。きっと流路に少しでも触れたり触れられたりしたらすぐ身体のあちこちが疼いてしまうはずだ。流路だって疲れているのだろうし、気を遣わせたくはなかったから、やはりゲストルームで寝ることにしたのだった。  その次の休業日も、流路は朝早くから農家のじいさんたちに野菜の仕入れの相談をするために出掛けて行ったのだが、天音はうっかり昼近くまで眠ってしまっていた。  寝ぼけた頭でリビングに行くと〈朝メシ、食べて〉と書いたメモとともにラップをかけたBLTのサンドイッチが置いてあった。流路の方が疲れているはずなのにそんなことまでしてくれるなんて……と申し訳なく思いつつも無償の愛情というやつも感じてしまって、うっかり涙が出そうになる。こんな風な優しさを与えてもらうなんて、親と暮らしていたとき以来だ。  親が食事を作ってくれて、面倒を見てくれてというのを当たり前のこととして学生の頃までは享受していたけれど、一人暮らしを始めて日々の生活をきちんと営むということは案外大変なことなのだと思い知った。仕事の忙しさであっというまに食生活は乱れ、部屋は荒れた。家に帰れば自動的に食事が出てきて、清潔な服が畳んで置いてあったことがなんとありがたかったことか。  なにかと世話を焼いてくれて、心配をしてくれる流路に自分は何か返せているのだろうかと思う。流路はきっと『そばにいるだけで、何もしなくていいんだ』と言うだろう。けれど、大人としてそういうわけにもいかないのではないか。  店が忙しくなったせいで流路は澤木との約束を延期せざるを得なくなっていた。『しょうがないよね、また暇そうな時間に店に遊びに行くね』と言っていたそうだ。澤木は相当がっかりしているに違いない。きっと、流路に告白する覚悟をしていたのだろうから。  皿を洗い、布団を干し、掃除をし、洗濯をしたら自分ができることは済んでしまった。都会で働いていた何か月か前までなら、こんな暇なときは誰かを誘って飲みに行ったり一人で映画を観に行ったりしたものだったが、この田舎には自然はあってもそういう文化的なものはない。  年の近い若者とほとんど出会わないから友人もできなさそうだし、時間が空いたときに何かここでもできる趣味——例えば釣りとか、キャンプだとか——を考えた方がいいのかもしれない。趣味だけでなく、冬はこの店を閉めるのだから、この先もここに残るつもりなら自分も何かフリーランスでできる仕事を考えるべきなのだろう。  時刻はまだ午後二時を回ったくらいで、流路は夕方にしか戻れないかもと昨日言っていたことだし、近所に散歩にでも出掛けようかそれとも隣町の大型の電器屋にでも行こうかと迷っているうちに、天音はリビングのソファでうつらうつらしてきた。  ゲストルームに戻ろうとして、ふと思い立って流路の部屋をそっと開ける。何度かこの部屋で眠ったときは意識しなかったのに、しばらく立ち入っていないうちに慣れていた鼻がリセットされたのか部屋は流路の匂いに満たされているような気がした。  ほんのりと漂う男性的な匂い。体臭を不快に思うか快く思うかで恋愛の相性が分かるとかいうが、男女でなくてもその理論は成立するのか、その匂いを嗅ぐだけで胸の奥が切なくなって、たった今、少し不在にしているだけの流路を想って胸が苦しくなってしまう。  少し部屋が蒸していたのでエアコンを付け、綺麗に整えられた流路のベッドにそろりと入り込んだ。 (流路に包まれてるみたいな気がする……)  天音は思わずくんくんと鼻を動かした。女の子と付き合っていたときは彼女たちはシャンプーや石鹸や化粧品の香りを纏わせていて、単純にそれはいい香りだなあ、と思っていて性欲を掻き立てられるのとは少し違っていた。  けど、今はどうだ。匂いを嗅ぐだけでなんだか堪らない気持ちになる。  ――俺ってやっぱり、変態だったのかな……。  下半身がじんじんとしてきて天音は思わずそろりと部屋着の中に手を入れた。(人のベッドの中でオナニーするなんて)と思うのだけど、手の動きは徐々に速くなってしまう。  ひとり息を荒げ、終わって手を拭くと、またベッドの中に潜り込んだ。(流路……。早く帰って来ないかな)そう考えているうちに天音はまた眠ってしまった。    どれくらい時間が経ったのか、ぼんやりした意識の中で、なにやら下腹の辺りで蠢く気配がした。  背中は暖かく、温かな吐息がうなじにかかり、そして下着の上からそこを握り込まれて、揉まれるような感触。「はぁ……」と知らないうちに口から零れて、それで目が覚めた。 「あ……?」 「あ、起きた」  頭のすぐ後ろで聴き慣れた低い声が響く。 「あ⁈流路……?」  ハッとして、靄がかかっていたようだった脳が急に覚醒する。 「天音……何でオレのベッドで寝てたの」 「んぁ……。ごめん……」  寝る前にしていたことの後ろめたさから、つい謝ってしまう。 「謝んなくていいのに……。ここで、してた?」  天音はギクリとして固まった。 「それは……」 「してたでしょ?下着が濡れてる」  悪戯がバレた子供のように焦って、天音は顔を布団に潜らせた。「ごめん……」 「だから、なんで『ごめん』なの。オレ、嬉しいけど。天音がオレの帰ってくるのが待てなくてベッドで待ちながらオナニーしててくれたの」 「うう……。そんなことはっきり言うなよぉ」  羞恥で天音は縮こまったが、流路は下着の中に手を入り込ませながら「……後ろも触った?」と聞いてくる。 「後ろは、触ってない……」 「そうなんだ。じゃ、触ってあげる」 「いやっ、いいから……!」  そんな抵抗も虚しく、また天音は流路の手の中でゆるゆると開かれていった。    その日、達してからも天音の脚をまだ抱えながら、流路は何度も天音の中に自分のものを擦りつけるようにしてきた。 (流路って、やっぱり執着、強いんだな……普段はクールなくせに)  強烈な快感のあとに訪れた眠気のなかで、改めて思う。けれど、そんな重めの執着心さえやはり嫌な気持ちには全然ならなくて、求められれば求められるほど与えたくなってしまっている気がして、自分のそんな気持ちに戸惑ってしまう。  やばいな。本当に、離れられないかも。  あまねあまねと繰り返しながら流路は何度も唇で口を塞いできて、天音はぎゅっと流路の背中に手を回してその熱を受け止めた。  次から次へと訪れる客に応対しているうちに、いつのまにか八月は終わってしまった。夏休みだから若い客が押し寄せていたのか、九月に入ると客の入りはかなり落ち着いて来た。その週末の午後も十五時頃には客はみな帰っていき、ようやく訪れた平穏に天音は一息ついた。 「せっかくいい季節に来てもらったのに店にかかりっきりで終わっちゃったな……。天音、ごめんな。もっと一緒に車で遠出したり、出歩いたりしたいと思ってたのに」  流路はキッチンを片付けながら済まなそうな顔をする。 「いいよ、別に。どうせ冬は閉めちゃうなら夏は稼ぎどきじゃんか」  天音もテーブルを拭きながら答える。人がたくさん訪れるようになって使用の頻度が高くなったせいか、最初に来たときには真新しく見えていた木製のテーブルには少し使い込んだような味わいが出始めていた。 「そうなんだけどな。元々そんなに忙しくするつもりもなかったからなあ。来年からはどうなるかだな……」  そんな話をしていると店の電話が鳴った。 「はい、〈森の音〉です。ああ、中山さん、お世話になります」  ナカヤマ……天音は常連のじいさんたちの顔を思い浮かべた。確かワイン用の広い葡萄農園を持っている人ではなかったか。 「え、ワイン会?へえ、いいですね。じゃ、僕も何か料理を……。え、いいんですか?じゃあお言葉に甘えてお願いしようかな……。はい。はい。では」  流路が電話を切ると、「ナカヤマさんて葡萄園の?」と天音は尋ねてみた。 「ああ、そう。中山さんちのワイナリーってものすごく広いんだけど……葡萄畑の真ん中にさ、見学者が試飲したりするイベント用の建物があるんだ。そこで食べ物を他の農家さんたちが持ち寄って、もろみワインを飲む会をやるんだって」 「もろみワイン?ってなんだっけ」 「まだ発酵途中のワインだよ。まだアルコール分は低いんだけど……。ワイナリーでしか飲めないから貴重なんだ」 「へえ。でも、俺たち車で行くだろ?どっちかは飲めなくないか?」 「いや、中山さんちの孫息子が大学の夏休みで帰って来てるからその子が送り迎えしてくれるってさ。土日は観光客が来るから再来週の月曜にやるんだって。行くだろ?天音も」 「うん、行ってみたいな」 「よし、じゃ、決まり」  当日の午前、ここらへんでは見慣れない車が敷地に入って来る音がした。〈中山さんちの孫息子〉だ。  こちらは「手ぶらでどうぞ」と言われていたのだが、カフェを経営している流路としては何も持っていかないわけにはいかなかったらしい。生ハムやフルーツなどの具材が入った指で摘めるくらいの小さなサンドイッチを数十個も作り、そのまま食べてもオーブンで温め直してもいい海鮮のパエリアを鉄製の鍋で二つ作った。どちらもワインに合いそうな料理だ。天音ももちろん手伝ったが、手速くこういう誰もが楽しめる料理を作ることができるところはさすがだと、流路のことをまた見直してしまう。 「わあ、すいません。こんなにたくさん……!ご近所さんが持ち寄った料理、チラっと見たところでは煮物だったりカレーだったりとか、晩飯のおかずの余りを持って来たんじゃないか?って感じだったから助かります」  流路の用意したものを見て、拓実という中山さんの孫息子は目を輝かせた。 「そっか、そんなに喜んでもらえるならもっと作ればよかったかな、やっぱり」 「いえいえ!こちらがもてなすつもりなんですから本当に手ぶらでも良かったんですけど。ありがとうございます!」  ニカっと笑って拓実は流路からサンドイッチのタッパーを受け取り、先に立って歩いた。天音と流路はパエリア鍋を両手で持って彼のワンボックスカーに乗り込んだ。 「拓実くんは飲まなくていいの?」天音が聞くと、 「僕、下戸なんですよ。二十歳になって飲んでみたら全くアルコールがダメなことに気付いて。ワイナリーの息子なのに……まあ、僕じゃなくて兄ちゃんが継ぐことになってるからいいんですけどね」と拓実は運転しながら答える。 「僕は今、都内の大学に通ってるんですけど……。あの、お二人は、こんな田舎で大丈夫なんですか?まだ若いのに」 「はは、オレはもう充分、都会で遊びも仕事もしたからね。のんびりこういうとこで料理しながら暮らしてみたかったんだ」 「そうですか……。僕も就職して何年か経ったら戻りたくなるのかなあ」 「そうかもね。いいとこだよ、ここは」  流路が目を細めて車窓の外に流れる山並みを見るのを天音は横目で見つめた。眩しそうな、愛おしそうな表情。流路はここを本当に気に入っているのだなと思う。 「オレはさ、事情があって生まれた家に住むのも息苦しさを感じてたから……大学に入ったらすぐ一人暮らししたし、就職してからは……仕事は人並みにこなせるのに、なんだかずっと虚しくて辛かった。本当の自分って一体どこにあるんだろう、って思ってたよ。自分の気持ちを誤魔化して、なんとか社会に馴染んでるフリしてさ。でもそんなの、ずっと続かないよな」 「そうですか……。佐々乃さんもそんな感じですか?」  拓実に急に話を振られて流路をずっと見つめていたことに気付き、慌てて目線を運転席の方に向ける。 「俺は……どうだったんだろう。上手くやってるつもりだったんだ。仕事でもまあまあ業績上げてたし、友達や……恋人もいなくはなかったし、人間関係で悩んだことはほとんど無かったな。けど、ずっと仕事がしんどい感じはしてた。でも止まったら駄目だ、って毎日朝から深夜まで働いたりして……。自分がこの先どうしたいかなんて考えたこともなかったよ。でもあんなに頑張ってたつもりだったのに、ここに来たら『俺って今まで何やってたんだっけ?』って……思い出せないんだ。自分が一生懸命やってたことの中身が」  言葉に出してみるとやはり自分は疲れていたのだろうな、と改めて自覚した。今は、自分の感覚に正直に生きているような気がする。考えなければいけないことが少ないからかもしれないし、流路が毛布で包み込むように天音のすべてを受け入れて、甘やかしてくれるからかもしれなかった。 「そうですか。如月さんも佐々乃さんも瑞坂町で伸び伸びしてくださってるんですね……。なんか、雰囲気いいですよね、お二人の。僕、先々週くらいに一度〈森の音〉に地元の友達と行ったんです。忙しそうだったから中山の孫です、って名乗れなかったんですけど、店内の空気感が良くて……きっとお二人の気が合ってて、仲がいいからですよね」 「そうかな」  流路が嬉しそうに頬を緩ませて言うのを、天音は照れ臭い気持ちでチラリと横目で見た。  ――拓実の目にも自分たちはそんなに仲が良さそうに見えるのか。友達としての仲の良さにちゃんと見えていればいいのだけれど。  駐車スペースに停めた車から降り、しばらく歩くと突然広大な農園が目の前に開けて、天音は遠近感の感覚を失って目をしばたたかせた。 「すげえ……!」  まるで城壁か何かのように聳え立つ山々に囲まれた土地には、整然と列になって数えきれない程の葡萄の木々が植えられている。目を凝らしてもどこまでが敷地なのか全く分からない。 「え、ここってどれくらいの広さなの」  天音が拓実に尋ねると、 「えーと、百ヘクタールくらいだっけな。東京ドームだと二十個分くらいって言ってたような……」  と拓実は思い出すように空を見上げながら答えた。 「二十個⁈」  天音が目を剥いていると、「はは、それくらいたいしたことねえべ。北海道なんかじゃ、四百ヘクタール超えるようなとこがザラにあっからなあ」と年配の男性が会話に入ってきた。 「あ、こんちには」天音が誰だっけ?という顔をすると、流路が「中山さん、今日はお世話になります」と笑いかけた。どうやらこの人が拓実の父親らしい。 「いやいや、いつもうちのじいさんが〈森の音〉に入り浸っちゃって。こっちこそ迷惑かけてるんでないですか?」 「いえ、とんでもないです。最近はちょっと忙しくて、せっかく来ていただいたのに店に入らずに帰られてしまったことが何回かあって……。オープンしたばかりの頃からずっと来ていただいてたのに申し訳ないです」 「いや、いーのよ。じいさんたち、あんたの店がもの珍しくて、変わったものも食べられるから気に入っちまってなあ。でも、客がジジイばかりじゃ若い子が来にくいだろうと心配してたんだよ。流行ってよかったなあ」 「ありがとうございます。夏休みが終わったからか、随分若いお客様も減ってきましたけどね」 「そっかそっか。まあ、こんなド田舎で開店一年目であんだけ人が来りゃ、充分なんでねえの」 「そうですかね。また良かったらいらしてください」  流路が店主らしい落ち着きで言うと、拓実が「父ちゃん、これとあの料理、如月さんたちが作ってくれたんだぜ」と手に持ったタッパーを顎で示し、パエリア鍋を持っている天音たちを見遣った。 「うわ、こんなたくさん。ありがとなあ。今日はお客さんとして来てもらうだけでよかったのに……」 「いえ、〈森の音〉の料理も味わっていただく良いチャンスですから」  さすがビジネスマンだっただけあって流路はソツがないなと天音は思う。誰にでも感じよく接していて、この瑞坂町でこうして地道に人間関係を作り、自分の居場所を作ってきたのだろう。  拓実に案内されて、葡萄畑のど真ん中にあるワイナリーの見学客が飲み食いできる屋根のある施設に歩いていくと、既に試飲会は始まっているようで、見知った顔の人たちで賑わっていた。  ここではバーベキューなどもできるらしく、かまどやコンロや水場などがいくつも用意されている。肉の焼ける食欲を唆る匂いが屋根を超えて農園にまで広がっていた。 「あ、如月くん、佐々乃くん!こっちこっち!」 「澤木さん!なんだか久しぶりだね」  澤木がワイングラス片手に二人を笑顔で手招きしている。結局店が忙しくなったのと同時に澤木も自分の仕事に追われていたようで、流路と二人っきりで会うという約束はまだ果たされていなかった。 「わ、如月くんたちも料理持ってきてくれたんだ?」 「うん。必要ないって言われたけど作らずにはいられなくて……」 「わーん、嬉しい!おつまみがなんだか渋いものばっかりでさあ」  そう澤木が言った言葉に、 「渋くって悪かったなあ、彩花ちゃん」  と、ドッと参加している面々から笑いが起こった。 「パーティ料理なんてここいらのおばちゃんたちは慣れてねえのよ」 〈森の音〉の常連の年配の男性が笑い、 「いやーね、じゃあ何も今度から持って来ないわよ!」  と、以前に浴衣を着付けてくれたかなえさんが怒った表情を作りながら言う。  若者は農家を継いでる二代目や三代目が四、五人と、拓実のようにたまたま大学の休みで帰ってきてる学生が数人いるだけだった。その若者たちも流路たちが持ってきた料理に「わー、すげえ」と目を輝かせた。 「こんなに喜んでもらえるならもっと色々作って来ればよかったな」  流路は顔を綻ばせて天音の方を見る。 「うん。なんか、いい会だな」  平日の真っ昼間だが、青空の下、農家の収穫の手を休めた大人たちがみな笑顔で今年のもろみワインや醸造し終わったワインを飲んでいる。たしかにつまみは角煮だの肉じゃがだのかぼちゃの煮物だのカレーだのと、妙に所帯染みたものがたくさん並んでいたが、さすが長年家庭の料理を担っている奥様方が作った料理は流路の洗練された料理とはまた違った美味しさだった。  天音ももろみワインが注がれたグラスを渡され、口を付けた。すっかり醸造されたワインと比べて、まだ発酵が始まったばかりのそれは甘味が残っていてフルーティでカクテルのような味わいだった。「美味しいですね……!」と思わず感嘆の声を出すと拓実の父親が「そうだろう、そうだろう?」と言ってにこやかに笑った。  外から来た若者が珍しいのか、次々と参加者に話し掛けられては無難に受け答えしていると、いつのまにか流路と澤木がいなくなっているのに気付いた。  あ、と天音は思う。もしかして、いよいよ澤木は告白するつもりなのかもしれない。  流路がOKすることなどないと分かっていても内心穏やかでは無かった。だが、どんどんワインを勧められてしたたかに酔っ払ってきてしまい、どうにでもなれ、という気分になってしまう。  参加者たちがほどよく酩酊状態になって来たころ、一人で戻ってきた流路に天音はそっと近付き、小声で尋ねた。 「流路……さっき澤木さんと抜けてただろ?……なんか、言われた?」 「ああ……やっぱり、その……。良かったら付き合ってくれないかって言われた。当然『ごめん』って言うしかなかったけど」と流路は俯いて答えた。 「……澤木さん、大丈夫そうだった?」 「うん。笑ってくれた。『無理だと思ってたから平気だよ』って。『気を遣わなくていいからまたみんなでどこかに行こう』って言ってくれたよ」 「そうか……」  澤木は帰ってしまったのか、そのあと姿は見えなかった。流路も周りの人々と話しつつもどこか浮かない顔をしていたし、天音も仕方ないとはいえ澤木のことが気がかりで、少し酔いも醒める心地がした。 「なんかワインも食べ物もたくさんもらっちまったな」  二人は何本かのワインといくつもの農家から貰った野菜やマスカットやら梨やらのフルーツ、タッパーに入れた煮物などを手土産に持たされ、また拓実に送ってもらって帰って来た。 「ほんとだね。もっと何か差し入れした方がよかったのかな」 「まあ、オレたちみたいな若者に何かしてやるっていうのがおじさんやおばさんたちの生きがいなのかもなあ。子供や孫たちは外に出てった人が多いし」 「そうなのかもな。遠慮せずに甘えてあげる方が喜ばれるのかもしれないよな……」 「ああ。本当によくしてくれて助かるよ」流路は冷蔵庫にもらったものを仕舞いつつ言った。「オレ、家族と折り合いがあんまり良くなかったからさ。ここの人たちって親族でもなんでもないのにちょっと親みたいな感じがしちまうときがある」 「流路の家、厳しそうだったもんなあ」  天音は昔、専門学校に行くのを諦めたときの流路の憂鬱そうな顔を思い出した。 「そうだな。父親があんまりにも『まっとうな道を行け、料理人なんて不安定な仕事に就くな、お前ならエリートになれるんだから』ってうるさくてな……。オレが新卒で証券会社に就職したら『ほら、普通に働いて普通に結婚して普通に子供を作って生きるのが一番いいんだ』って言うからさ。頭に来て『残念だったな、オレは男が好きだから父さんの希望を叶えてやることは出来ないよ』って言っちまった」 「え?流路……。親に伝えてあったのか?」  天音は驚いた。流路の親は息子が同性を好きなことを認めるようなタイプじゃないと思っていたからだ。 「うん。まあ売り言葉に買い言葉みたいな流れでだけどな。親父、真っ青な顔してた。『嘘を吐くな、女性が嫌いなわけじゃないんだろう?』って言うから『あいにく男しか好きになったことないよ』って答えたら、殴られた」 「ええ⁈本当か?」 「うん。その頃は一人暮らししてたけど、年末年始やお盆にはさすがに家に帰ってたのに、それからは帰らなくなった。最後に会ったのは会社を辞めるっていう報告をしに行ったときだよ。苦虫を噛み潰したみたいな顔してたけどね、父親は。オレにはもう仕事も結婚も期待できないんだからしょうがないのかもしれないけど。母親は父親の剣幕におろおろするばっかりで、オレの味方にはいつもなってくれないんだよな……」 「そうだったのか……」 「だから、もう帰れないんだよ、家には。いつか、また両親と会うときが来るのかな……」  その声はいつになくか弱く聞こえて、天音は堪らない気持ちになった。 「流路……」天音は流路に近寄り、冷蔵庫の前に膝を立てて座っていた彼の背中を抱きしめた。「そうだったんだな。俺、お前が寂しいことに気付いてやってなかった。ごめん」 「天音……」  振り向いた流路の唇に唇を重ねる。誰に対しても常に感じが良く、充実感に溢れているように見えた流路の心の奥にまた触れた気がして、天音はもっと彼のことを知りたいと思った。関係は深まったが、まだまだ知らないことがたくさんある。与えてもらうだけじゃなくて自分からも何か返してやりたい。今はこうして一緒にいることしかできないけれど。

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