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第11話

 月曜と火曜を休みにしていたが、水曜に店を開けるとやはり随分と客の入りは落ち着いた。忙しかった八月の半分くらいの忙しさだろうか。夏休みももうすぐ終わるせいか若い客は減り、また常連の年配の客たちが戻ってきていた。  近頃は天音は簡単な調理なら任せられるようになっていた。といっても具材を炒めてから流路が既に仕込んであるパスタソースを絡めるだけというような、簡単なものだったが。  天音はキッチンの中からカウンターの向こうを見渡した。窓からは午後の穏やかな陽が差し込み、注文したものを待つ客たちはみな浮き立つような顔をしてあれやこれや話している。珈琲の香りと唾液を促すような料理の匂いが店内に立ち込める。  それはもしかしたら〈幸福〉ってこういうことなのかな、と思わずじんとしてしまうような光景だった。  天音はどんどん店の仕事を覚えつつもまだ自分の心の中を決めきれずにいた。このまま流路におんぶにだっこで、無責任なバイト感覚で働く程度のことでいいのだろうか。恋人というのを言い訳にするようでそれはそれて気が引けるのも確かだった。かといって、やはり自分も今はどうしようもなく流路に惹かれている。    都会とは違う、電車の駅に出るまでも車で三十分は掛かるようなこんな閉ざされた場所だからこそ、男同士で付き合うという今までだったら非日常的なことに自分はその気になっているのではないか?と何度も心に問いかけてみた。それは流路の元彼の崇史にも言われたことだ。けれど、火がついた恋心はなかなか消えそうにはない。  都内のマンションも放ったらかしだし、ここに居続けるなら引き払わなくてはならない。冷静さと流路への気持ちとの間で日々、天音は行ったり来たりしていた。  夜はまた天音は流路のベッドで眠るようになった。流路がシャワーを浴びている間に先に眠ってしまうこともあったし、期待していたのに流路の方が天音に触れる手を止めて寝入ってしまうこともあった。  今までの恋人ともこうしてベッドの中で抱き合って眠ることなんてあったはずなのに、そのときは自分は男なのだから彼女をリードしなければ、守らなければという気持ちが先立っていたせいか、今、流路の腕にくるまれて眠るような安心感は感じたことがなかった。男性的な匂いがする胸の中で逞しい腕に包まれて、まさかこんなに穏やかな気持ちになるなんて知らなかった。  けれど、幸せを感じるようになるほど少しずつ不安は膨らんだ。流路の寝顔を見ると、天音をさながら抱き枕のように腕に抱え込んで完全に力が抜けたような顔で眠っている。それは普段、常連客や澤木に見せるような大人の男の顔とはまた違った。そんな流路を見つめていたら、  ――愛してる。  ふとそんな言葉が胸の中に浮かんでしまって、天音は一人で動転し、誰も見ていないのに恥ずかしさでいっぱいになって毛布を頭から被った。今までどんな人にだってそんな感情を持ったことなどなかったのに、それを、友達だったはずの流路に対して想うようになるなんて。  しばらくそんな穏やかな日々が続いたから天音はすっかり忘れていた。人をひとり、傷つけていたということに。  来週には十月に入るというその日もランチの時間が終わると客は一斉にいなくなった。  都内ではまだ日中は暑いようだが、瑞坂町は秋を迎えつつあった。山の木々はぽつりぽつりと黄色や紅に染まり始め、遠くの標高が高い山の上には薄っすらと白い雪が積もりはじめている。 「すっかりまた暇になったなあ。まあ、夏休み中だけのバブルだったのかな」  流路は腕を組みながらさほど残念そうでもない口調で言った。 「そうだな。ここは避暑地なんだから、また来年の夏頃には忙しくなるんじゃないの?」 「そうだなあ。ま、十二月までこのままのらりくらりとやろう。また来年のことは冬の間に考えような」 「……うん」  流路は天音がこのままここにいるのを疑ってもいないみたいだった。天音は迷いを口に出すかどうか迷っては止めていた。 「あのさ、流路……」 「ん?」  流路の茶色というよりは榛色に近い色の、穏やかで優しい瞳に真っ直ぐに見つめられて、天音はグッと胸を詰まらせる。  だからつい「あ、ううん、……後でいいや」と、また先送りしてしまった。 「……そうか?」  流路は微笑み、天音も少し笑顔を返した。  簡単に昼食を済ませ、テーブルとキッチンを片付けると十五時を過ぎた。辺りには大きな鳥の鳴き声が響き、遥か遠くの方を走る車の音がするだけだ。日中はまだ穏やかな温かさがあるが、これくらいの時間になると急速に空気が冷えてくる。  半袖のTシャツではそろそろ寒いかな、と思いつつ天音は外の掃き掃除を始めた。種類によっては気の早い木々が、風に煽られて続々と葉っぱを落とし始めている。  しばらく遠くの山の端を眺めたりしながら葉を集めていると、キイ、と音がして流路が外に出てきた。 「天音、寒くないか?」  わざわざ二階から持ってきたのか、近付いてきて紺色の仕立てが良さそうなカーディガンを肩に掛けてくれる。 「……ありがと」  天音は流路の顔を思わずじっと見た。 「ん?どうした」 「流路って、気が効くよなあ」 「……そう?恋人としてはこれくらい当然じゃないか?」 「俺、今まで誰かと付き合ってきてこんな風に相手にしてあげられてたのかな、と思って不安になるよ。自分のことばっかり優先して相手のひとのことなんて思い遣れてなかったかも」 「天音は優しいよ。たぶん、無意識に相手のひとにも気配りしてたと思う。……けど」  言葉を止めると、ふわりと流路の腕が背中から天音を包み込んだ。 「わ、こら、流路、ここ外だから……!」 「もう誰も来ないだろ。車が来たら分かるし」 「けどっ……」 「……オレ、天音が女の人と付き合ってたことなんて当然承知してたし、そんな過去のこと今さら気にしないと思ってたけど……。なんか、今、嫉妬した。天音が、優しくしてたかもしれないそのひとに」 「……そのひとと、流路とは全然違うし……。たぶん、俺の態度も全然違うよ」 「オレに対してはどういう態度?」 「流路は……」  流路といると、今までの自分が嘘を吐いて生きていたような気分になる。今までの恋人との関係、友達との関係、親との関係――。  どれとも違った関係性が流路との間に生まれて、そして生まれて初めて味わうその感情にずっと戸惑っている。  流路の腕にすっぽりと包まれたまま天音がどう言葉を紡ごうか考えていると、少し離れたところで突然、がしゃん、という音がした。  ハッとして二人が目をそちらに向けると、カフェの敷地に入ったところに澤木が立ち尽くしていた。足元に何か大きなものが落ちて、それが音を立てたようだった。 「……澤木さん」  流路は天音からゆるゆると腕を離し、天音は目を見開いた。すると、足元の荷物を拾って、砂利を踏む音を立てながら、つかつかと澤木がこちらへ歩いてくる。  澤木は少し離れたところで足を止めた。 「……ごめん、見ちゃった」 「澤木さん……」 「あのね、〈森の音〉の方に曲がる道の入り口で近所の人の車が脱輪してて――今、もう助けを呼んでるから大丈夫なんだけど、私の車、ここまで入って来られなかったの。だから、道の脇に駐車して歩いてきて……。お父さんに『ワイン会のときの食器を如月さんに返し忘れたって中山さんが言ってたからついでがあったら返して来てくれ』って頼まれててね。空いてる時間だろうから珈琲でも飲もうかなと思って来ちゃって……」 「澤木さん、あの。分かったと思うけど……」  流路が真剣な瞳で澤木を見つめ、天音は隣からその横顔を見上げて唾をごくりと飲み込んだ。 「……分かった。二人、付き合ってたんだね?ぜーんぜん、知らなかった……。佐々乃くんに相談とかしちゃって、私、馬鹿みたい」 「……っ、澤木さん、ごめん!俺、あのとき――」 「私が如月くんのこと好きなの、知ってて二人とも笑ってた……?」 「いや、そんな……澤木さん……!」 「そんなわけ、ない……!ごめん、オレがはっきり言わなかったから――」 「バッカみたい、私……。二人きりで会えなくてがっかりしたり、こないだワイン会でやっと会えたからって告白とかしちゃって……。私なんて、完全に如月くんの眼中になかったのに。……けど、二人ともどうするつもり?ずっと、この先も二人でこの店、続けて行くの?」 「……もちろん、オレはそのつもりだけど」  流路はきっぱりとした口調で言った。  天音はオロオロと成り行きを見守ることしかできない。 「へえ。こんな田舎で?『男同士で、変わってるね、二人とも。恋人はいないのかな』って、おじさんたちもおばさんたちもいつも噂話してるわ。あの二人みたいな人が瑞坂町の若い女の子と結婚して、子供たくさん作ってくれたら助かるのにねえ、って」 「……そうだね。いつも、そんな風に言われてるよ」 「それなのにさ、当の二人は男性同士で恋愛してたんだ?そんなの、この町の人が理解できると思う?『男同士だけど付き合ってます』って。『結婚は誰ともしないけど仲良く二人でカフェやって行きます』って、あの人たちにそんな現代的な発想はできないよ?あなたたち、きっと非難されると思うけど?」  普段とは全く違う澤木のとげとげしい物言いと挑むような表情に、天音は澤木の気持ちが思っていたよりもずっと強かったのだということを知った。もっと、澤木の気持ちも考えて振る舞うべきだった。しかし、後悔してももう遅かった。  そして、天音は流路が町の人々から白い目で見られたり批判されることだけはどうしても避けたかった。 「……澤木さん、あの。俺はもう、東京に帰ろうと思ってたんですよ、そろそろ」  そう切り出すと「え……?」と流路が驚いた顔でこちらを見たが、天音は澤木を見て続けた。 「だから……その、恋人みたいな間柄とかじゃなくて。ちょっとこんな……周りになんにもない場所に二人きりでいたら、つい気持ちが盛り上がっちゃったっていうか……。たいした関係じゃないんですよ、俺たち。そろそろ俺も東京に戻って就活しなきゃいけないし」 「天音……?」 「だから、俺はいなくなるんで……流路のこと、大目に見てやってもらえませんか。こいつ、気ままに生きてるヤツだから、結婚とかが考えられないみたいで……。瑞坂町の人たちと仲良くしながら、のんびり店をやりたいみたいなんですよ」 「佐々乃くん……本当に?如月くんとは……付き合ってるわけじゃないの?」 「ええ。俺は元々女性と付き合ってましたし……。そうだ、エミさんとも連絡先交換しましたし、都内に帰ったら連絡してみようかな、なんて思ってたんです」 「そう……?そんな風には、さっきは見えなかったけどな……」  訝しげにこちらを見つめる澤木を真っ直ぐに見ることが出来なくなって天音は目を逸らしたが、それでもなんとかして笑顔を作って再び顔を上げた。 「……だから。これからも、流路のこと、よろしくお願いします」 「……分かった。ごめん、これ……鍋、さっき落としたから傷ついたかもしれないけど……」  澤木は大きな布に包まれたパエリア鍋とタッパーを流路に向かって差し出した。 「……ああ、わざわざありがとう」 「うん。……じゃ、また来るね」  そう言ってくるりと澤木は踵を返し、小走りで遠ざかって行った。  澤木の背中を見送って無言で立ち尽くしていた二人だったが、やがて流路が口を開いた。 「……天音。さっきの本当か?本当に……東京に戻るつもり?」 「うん……。迷ってたんだ、俺。帰るよ」 「そんな、天音……。澤木さんにあんなこと言われたからか?イヤだよ、オレは……!」 「……そう言うなって。本当に俺、ここのところずっと迷ってたんだ。このままじゃいけないよな、ってさ」  そう言って振り返ると、流路の瞳は見たことのない色になってゆらゆらと揺らめいていた。胸がずしりと重たく詰まったが、奥歯を噛み締めて平然を装った。 「だから、一旦、帰るわ。もう店も暇になったもんな」 「だけど――っ……」  そのとき、天音のスマホがポケットで着信を告げた。友人や知人にはしばらくY県にいると伝えてあったし、こんな夕方に電話が掛かって来ることは珍しい。 「あ、ごめん。ちょっと出るよ」天音は流路の前で手を上げて制すようにして「もしもし」と電話に出た。 『もしもし?天音?あんた、こないだメールしたとき東京にいないって言ってたわよね。今、どこ?』母親の声だった。 「え、今……まだY県にいるけど。友達んとこに世話になってて」 『ねえ、お父さんが急に手術受けることになったのよ。今、病院から電話掛けてるの』 「え、手術?なんで……」 『最近、なんだかお腹が痛いって言ってたのよ。あの人、病院嫌いでしょ?だから、胃薬とか飲んで誤魔化してたんだけど……今日、急に会社で苦しみ出して救急車で運ばれたんだって。腹膜炎を起こしかけてたみたいで……』 「え……それで、大丈夫なわけ?」 『それ以上放っておいたら危なかったみたいだけど、受け入れてくれる病院がすぐ見つかって、割とスムーズに手術室に入ったから多分大丈夫だろうって、看護師さんは言うんだけどね』 「……分かった。一度戻るよ」 『そうしてくれる?まあ、終わったらピンピンしてるかもしれないけど、まだ時間掛かりそうなの。中野区の内田橋病院てとこにいるから』 「分かった。何時間か掛かるけど、また連絡する」  天音が通話を切ると「お父さん……大丈夫か?」と話が漏れ聞こえたらしき流路が心配そうな顔でこちらを見る。 「ああ、たぶん……。けど、ごめん、やっぱり一度、家に帰るよ」 「うん。店のことはなんとかするから……」 「……ああ、ごめんな。確か、明日以降もちょいちょいランチの予約、入ってたのに」 「いや、いいよ。誰かに連絡して手伝ってくれる人、探してみる」  流路は他にも何か言いたげだったが、天音は「じゃ、ごめん。ちょっと俺、急ぐわ」と言って足早に居住スペースの方の扉に向かい、ゲストルームに入って荷物を纏めた。といっても、あるのはこちらで買った洋服くらいで大したものはなかったのですぐ済んでしまった。  迷ったが着替えの洋服類はとりあえす置いて行くことにして、ここに来たときに持ってきたトートバッグに必要なものだけ詰めた。  階段を降りると、流路がそこに佇んでいた。 「天音……また戻ってくるよな?」 「……うん。また」  天音は立っている流路の肩をぽん、と叩くとスニーカーを履いて玄関を出た。一緒に出てきた流路が扉の外で立ち尽くしているのが分かったが、振り返らずに車に乗り込む。  道へ出る方へハンドルを切ったとき、まだ玄関の前にいる流路に天音は軽く手を上げた。流路は置いていかれた子供のような、不安げな表情をしているように見えた。けれどミラー越しに目が合うと、口角をキュッと上げて、そっと小さく手を振った。  ――そう、いい機会なんだ、きっと。  空いている高速で車を走らせながら天音は自分に言い聞かせた。  流路も天音も二人きりの閉ざされた世界でやたらと盛り上がっていた。けど、澤木にああ言われて少なからず天音は動揺した。やはり、世間から見れば自分たちの関係は普通だとはなかなか思ってはもらえないのだろうと。  そして、自分はまだ外の人間だからいいけど、すっかり瑞坂町の住人になった流路のことは守ってやりたいとも思った。  少し頭を冷やして考えよう。自分がどうしたいのか。二人にとって、何が正解で、こらからどうしたらいいのか。  ろくに休憩も取らずに車を走らせると、十九時を少し回った頃には病院に着いた。ナースステーションを訪れると、手術は無事に終わったらしく一般病棟の個室に既に入っていると言われ、やはり気が張っていたので安堵の溜め息が漏れた。  教えられた病室の前に行って小さくノックすると「はい、どうぞ」と母親のよそ行きの声が聞こえる。ガラ、と扉を開けると「あら、天音じゃない、思ったより早かったわね」と笑った。 「どう、父さんは」 「うん、ちょっと時間かかったけど一時間くらい前に手術は終わってね。まだ麻酔から醒めないけど……」 「そっか。無事なら良かった」 「うん。というかあなた、一体最近、何やってたの。会社辞めたって言うからてっきり就職活動してると思ったのに」 「うーん、ちょっとね。友達が田舎でカフェ始めてさ。しばらく居候してたんだ」 「へえ。で、もうこっちに帰ってきたの」 「……うん、まあ」 「ちゃんと働きなさいよー、まだまだ若いんだから」 「うん、分かってる」  穏やかに眠る父親の顔をしばらく眺めていたが、まだ目は覚めそうにない。 「ちょっと、飲み物買ってくるわ。母さん、何か欲しい?」 「私はさっき飲んだからいいわ、ありがとう」 「じゃ、ちょっと行ってくる」  病室を出た天音は人気のない待合室に行って座り、迷ったものの流路にメッセージを打つことにした。父親のことがあったとはいえ急に出て行ったことを心配しているに違いない。  しかし、何をどう打っていいのか分からなかった。何の心の準備もせずに戻ってきたから、あの自然に囲まれたカフェの中で起こったことは全部夢のようで、車が都内に近付いたころには、急に魔法が解けたような気持ちになってしまった。それは〈森の音〉に向かう前の生活にすっかり戻ってしまったかのようだった。  しかしスマホに表示された流路の名前を見たら、帰り際、いつになく彼が瞳を揺らし、不安げな表情をしていたのを思い出した。  澤木さんはあんな風に悪態を吐いていたけど、根は明るくて優しい人なはずだ。きっと流路のことが本気で好きだったから、感情が昂ってキツいことを言ってきたのだろう。怒りに任せて周りの人に流路と天音のことを吹聴するような人ではないはずだ。  明日も確かランチの時間に予約が入っていた。店は大丈夫だろうか。そう思うとさすがに何もかも――店のことも流路の気持ちも――放ったらかしにして出て来てしまったことに胸がざわつく。  頭を冷やすいい機会なのだ、そう再び自分に言い聞かせる。  流路との関係が思った以上に深まってしまい、恋愛感情が自分の身体を、心を支配して、これから先の自分の生き方が分からなくなってしまっていた。  本当に〈森の音〉に留まりたいのか、それともちゃんと自分の人生を仕切り直して、こちらでまた新しい仕事を探すべきなのか。きちんと考えなければ。  ソファに座って考え込んでいた天音は胸の前で腕を組んで、そのとき初めて流路が肩に掛けてくれたカーディガンをそのまま着てきてしまったことに気付いた。 病院の中の空気はよそよそしく冷え冷えとしていたが、カシミヤ製らしき肌に心地の良いカーディガンからはほんのりと流路の匂いがして、天音を包んでくれている気がした。そして思い切ってメッセージを打ち始めた。 【流路、急に店を離れることになってごめん。父は手術も無事終わって大丈夫そうですが、しばらく入院するかも。いい機会かもしれないから、お互いにこれからのこと、もう一度考えてみないか。しばらく俺も考えてみる。また連絡するよ】  さんざん考えたあげく出てきたのは字面だけではどこかよそよそしくも見える、そんな言葉だけだった。  流路が好きだ。それは間違いない。けれど、自分はまだまだ他所者だが、流路がせっかく築き上げたあの瑞坂町での人間関係や仕事が自分がいるせいで揺らいでしまうかもしれない。澤木に言われたこと――あの町の人には二人の関係は理解されないし、非難されるはずだ――というのは、的外れではなく、おそらくそれが当然のことなのだ。  あの時間が止まったみたいな長閑な町で、男同士で好き合ってる、と言ってすぐに受け入れられる人がどれくらいいるだろう。天音にはまだ帰る場所があるが、流路にはない。もう、流路にとってはあの町がふるさとみたいなものなのだ。せっかく流路が見付けた居心地の良い場所を奪いたくはない。  天音が考え込んでいると、ブル、とスマホが震えてメッセージが返ってきた。 【分かった。気持ちの整理がついたら教えて】  天音は澤木の興奮を鎮めるために流路とはたいした関係ではない、ということをことさらに強調した。そのあともフォローもせずに出てきてしまったから、流路は天音の気持ちが本当はさほど真剣ではなかったのだと感じたかもしれない。 (このまま、別れるのが正解なのか?)  自分は元々は女性が好きだった、はずだ。だから、このまま会わなくなれば――流路とのことは澤木に言った通り〈つい気持ちが盛り上がってしまって、そういう関係になっただけだ〉と思えるようになるだろうか。  その日は母親と交代で父親に付き添って病室に泊まった。翌日の午前中、目覚めた父親の無事を確認すると、天音は何ヶ月かぶりに自分のマンションに戻った。  玄関を開けると数ヶ月間も閉じ込めていたムっとした澱んだ空気が天音を包み、慌てて全ての窓を開けた。借りっぱなしになってしまったカーディガンをきちんとハンガーに掛けると、ハッと気付いて冷蔵庫を開ける。  まさかずっと瑞坂町にいることになるとは考えていなかったから、冷蔵庫の中には卵や牛乳が出て行ったときと同じ状態で入っていて、しまった、と思う。こわごわ野菜室を開けると、どうやら以前はもやしだったものらしき液体の入った袋が目に入ってげんなりした。 「あーあ、ダメだな……」天音はひとりごちた。  何の計画もなく〈森の音〉に向かって、流路に真っ直ぐに気持ちをぶつけられて、その先のことを何も真剣に考えてもいないくせに、さんざん甘やかされて居心地の良さに流されて。そのまま三ヶ月もの間、あの町で暮らしてしまった。  ベランダに出るとすぐ目の前には天音のマンションよりは少し低いビルの屋上が見え、その向こうには都心の高層ビル群が広がっている。 (ああ、全然違う景色だ)  瑞坂町では眼前には見渡す限り木々が広がり、その向こうにはまるで町を取り囲んで守っているかのように山々が見えた。その圧倒的な大きさに天音は何度も息を呑んだものだった。  ビルを見ていたらグッと喉が詰まる気がした。また都会の喧騒の中に戻れるのだろうか。あんな桃源郷みたいな町にいたから、こんな歩けば人とすぐ肩がぶつかり合うような場所で生活することの方が不自然に思えてきてしまう。  けれど、目を覚まして現実に戻らなくてはいけないのかもしれない。自分は終わった夏休みを惜しむ子供なんかじゃなくて大人の男なのだ。天音は片付けもそこそこにノートパソコンを開き、転職サイトにログインしてみた。 (また、まっとうに働いてみるか。ちゃんと出来るかは分からないけれど……)  勢いのまま転職サイトで検索し、前職と同じ広告業界の数社にエントリーシートを送ってみた。まだ年齢も若いし、それなりに広告業界の経験も積んでいるから、きっとどこかの会社は拾ってくれるだろう。  働いてみて、それでも流路のこともあの町のことも忘れられなかったら。そしたら――。

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