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第13話

 それから、また何度イかされたか分からない。気付いたら辛うじて腕に絡まっていたシャツは脱がされていて、毛布だけ掛けられてベッドの上で眠りこけていた。  一人暮らしのマンションの、申し訳程度の広さのキッチンの方から何かを調理するような音と匂いがしてきて、思わず鼻をひくつかせる。ここのところ忘れていた食欲が引き出されたのか、腹の中が急にぐう、と鳴き始めた。 「……流路……?」  ここ、どこだ?東京の家だ。  ウチになんで流路がいるんだっけ。これって夢じゃないよな。天音は大きな身体が小さなキッチンを占領している違和感に目をしばたたかせた。 「起きたのか、天音?」  振り返った流路の顔を見て、(あ、夢じゃない)と急に頭の中のチャンネルがぱちりと切り替わった気がした。 「なんか、作ってるの……?」 「天音がぐっすり寝てるからその間に買い物行ってきた。腹減っただろ?ちょっと待ってな」 「うん……」  それほど長いあいだ離れていたわけじゃないのに、聴き覚えのある流路のリズミカルな包丁の音を聴いて、懐かしさに少し泣きたくなった。  蓋を被せた鍋と皿をトレイに載せて、流路がベッドの上で身体を起こした天音に近付いてくる。 「あれ、どうした。また泣いてるのか?」 「ちが……っ」  否定しようとして目尻を触ると指先が濡れて、自分は泣いていたのだと分かった。 「天音は、案外泣き虫なんだなぁ」  流路は笑顔になって親指の腹で天音の目元を拭う。  「なんだよ、子供みたいに言うなよっ……」 「だって、可愛くって」  そう言うと流路は天音の瞼の上からペロリと舌で涙を舐めとった。 「わっ、やめろって……」 「泣くほど、オレに会いたかった?」  悪戯っぽい顔で言われて、憎まれ口で返そうと思ったのに、 「会いたかった……」  と、素直な気持ちが唇から零れていた。 「うん、オレも、すごーく会いたかったし、抱き締めたかった……」  流路の長い腕がすっぽりと毛布の上から天音を包み込み、圧倒的な安心感で目からまたじわじわと涙が滲み始めた。  本当に、子供みたいだ。こいつといると、気を張っていた気持ちが難なくぐすぐずに解かれてしまう。    サイドテーブルの上に出されたものは、バゲットとチーズを浮かべたオニオングラタンスープと、ハムとトマト、チーズを挟んだホットサンドだった。 「……美味しい」  しみじみと天音は呟いた。玉ねぎの甘みが溶け込んだスープにとろけたチーズと形の崩れたバケットが絡み合い、このところ空腹を感じても何も受け付けなかった胃袋を優しく満たした。 「本当はもっと長い時間、玉ねぎを炒めるんだけどなあ。今日は時短レシピだから、今度ちゃんと作ってやるよ」 「充分、美味しいよ。けど、ホットサンドメーカーがあることなんて忘れてた。よく見つけたな」 「うん、棚を開けたら新品みたいな箱があったから使ってみた」 「誰かの結婚式の引き出物のカタログで貰ったんだよなあ。いつか食パン買ってきて作ろうと思ってたのに、忙しかったから忘れてた」 「持って帰って、店で使おう」 「……俺、帰ってもいい?」  天音が尋ねると、流路はきょとんとした顔をした。 「当然、天音を連れて帰れるものだと思ってたけど。来ないの?」 「……行く」 「だろ?」  流路は笑って天音の頭をくしゃくしゃと撫でた。 「……流路って、俺のこと甘やかし過ぎ。知らねーぞ、俺がお前のお荷物になっても」 「上等だよ。いくらでも甘えればいい」 「……バカなんだから」 「唯一、天音のことに関してはね。コントロールが効かないんだ」 「……悪かったよ。急にヘンな感じで出て行って」 「いや。オレもすぐに追いかけられなくて、悪かった。やっぱり少しだけビビってたのもあったし……。なあ、澤木さんは誰にも言わないからって言ってたけど、やっぱりそのうち他の人にも知られるときが来ると思うんだ。そのときは……もし、認めてくれない人の方が多かったら……。また、探そう。二人で、心地よく生活できる場所を」 「いいのか、それで?瑞坂町は流路にとってもう故郷みたいなもんだろ?」 「うん。けど、今はもう、天音が傍にいないと、意味ないから。どんなことをしても、どんなところでも、天音と一緒にいたい」 「モノ好きだなあ、流路は」 「天音は、違う?オレと……離れても平気?」  流路の大きな手のひらが天音の頬を覆う。 「違わない。平気じゃない……」  手を流路の手に重ねると、もう片方の手が伸びてきて、顔をそっと包み込まれる。唇がふわりと重なった。 「じゃ、帰ろう」 「うん……」  こいつには敵わないな、天音は思う。  優しくて包容力があるように思うけど、なんだかんだ言って流路の思い通りに天音の心は支配されて、転がされていた。甘美で柔らかな束縛と執着。でも、それが不快に思えなくて、寄りかかって、どこまでも甘えたくなってしまっていけない。  とっくに自分は駄目になっているかも。けど、その駄目なところだって、きっと流路は笑って受け入れてくれるのだろう。  流路は翌日の火曜の夕方には天音のマンションから瑞坂町に帰って行った。  発つ直前、さんざんその前の日から抱き合ったというのに、玄関で唇を合わせると『まだ足りない』というように流路の舌が口腔内に入り込んで来て上顎を舐め、胸を、下半身をまさぐられた。 「ちょ、流路っ、もう行くんだろ……」 「したりない……。天音、早く帰って来てくれよ」 「あ……。んぅっ、分かったからっ……!」  天音はぐずぐずと溶け出して床にへたり込みそうな自分を必死でなんとか立たせた。ここでまたしてしまったら永遠に流路を送り出せないような気がしたからだ。 「すぐに、行くから……」 「約束だぞ」  流路はキュッと小指を天音のそれに絡ませると、名残惜しそうな顔をしてドアを開けて出て行った。パタン、とドアが閉まるのを待って、天音はその場に座り込んだ。  ――ああ、こんなんじゃ、持たない……。  今別れたばかりなのに、またすぐ会いたくなっている。このままエレベーターホールまで追いかけて行って、そのまま流路について行って、あの町に帰りたい。  会わない間、きっとあの幸せな日々はあのときだけの儚い夢みたいなものだったのだ、と半分言い聞かせようとしていたのに、流路の顔を見た途端、そちらの生活の方がリアルだったのだということを思い知らされたようだった。今となっては何故流路のことを忘れられるかもしれないと一瞬でも思うことが出来たのか分からないほど、身も心も、すっかり流路とあの町に甘く囚われていた。  だけど、とりあえずこの街を出ていく準備をしなければならない。もうしばらくは離れ離れの生活が続くのだ。  まだ入院が続いている父親と付き添っている母親に会いに行き、これからは瑞坂町でカフェを共同経営して過ごす、と自分の意思を固めるためにも宣言した。 「カフェって……そんな田舎でやっていけるものなのか?冬は閉めるんだったらその間の稼ぎはどうする?」  案の定、父親はまだ若い天音が山あいの町で飲食店をやるなどと、夢物語のようなことを言うのを聞いて眉間に皺を寄せた。 「……大丈夫。オーナーをやってる友達は他にも稼ぎがあるし……。俺も、冬の間はフリーランスで出来る副業を考えるよ。今はパソコンさえあれば仕事は出来るし、せっかく広告代理店みたいなところにいたしさ、フリーでマーケティングとかちょっとしたコンサルみたいなこと、出来るかもと思って」 「フリーランスなんてそんな甘い世界じゃないぞ?ちゃんとアテはあるのか?」 「うん、まあ、会社の知り合いにまずは当たってみるよ。最初は小さい仕事からやるさ。まあ、田舎の町だからそんなに金を使うこともないしさ、心配しないで」  その言葉に心配を隠し切れない顔をしつつも、両親は頷いた。  さすがに術後間もない父親に向かって、カフェ経営をやること以上に衝撃を与える話題――実はそのオーナーと付き合っているということ――は言いにくくて先送りしてしまった。  いつか経営が安定して、冬の間の生活の目処も着いたら。そして父親がすっかり回復したら。きっとそのときは、父と母に流路のことを伝えようと思った。    面接を受けた数社の半分ほどからは内定の通知が来たのだが、『他の会社に決まったから』と言って全て断った。少しもったいない気がしないこともなかったが、以前のように会社員として身を粉にして働くことはもう自分には出来そうにないと思った。  マンションを引き払う日、ベランダから空を見上げて、もうこの街には当分戻って来ないのかもしれないなと感慨に耽っていると、スマホが着信を告げた。  昼下がりのその電話は流路かな、と思ったら見知らぬ番号だった。引越し業者だといけないと思って応答ボタンを押す。 「もしもし」 「あ、佐々乃くんの電話で良かったですか?」 「え、どちらさま……」 「あの……僕です。高岡です」 「……ああ!」  それは、天音が会社を辞める原因となった高岡だった。しばらく会っていなかったし、まさか電話を掛けてくるとは思ってなかったので驚いた。 「どうしたんですか、先輩?」 「……いや、知り合いから……。佐々乃くんが田舎に引っ越すって話を聞いてさ。それで君が、フリーでマーケターとかコンサルみたいな仕事をやろうとしてるって聞いて……」 「ああ、そうなんです。カフェ経営の副業でやるつもりなので、それでガッチリ稼ごうと思ってはないんですけど……。カフェが暇なときの補填になるといいかな、なんて甘い考えですけどね」 「そうか……。本当に、佐々乃くんには…お礼を言っても言い切れないんだよ、僕は……」 「イヤだな、そんなこと言わないで下さいよ。あれは俺が勝手に言い出したことだし、会社に残ればまたそのうち営業に戻れる道もあったかもしれないのに、辞めたのは限界を感じたからですし……」 「そうか……。ありがとうな。なあ、もし君に頼めそうな仕事があったら僕からもお願いするよ。取引先にも紹介するし、知り合いのツテも当たってみるから」 「ありがとうございます。でも、あんまり気を遣わないで下さいね」 「いや、少しくらい恩を返させて欲しいんだよ、こっちだって。じゃ、絶対に仕事、回すからさ。また連絡するから、この番号登録しておいてくれよ」 「分かりました。ありがとうございます」  通話を切ると、またひとつ天音の心の重荷が外された気がした。高岡を恨む気持ちなど全く無かったが、逆に高岡に後々まで尾を引くような負い目を背負わせてしまったかもな、という気持ちもやはりどこかにあったのだ。  それから引越し業者にほんの十箱程度の段ボールを運び出してもらい、大きな家具やベッドは有料で引き取ってもらった。すると、あとは身一つで出ていくだけになった。  あのとき葉書が届かなかったら――流路とはきっと二度と会うことはなくて、流路がずっと今でも天音を好きだったことだけでなく、天音もまた流路のことが刺さった棘のように、ずっと心のどこかでちくちくと存在を主張していたことに気付かなかっただろう。  そしたら――普通に再就職して、誰か女の子とまた付き合って、特に疑問も持たずに結婚したりしていたのだろうか。  天音は改めてこれは必然だったのか、それとも偶然だったのか――と流路との切れそうで切れなかった縁を不思議に感じていた。  高速で車を走らせている間、最初に瑞坂町に向かったときの、どこか高揚したような不安なような気持ちが蘇ってきた。あのときは久しぶりに流路と会ったら何を最初に言おうかと、ずっと迷っていた。けれど、その流路は今、天音が戻って来るのを待ち侘び、天音も早く流路に会いたくて気が急いていた。  瑞坂町に入って〈森の音〉に着いたら、まだ十八時を回ったばかりだというのにもう辺りは真っ暗だった。陽が落ちるのがすっかり早くなったのだ。ドアを開ける前から、都内よりもずっとひんやりとした空気が肌を刺す。  車を停め、外に出て、後部座席から荷物を取り、ドアをロックした途端、バタンと店の扉が開く音がした。  そちらを見遣ると、流路がこちらに向かって「天音……!おかえり!」と、大きな声で叫びながら走ってくる。  ああ、そんなに大声で呼ばなくても、と恥ずかしく感じつつ、けれど天音もいつしか「ただいま!」と山にわんわんとこだましそうなボリュームで応えていた。  駆け寄って来た流路の腕の中にすっぽりと包まれ、天音はギュッと流路のシャツの胸のところを掴んでもう一度「ただいま……」と小さく呟いた。  流路は何も言わず、こくこくと頭を縦に振り、ますます強く天音を抱き締めた。  帰って来た、と思った。嗅ぎ慣れた流路の匂いに包まれて、もうこの町と店が、いや流路こそが、自分の故郷みたいなものなのかもしれないと天音は思った。

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