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第2話

◇  暮瀬(くれせ)十宮(とおみや)の肩に手を置いた。俯い顔が持ち上がる。身長差ゆえに上目遣いになってしまう。その延長には吐気も否めない感激に似た疼きに息が(つか)えた。 「ただのやきもちだから、気にするな」  十宮はまだ、ファストフード店に視線を留めたままでいる。暮瀬は、ふ……と長い睫毛をわずかに伏せ、肩に置いた指が一度(たわ)んだ。だが一度だけ、一瞬のことだった。十宮を抱き寄せる。不思議そうに見上げる目に黙っていられなくなった。 「人混みだから」  そこは観光地の商店街の大通りであった。この商店街自体が観光地なのである。  結城(ゆうき)が単独行動を取りたがり、団体から離れ、幹事長である十宮も彼についていった。そして暮瀬も十宮を追った。辿り着いたのはファストフード店である。 「ゴメンな、暮瀬。でもありがとな」  抱き寄せているためか、余計に分かる。十宮は肩を落としている。 「いいや。これからどうする?」  行き交う人々の視線を浴びていることも暮瀬は気付かず、或いは構わず、その瞳は十宮だけを映し出し、炙り出し、その他の有象無象には大なり小なりブラー効果がかかっていた。  暮瀬薫は、人目を惹くような美青年であった。対峙すると息を呑むほどの、たいへんな美形であった。ただ部分々々のパーツの造形が整っているばかりではない。配置、割合の妙に加え、色が白く、肌理(きめ)も細やかで、華やかなのである。天は一物くれたならば、二物も三物も与えたくなるのだろう。骨格まで美しかった。小さな頭、長い手足、それらの映える背丈。濡羽色の髪まで艶やかなのは、天の下に平等公平などは存在しないことの顕れであった。  老若男女、どのような意図があるにせよ、注目しないわけはなかった。だが暮瀬も暮瀬で無頓着。あらゆる視線を受けたことで卑屈になってしまった。しかし豊かな日の光があれば雪は溶けてしまうように、彼の自虐的で卑屈な性格に光芒を突き刺す者に出会ってしまった。  奇異の眼差しが、今ではぼやけて、眼の持主さえぼやけている。焦点はひとつ。 「どうしよ。みんなと合流しても、なんか悪いし……せっかく付いてきてくれたのに、ゴメンな」  吊り気味の大きな目が鼈甲飴のようだった。十宮の頭を掴んで、舌先を伸ばし、その眼球を舐めそうで、暮瀬は自身が怖くなる。ふいと目を逸らしてしまった。 「別に、いい。付いてきたのは、俺だから……」 「このまま帰ろうかな。オレは」  成海(なるみ)綾舞(りょうま)は、この旅行を最も楽しみにしているのは十宮だと言っていた。そして暮瀬は彼がいるために参加希望を出した。 「でもそれも、綾馬くんに悪いもんな」 「十宮」  短く刈り込まれた髪を撫で回し、掻き乱したくなった。肩に置いた手を遠ざけておくので精一杯である。 「予定がないなら……っ」  喉が詰まる。心臓が苦しい。十宮以外他のすべてがぼやけているというのに、最もはっきりしたものから目を逸らす。 「ん?」  だが目を離しているということができなかった。十宮の顔を見る。人の好さそうな表情に、顔面をいきなり殴りつけられたかのような衝撃を受ける。心臓が高鳴った。胸が左右にぱんとはち切れそうなほど張っている。息が詰まる。苦しい。だが、せめてこの旅行の間は、素直になると決めた。十宮に冷たくしない。十宮を不快にさせたくない。十宮に楽しんでほしい。十宮の幸せを考えると、目の裏がじりじりと沁みてくる。 「す、少し……俺と、歩かない……か?」  肩に乗せてしまった手を、どう回収していいのか分からなかった。だがそろそろ放す頃合いだった。ぎこちなく浮かせる。さながら十宮を攫いにきた空飛ぶ円盤である。 「えっ!うん……!勿論(もち)!」  顎が緩む。言うつもりのない言葉が吐き出されそうなのである。呑み込まねばならない。胃酸であろうと。胃酸以上に。 「少し先にある寺なんて、どうだ」  観光地のパンフレットを開き、暮瀬は訊ねた。 「うん、行きたい」  (はしこ)い十宮は人混みを器用に掻き分けては、暮瀬を振り返る。いじらしい。健気だ。暮瀬は緩み切った紐みたいな顔をしていた。自覚した途端に引き締める。  言ってはならない、口にしてはならない、かけてはならない2文字或いは3文字がある。すでに喉を駆け上り、口蓋垂の辺りまで来ている。いずれは吃逆や(くしゃみ)のように、何らかの反射で発してしまいそうであった。 「オレ歩くの、速い?」  暮瀬は背が高かった。そして十宮は成人女性の多くよりは身長があろうとも、男性のなかでは小柄なほうであった。脚の長さにも差異が生まれていた。だがぼんやり、もしくは一点を見つめて歩く暮瀬よりも、新たな目的地に向かう十宮のほうが歩みは速い。まるで跳ねるような後姿に、暮瀬の胸は鷲掴まれている。息が苦しい。喉が締まる。 「いいや、速くない。先に行っていてくれ。追いつくから」  隣を歩いていたい。傍にいたい。そのためには言ってはならない言葉がある。だが口をついて、溢れこぼれそうなのだ。それならば後ろからでも見つめていたい。眺めていたい。 「うん。迷子に、なるなよ?」 「ああ」  ほんの少し、十宮の浅黒い顔に逡巡の色があった。彼を困らせるな。分かってはいるが、暮瀬は彼の歩幅に合わせられない。先に行かせるしかない。胸の中心が疼く。十宮しか見えない。その離れていく背中に、あらゆる欲望と願望と希望とを投げかけてしまう。  出会いは昨年。暮瀬は一人が好きだった。人間関係は煩わしい。仲良くなりかける人物も、いつからか欲を向けるか悪意を向けてくるのである。下心のある付き合いには応えられる器量もなかった。彼の居場所は大学の西キャンパス、人気(ひとけ)の薄れた新館の脇であった。PC会館とも呼ばれていたが、PCに用のある連中は主要な学舎の建つ東キャンパスの1号館に出入りしていた。  この西キャンパス新館脇にはベンチがあった。そこが暮瀬の特等席であった。北向きで、眩しくはないが、日当たりがいい。そこに鼻血を垂らした十宮が現れたのだ。  暮瀬にも気遣いや善意というものがある。ただ鼻を押さえているだけの十宮に、ポケットティッシュをくれた。 『それはやる。だから返さなくていい』  人が使ったポケットティッシュが気持ち悪くなってしまった。どこかに鼻血が付着したに違いない。  そしてそこに他者がいる状態で、落ち着けるわけもない。暮瀬はひとつ空けて座られるのも赦せず、腰を上げた。鼻血に対しては同情の念があるけれども、不合理なことに、場所を強奪された心地も生まれてしまったのである。  居場所を探しに構内を流離(さすら)う。他に落ち着ける場所といえば購買部前の飲食スペースや食堂、学生会館だが、昼飯時はどこも人が多く騒がしい。結局、早めに3限の講義が開かれる教室に向かった。  翌日か、翌々日だった。彼は悶々として決意した。何故、後から来た奴に場所を譲らねばならなかったのか。気にしないことにしよう。早い者勝ちであるはずだ。あの鼻血の人物は、何も暮瀬の居場所を奪おうとはしていなかったが、しかし彼の認識はそうであった。彼はその場を己の土地と勘違いしていた。誰にも渡さじと座っていると、不安因子が現れた。 『やった。やっぱ、ここにいた』  一瞬誰かと思ったが、人と接することの少ない暮瀬には、その顔を覚えておく容量もあった。小柄で浅黒く、活発そうで陽気なやつ。正反対な要素ばかり併せ持っている。白い歯が見えた。飲食時以外のほとんど、年柄年中マスクを着けている暮瀬とはそこも違う。 『なんだ』  この場所をまた奪いに来たのか。それとも、仲間内で嗤うための話の種でも見つけに来たか。ぼっち。根暗。男オンナ。有名人気取り。陰で何を言われているか、先回りをして知っているつもりになっている。だが、実際に耳にしたことはない。 『この前、ティッシュありがとな。マジで困っててさ。服、白かったし』 『大根おろし』  強奪者は、「え?」と吊り気味の大きな目を丸くした。 『血は、大根おろしで落ちる』  目も合わせずに呟いた。衒学(げんがく)的であった。だが雑学を(ひけ)らかすつもりはなかった。白い服に血が付く構図から大根おろしで血を落とせるという情報がふと連想されたのだった。そして埃を吸ったら咳が出るように、口にしていた。 『へえ!そうなんだ。血を柔らかくするってこと?だから和風ステーキって美味しいの?』  明日といわず、午後からは「知ったかぶり」という悪口のレパートリーが増えるだろう。いいや、いいや、課題、遊び、アルバイト、忙しい大学生に何故、取るに足らない奴の噂を差し込む暇があるというのだろう。  しかし、彼は己に向けられる視線を知っていた。マスクはそのためであった。何故か周りが放っておかないのだ。情報としてならば、彼は自身の下馬評を知っていた。つまり自分が美形であり、美男子であることを知らずにはいられなかった。嫌でも知ることになる。見られるたび、会うたび、顔を合わせたび、縹緻(きりょう)がいいだの、美男子だの、"イケメン"だのと言われるわけである。  だがその理想に応えられない!  そして虚しさが訪れるのだ。 『でもオレ、あのとき大根おろし持ってなくてさ。ありがとなってことで、コーヒー牛乳なら、みんな飲めるかなって……』  コーヒー牛乳が差し出され、暮瀬は簾代わりの前髪の狭間から、強奪者は南側を向けて輝いていた。太陽の光を浴びて、神々しく見える。口腔に酸素を突き込まれたように息を呑んだ。見詰めてしまった。だが即座に我に帰る。 『別に、要らない。ティッシュくらいで……』 『でも1コまるまるもらっちゃったから返すわ。オレのせいで鼻ずびずびしながら帰ったかも知れないじゃん』 『もう1つある』  ぴっ、とポケットティッシュをもう1つ出して見せた。  眩しい笑顔が、異質の笑いに切り替わる。不意を突かれた笑みである。芸人を見て嗤う、蔑視めいた嗤いである。無自覚で無意識、世に溢れた自然の、俗事のなかの綻びであった。 『なんでもポケット?』 『別に……礼は要らない。一人にしてくれ』 『そっか、ゴメンな。この前は、ありがとな。じゃ……!』  コーヒー牛乳は結局、受け取らなかった。立ち去っていく小柄な背中を消えるまで見ていた。よくも覚えていたものだ。暮瀬自身、忘れていたことだった。否、目にカーテンの掛かったマスク姿の根暗な男のことならば印象に乗っているのかもしれない。  辿り着いた寺は高台にあった。そう思わせるのが上手い、人の手の入った不自然な自然が豊かな街を一望できる。展望台に十宮は駆けていった。首から下げたスマートフォンを構え、風景を撮っている。暮瀬は彼のその姿を眺めながら、ベンチに腰掛けた。暮瀬も写真を撮りたかった。しかし後ろめたさがあるのだった。欲望を向けてしまう。期待を。願望を。せめて外面だけは抑えなければならない。 「へへ……」  写真を撮り終えた後、彼は口元だけで笑って、板状携帯電話を真剣に見ていた。指の動きからして文章を打っている。暮瀬は彼のその姿を見ていた。清々しい気分にはならなかった。むしろ淀んでいく。見なければいい。ところが苦しさを求めているらしかった。目を放せない。十宮の顔から徐々に弛んだ笑みが消え失せていった。代わりに緊張の面持ちに染まっていく。暮瀬は、彼が何をしているのか知っていた。その意図も、彼の心情も知っていた。目を逸らしたい。だが彼しか見えない。  ふと、十宮は画面から顔を上げた。そして暮瀬を捉えた。視線がぶつかる。暮瀬は硬直した。ただ眉根が微動する。文字どおり大の男が泣きそうな顔を晒す。 「一緒に撮っていい?」  断ってしまいたかった。根暗で陳腐な男の姿を、十宮はその板状の記録媒体に入れておくというのだろうか。慈悲だ。同時に冒涜だ。暮瀬は動揺した。罪悪感でいっぱいになる。彼と共に記憶される価値を己に感じられなかった。だが断るのも彼にすまなかった。 「ああ」 「へへ」  十宮は無防備だ。隣に腰を下ろす。 「暮瀬、めっちゃいい匂いするね。柔軟剤、何使ってんの?」 「プレノアの、ボタニカルキング……」  十宮は聞いてはいないようだった。だが暮瀬も聞いているとは思わず答えた。当の彼は板状カメラを構えている。そして身を寄せた。接近する。暮瀬は目眩を覚えた。眼球が深く沁みていく。 「十宮……」  声にならない声を漏らす。言ってしまいそうだ。だが呑み込め。涙ぐんだ目が咄嗟にカメラのレンズを見上げた。シャッターが切られる。 「暮瀬、花粉症?」 「少し……」 「ポケティあるよ。無くなったら言えよ」  決壊する。本能ではなかった。理性は働いていた。だが情動が一瞬、判断を誤った。甘やかした。十宮の膝の上に所在なく置かれた手を手を重ねてしまう。 「十宮……」  息が苦しい。呼吸器の問題ではなかった。酸素は吸える。滞りなく吐ける。しかし何かがおかしいのだ。指に行き渡る血流は冷めているのか温かいのかも分からない。感覚が鈍った。しかし十宮のあまり長くない指を掴んでいる。  十宮以外がぼやけはじめたのは、彼と出会って半月もしない頃だっただろうか。温かい日だったのを覚えている。彼は体育を履修していた。意外性はない。十宮は見るからに、運動を好みそうな風貌をしていた。上下長袖のジャージ姿にもかかわらず、片脚だけ露出していた。裾を腿まで捲り、布の覆われたほうで片足跳びをしていた。暮瀬はベンチからそれを風景として眺めていた。十宮が先に暮瀬に気付いた。ひとつの視線を受け、暮瀬も気付く。顔を背けようとした。だが目に入った。妙な歩き方をしている。膝から血が出ていた。暮瀬薫にも良心はある。人との関わりを絶っていたが、人が嫌いなわけではなかった。  十宮がベンチのほうに方向転換し、膝から下を引き摺るように近付いてきた。そして急いたのか、また片脚で跳んでくる。 『転んじゃってさ。へへ。ちょいと失礼』  親しくはない。名も知らない。ただ顔を知っているだけである。話し込みに来たわけはあるまい。  彼はベンチに浅く腰掛けると、解けている靴紐を結びはじめた。そうとう派手に転んだらしい。土がついている。  前屈みになる十宮のジャージの袖が、傷口に触れそうであった。服の繊維に血の付着する光景が、どこか気持ち悪い。 『拭け』  ティッシュを一枚、渡した。 『ありがと』 『袖に血が付いたんじゃないか』  十宮は袖の内側を回して眺めていた。 『でも大根おろしで落ちるんだろ?』  暮瀬は恐ろしくなった。以前の会話を覚えているとは思わなかった。自分以外の人間は、以前話したことも忘れてしまうような忙しさと薄情のなかに生きているのではないのか。雑談などは、リセットされてしまうものではないのか。素顔も見せず、名前も学部も学年も知らない相手ならば尚更…… 『あれ?言ってなかったっけ?あれ?』  受け取ったティッシュで傷周りを拭くことも忘れ、今度は十宮が動揺を示す。 『い、言った……』  まだ動揺から覚めていない。十宮は安堵を見せて傷周りを拭きはじめる。 『どこに行くつもりだった?』 『水道』  すぐ南側に、西キャンパスの食堂がある。だがここはすぐに閉鎖され、今では東キャンパスより寂れた学生会館になっていった。そこに水栓柱がある。  暮瀬はすっ、と立ち上がった。掌を差し出す。 『え?』 『肩を貸すには身長差があるだろう』 『どうせオレはチビですよ。でもありがと』  「痛てて……」と呟き、彼は立ち上がった。傷だけが痛むようではなさそうだった。骨を傷めているのではあるまいか。肩から落ちたような形跡もある。  暮瀬は小柄な躯体を抱き上げてしまった。筋肉質な重さがある。見た目より重かった。 『な、何?』 『医務室に行く』 『へーきだよ』   『骨折(ほね)なら後々まで響くぞ』  最初は抗議の声を浴びせかけられたが、そのうち黙った。医務室は東キャンパスにある。アスファルトを踏み締める音のなかに、啜り泣きが混ざった。 『痛いのか』  下方を見遣れば、両手で涙を拭っている。 『うん……まぁ?心が』  その意味が分からなかった。 『勝ったらコクろうと思ってさ……』 「霧奈(きりな)くんから、返信きた」  暮瀬の指が、弾かれたように開いた。 「そうか……」  画面に夢中の横顔を盗み見る。口角が上がり、目元を眇め、見たこともない顔をしている。胸が苦しい。口の中が乾涸びる。溢れ出す欲望はすべて一方通行である。受け止められることはないと知っている。理解しきれてはいないけれど。押し付けるつもりはない。押し付けてはならない。そこには自制が必要だった。傍に居られればいいのだ。隣を歩けただけでよかった。彼に声をかけられて、答えている。この現状が最も幸せにある。それ以上何を望むのだろう。  触れてしまった手を握り締める。感覚はない。ただ十宮の感触だけが遺っている気がした。自身の体温も分からなくなっている。ただ爛れたような幻を拳のなかに収めている。薄らいでいく。 「……そっか」  すぐ隣で独り言を聞いた。 「どうした」 「ううん。なんでもない」  十宮は強く首を振った。他に行くところもなく、予定より早めに足は旅館に向かっていた。 「暮瀬」 「なんだ」 「前に、オレ、好きな人いるって言ったじゃん」  暮瀬はぼやけた視界が、本当に滲んでいく。好きな人がいるとは直接は聞いていない。ただ告白する相手がいたことは語っていた。つまり匂わされただけである。しかし、わずかなやり取りを十宮はまだ覚えているのだ。まだ互いに名も知らなかった頃のことを。 「ああ」  隣を歩いていた十宮が立ち止まる。すぐに止まれず、一歩、追い抜いてしまった。 「さっき失恋しちゃった」  はは、と何でもないふうに口で笑う。 「……そうか」  苦しい!暮瀬は己の浅ましさ、欲深さに辟易する。認めたくなかった。芽生えてしまう喜びを摘み取る。向き合わない。彼はまた罪深い自身を嫌いになった。赦せない。 「切り替えないとな」  欲深い人間だった。甘やかす言葉を吐いて媚びるべきか、背中を押す言葉を吐いて、十宮"らしさ"というまやかしをちらつかせ喝を入れるべきか。 「切り替えなくても、いいんじゃないか。好きで居続けても。想うだけなら迷惑はかからない」  彼は屈した。正当化に努めた。糊塗した。十宮の足を引っ張り、引き摺り下ろし、泥沼に嵌めることを選んだ。言った直後、相手の反応も知る前に、自己嫌悪の涙が訪れた。 「……いいかな?いいのかな」 「切り替えられないなら、仕方がない」  そうだ。仕方がないのだ。やりようがない。抑えようと努めている。しかし込み上げる。自然発生してしまう。暮瀬は泣きたくなった。だが背の高い男の落涙がいかに気色悪いか分かっている。十宮の前で醜態を晒したくなかった。暮瀬にとっては何度も恥部を晒しているような心地でいた。恥ずかしく愚かな自分に、十宮が振り向いてくれることはないのだろう。 「十宮」 「暮瀬も誰か、好きなやついるんだな。さっきのでちょっと分かった」 「ドラマの受け売りだ」 「セリフじゃなくてさ、……こう、もっと、フィーリング?でも暮瀬なら、きっと上手くいくんじゃない?イケメンだし、のっぽだし、優しいしさ」  無理解がそこにある。だが、それでいい。理解されては困る。一人背負うべき感情である。彼は分からなくていい。共感しなくていい。暮瀬は深く息を吐いた。孤独だ。しかし所詮、人間は孤独なのである。生きとし生けるものはすべて孤独なのだ。理解を求めるのが傲慢なのだ。十宮は無理解でいいのだ。ただ理解を求めてしまうその姿勢だけは赦されたかった。暮瀬は自分に甘かった。十宮にだけは赦されたかった。無理解でも構わない。叶わなくていい。赦されたい。 「いない」 「コクっちゃえば?コクらずしてフられるのってやっぱなんか、悔しいもんな」  暮瀬は首を振った。考え方が相容れないことに焦った。 「関係を壊したくない。傍に居られればそれでいい。俺の気持ちなんて知らないでいてほしい」  嘘を吐くべきだった。半分嘘で、半分は本心であった。大半は本音で、残りは強がりであった。届かないでほしい。しかし希望を捨てきれない。叶うかもしれない可能性を捨てきれない。嘘に本音を混ぜて盾を作る。傷付かない盾を。傷付かないふりを自分のためにする盾を。 「暮瀬はオレとは反対だね」  眉根が寄った。目が、水膜を千切りそうだった。だがいけない。泣きそうなのは十宮だ。彼が泣くべきだ。十宮は素直に、無辜に、相手へ接近していた。暮瀬は知っている。十宮が誰を見ているのか。だが十宮は、その者以外にぼかしをかけたりしない。だから些細な、忘れてしまうべき過去の会話なども覚えておけるのだ。 「でも、できることなら、ちゃんと伝えたいものなんだよな」  暮瀬の下睫毛は水分の重みに耐えきれなかった。薄く重なる目蓋が落ちてしまう。その顔を見られたくなかった。十宮を抱き寄せる。咄嗟の手段、選択、そして渇望だった。

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