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第3話

◇  一羽(かずは)はファストフード店から移動し、旅館のロビーで暇を潰していた。まだ帰ってくるはずの時間まで余裕がある。あれこれと理由を並べ、成海のところへ行ってしまうことにした。  成海と暮瀬の泊まる部屋には鍵が掛かっていた。自室に戻ると、話し声が聞こえた。耳を(そばだ)てる。 『かわいいヤツだよ。本当に』  成海はこの部屋にいる。そしてそこにはおそらく神坂(こうさか)もいる。成海が誰もいない、そして自分の部屋でもないところで一人で喋っているわけもない。電話をしているのだろうか。しかし神坂と2人でいるのだとしたら?それはいけない。 「おまた~?」  一羽は部屋へ踏み入っていった。遠慮はない。自分の割り当てられた部屋だ。  体調不良とぬかしていた神坂は横になることもなく、寝室の奥側にある広縁の椅子に座っていた。成海は畳に胡座をかいていた。  会話が止まり、成海は一羽を振り返る。 「にゃるみ~」  座っている逞しい身体に纏わりつく。朝、多頭飼いされた猫みたいに抱き合って寝た体温に落ち着く。 「おかえり。早かったな」 「だって成海いないから暇だったんだもん。抜けてきちゃった。お土産、ほい!」  ファストフード店から旅館に来るまでの間、通りがかりの和菓子屋に寄った。胡麻団子が2つ入っているパックを渡した。 「マジか、ありがとう。みんなには言ってきたんだよな?」 「うん。十宮(とおみや)には言ってきた」  へ、へ、と一羽は成海に頭を撫でろとばかりに擦り寄る。 「じゃあ神坂、いただこうぜ」  成海の無邪気な言葉に、一羽は「は?」と、出かかった疑問風の威圧を咄嗟に呑み込んだ。 「い、いや……」  神坂はきょろきょろとすばやく目を泳がせ、たじろぐ。 「茶、淹れてくるな」  成海は朗らかに言い置いて、腰を上げた。一羽は一瞬にして全身が火照っていくのを感じる。室内の温度も季節も天気も関係ない。それは身の内から巻き起こる火災旋風であった。成海に対してだろうか。成海が言い出して着火したことである。成海に対しての赫怒(かくど)であるのが、真っ当で、自然であろう。  一羽は成海に買ってきたのである。他の誰でもない。成海に渡し、成海は受け取った。その後の処遇については彼の自由である。しかし。一羽も理屈は分かっている。納得しようと試みた。だが怒りを打ち砕けることはない。 「どした?」  すでに成海はテーブルの上を片付け、ポットをそこに乗せていた。湯呑みを3つ出している。 「神坂?腰、しんどい?」  成海は湯を注ぐ作業を止め、神坂のほうまでやってきた。腕を取り、肩へ回し、神坂の腰に手を添える。 「いや、その……」  一羽は見ていられなくなった。キッと神坂を睨み、部屋を飛び出す。腹が立つ!  ロビーに出て怒りを冷まそうとしたが治まらない。  神坂に食わせたくないわけではなかった。それほど神坂に思い入れはない。ただ気拙さがある。だがあの土産は、成海に買ってきた。成海のことしか考えずに買ってきたのだ。2人きりのときに渡せばよかったのか。怒りが増す。思いどおりにならなかった苛立ちだ。  バッテリーの少なくなった板だけが友達である。「キリナ」と「愛智(あいち)」に暇潰しのメッセージを送った。しかしすぐに返信が来るとは限らない。背筋に滲んだ汗は冷えていく。まだ身体の芯は燻っている。  返信が来る。 [カノジョとデート]  今何をしてるのかを訊いた。相手は大河内(おおこうち)霧奈(きりな)という友人だ。もう1人、メッセージを送った名護(なご)愛智(あいち)はまだ見てもいないようだった。忘れた頃に、用が済んだ頃に来るのだろう。 [マジか。じゃあまた今度]  デート中にメッセージを送り合うわけにもいくまい。しかし霧奈に交際中の女がいるとは知らなかった。女と見紛う中性的な容貌で、体格もそう濃いテストステロンの機能を感じさない男だった。だが市中の女が追っかけている男どもを見てみよ。線の細く、胸や胴の薄い、色白の腑抜けた奴等ばかりではないか。つまり霧奈も艶福(えんぷく)家なのだ。一口にいえば"モテ"る要素は揃っている。女は、成海には惚れない。悪い顔はしないが、成海ではない。暮瀬か霧奈である。それから、自分―一羽である。彼は自身が艶福家であることをよくよく承知していた。成海ではない。成海は誠実過ぎた。優しく、気が利きすぎる。  女は頭が悪い。  霧奈の女も、容貌は優れているのだろうが、結局は軟派で軽薄な性質に違いない。成海に惚れないのは愚かだ。  返信があった。 [何?] [暇だっただけー笑] [十宮にうぜぇから連絡よこすなって言っといて]  一羽はそこで画面表示を切った。黒紫色に光る鏡面には空が映る。霧奈と十宮の間に何か揉め事でもあったのだろうか。  噂をすれば影が差す。十宮と暮瀬が帰ってくるところだった。十宮も一羽に気付いた。こちらに来る。何か小言を言われるものかと思った。 「お疲れ……」  十宮は俯き加減でそれだけ言ってエントランスへ吸い込まれていく。暮瀬は一羽の前に立ち塞がったままである。 「どした?」 「十宮にあまり苦労かけるな」  一羽は霧奈からの伝言を十宮に届けるつもりはないかった。成海を介しての知り合いである。気拙くなる。成海に侮蔑されるのは避けたい。ところがここに便利な転機が訪れた。 「じゃあさ、暮瀬。十宮に、霧奈が鬼WINEすなって言ってたって伝えておいてくんね?」  暮瀬は一匹狼。協調性に欠けた、感情のないサイコパスだ。言いづらいということもないだろう。一羽には、自分の手でないのなら、十宮がばっさり斬られる点に関して何の頓着もなかった。暮瀬に言わせればよい。霧奈の頼みもきける。十宮は気の毒だが、"メンヘラ"WINEは良くない。自業自得だ。  暮瀬がそれを拒むことはないと思った。否、厄介な関わり合いを厭う可能性は十分にある。しかし彼は、一羽の予想とは違う顔を見せた。"アイスマン"にも表情筋が存在するらしい。この"アンドロイド"は眉を動かした。 「大河内がそう言ったのか」 「ほれ」  画面を見せた。対して内密な話はしていない。たとえ内密な話をしていたとしても、暮瀬のような孤独者に拡散力はない。 「んじゃ頼むわ」  暮瀬の二の腕の辺りを叩いて、一羽も中へ戻ろうとした。 「結城」 「何?」 「言えない。それは言えない。お前からも言うな」 「レシートWINE送られてくる霧ちゃんが可哀想だろ」  果たして本当に、霧奈がレシート状になるほど長いメッセージを送ってきているのかは定かでない。一羽の出任せであった。 「十宮に弱味でも握られてんの?」  暮瀬が、ふっさりした睫毛を伏せた。 「いいや……」 「じゃ、よろ」  手を振って部屋へ戻る。成海と神坂はすでに胡麻団子を食べ終えたらしい。テーブルの上が片付いていた。神坂はまた広縁の椅子に腰掛けている。居間に座っていた成海は一羽が帰ってくると、出迎えるように傍へ来た。 「ごめん、一羽」  両手を合わせて謝られ、一羽は訳が分からなかった。 「何で?」 「てっきり、一羽はもう食べてきたものだと思ってて……」  強張った顔の成海から、広縁の神坂を見遣った。 「ううん。成海に買ってきた]  1パック丸々、成海に食べてほしかった。だが彼は人が好い。あの場で渡されたなら、神坂のことも慮ってしまうのが成海だ。どうしようもないことなのだ。怒りは治まった。  一羽はふと、広縁にいる神坂を捉えた。窓の外を眺めている。 「成海」  成海ではない一羽がどきりとした。暮瀬が部屋を覗き込む。 「部屋、開けてくれ」 「ああ、悪い」  鍵を渡せばいいものを、成海は鍵当番とばかりに部屋を出ていった。神坂と2人きりになってしまう。 「……すまなかったな」  籐椅子に座っている神坂が重苦しげに口を開いた。 「何が?」  長テーブルにポットを置き、茶を淹れる。 「成海のこと」 「別に~」  このときまで、一羽は夜のことなど忘れていた。ところが、裏返った声に胸のざわめきを覚えずにはいられなかった。 「神坂はさ、……」  怖くなった。言いかけたまま、続きを促されることはない。やはり、怖くなった。求めていない返答があるかもしれない。期待と違うならば要らない。真実は知らなければ、真実ではない。知りさえしなければ、それは事実ではない。事実にしてはならない。 「ううん、なんでもない」 「部屋を替えてもらおうと思う」 「そっか」  会話はそれだけだった。神坂は時折、腰を摩って歩いた。一羽には成海のような親切心はない。 「暮瀬はやめとけ。融通利かないから」 「分かった」  この旅行に於ける会話はそれきりだった。結局、神坂は十宮と代わることになった。  この旅行は確かに親交を深める目的をある意味で果たしたのかも知れなかった。神坂と5文字以上喋ることになるとは思わなかったし、十宮と同室になったことについて、こちらもまるで関わりのない暮瀬に呼び出されるという珍事も起こった。霧奈について、絶対に言うなと念を押されるのあった。 ◇  一羽には成海の他に親しい友人が2人いる。それが霧奈と愛智だった。講義室で合流すると土産を渡す。当地マスコットを模したチョコレート菓子をくれた。  霧奈は美少年としかいいようのない風体であった。見た目が実年齢よりも若く、少し眠げな雰囲気は否めないが、色素の薄いさらさらの直毛を少し長めに伸ばし、ショートカットの女子と見紛う。色も白く、肌は玉質、声も男にしては高かった。背丈は平均といったところだが、人目を惹いた。  愛智はわずかに、外面に於いて成海と似通うところがあった。背格好が似ていた。これという派手さはない、精神性については今風の若者である。中身はまったく成海には似ていなかった。もう少し軟派で軽薄なところがある。器の大きさ違う。その点で愛知は一羽にとって、安心して同じ穴に入れる(むじな)であった。自身と同等の小物、或いは小悪党であった。同族に対する(よしみ)であった。 「ふぅん……」  霧奈は頬杖をつき、片手で土産を摘んで眺めた。彼は嫌味なところがある。いけ好かない感じであったが、見た目がいいために赦されることもこの世にはたくさん存在する。 「なんだよ、不満か?」  一羽はむっとした。 「言ってないじゃん、そんなコト。いただきまーす」  渋々とばかりに袋を破り、キャラクター型のチョコレートが砕かれる。 「美味ぇよ、フツーに」  愛智もチョコレートを齧っていた。 「そらよかった」 「で、女子たちとは何か進展が?」  旅行には女もいた。だがそのようなことは忘れてしまうほど精神的に忙しくなっていた。根暗の野郎どもとしか親交を深めていないことに気付く。それも、深めるといっても浅瀬ほどだ。あの旅行に、女子などいただろうか。少なくとも一羽の周りにはいなかった。成海と、無愛想な神坂、サイボーグ暮瀬とどんぐり十宮しか記憶にない。 「野郎のケツ追っててそれどころじゃなかった」  だがその一言がまた、妙な印象を甦らせた。普段言い慣れた冗談に、急に嫌気が差した。不安を覚える。生々しさが押し寄せた。何故そうなってしまったか、原因と正体を理解したくない。  一羽の苦り顔に霧奈が興味も無さそうにべっこう飴みたいな瞳を転がす。 「どしたよ?」  訊ねたのは愛智だ。 「いンや。なんでもない。霧ちゃんはデートで羨ましいなって思っただけさ」 「霧奈、デートだったん?」 「言うなよ。そう」  霧奈は冷めている。 「カノジョ?」 「うん」 「何人いんの」  愛智の言葉に一羽はぎょっとして霧奈を見た。 「今5人目」 「名前間違えたりしないの」 「呼ばなきゃいい」  十宮のWINEを何故嫌がったのか、一羽のなかで見当がつきはじめた。5股について苦言を呈したのではないか。  所作なく余所見をしながら考えていると、近くを神坂が通っていった。その後姿を目で追ってしまう。彼は1人で、半ばから前方のほうに座る。  そのうち、成海もやってきた。一羽に一言挨拶して、それから。彼もまた今まで1人で受けていたところを、今日は行くところがあるようだった。神坂の傍へ吸い寄せられていく。一羽はそれを見ていた。  一羽が成海を誘って、4人でいればいい。しかし一羽は友人といっても霧奈と愛智について、成海を呼ぶに値する奴等と感じていなかった。成海を彼等のような俗物に近付けさせたくなかった。一羽のなかではまだ言語化できていないけれども、本能的、或いは霊的、もしくは自覚的な無意識が、成海をこの2人から遠ざけた。霧奈の奔放ぶりと愛智の軽薄さは、いずれ成海を辱めかねない。穢すようだ。そして一羽は成海に忌避されるのが怖かった。成海もまた、普段人懐こく擦り寄る一羽がいるからといって、霧奈と愛智を蔑ろにして割り入ってくることはなかった。成海は単独でも構わない、気にしない人であった。他者の勝手な感情移入を憶測しないのだ。したとて、気にならないらしい。揶揄と憐憫の対象になることを甘んじて受け入れている。否、そういう観念がまず無いのかもしれない。この点に於いてもまた、一羽やこの2人と考えに相違がある。成海をここには誘わない。それが賢明なのだ。  だが、成海が神坂に声をかけ、近くに座るのは想定外の出来事であった。目が離せない。成海は神坂に話しかけている。今まではまったく知り合いすらなかったような関係だったというのに。あの旅行が、成海と神坂を親密にしたというのだろうか。 「どうしたの、一羽」  眼前で掌を振られる。 「なんでもねぇよ」  だが、頭のなかはそのことでいっぱいだった。瞋恚の炎に炙られて、血の巡りがよくなった。汗が吹き出す。霧奈と愛智のことなど忘れてしまった。成海と神坂の間に割って入りたくなった。成海を神坂に近付けてはいけない。神坂は危険なのだ。そう思った。その理由は? その理由は……  思い出したくもない! 恐ろしい夢のせいだ。しかし所詮は夢に過ぎない。  本当に、夢なのだろうか。  講義中、一羽は寝た。いつものことである。静けさのなかに講師の低い声が潔く谺していく。(いびき)をかいているのもいたが、一羽は静かに寝ていた。講義終了直前に配られるミニテストの答えは大体教科書に載っていた。必要な単位数の嵩増しに取った、悩みの種にもならなければ印象にも残らない座学である。  微睡みのなかで、彼は数日前の旅行の夢をみていた。同室者の神坂と肌を擦り寄せ、唇を貪り合った。猛烈な嫌悪に吐気を催す。実際に身体を汚辱された気分だ。汚損された気分だ! そして、股間のものをぶつけ合った。布越しの肉感が生々しい。  それから場面を飛ばすように、一羽は神坂の脚に挟まれていた。上体を伏せ、その構図は男女がするものであった。 『なるみ……っ』  がんっと、勢いよく頭が持ち上がる。  ありえない!  下段の講師と目が合ってしまう。慌てて逸らし、その右方に座す後姿を捉えた。その右斜め後ろに成海が背筋を伸ばし、真面目腐って講義を受けている。  夢は所詮、夢である。そこに意義を見出すのは狂っている。  しかし一羽は、あの夜のことを思い出そうとしていた。一気飲みをしたことまでは覚えている。その後だ。成海に背負われたのは覚えている。だがそこまでだった。  神坂と何かあったかもしれない。無かったかもしれない。曖昧のなかを泳いでいる。耐えられない。白黒をつけたい。神坂と何かあったことよりも、この遊泳が苦しい。落ち着かない。  講義が終わりを告げる。霧奈はこの大学にいる交際相手と合流するらしかった。一羽も普段ならば成海を呼び止めるはずであったが、今日は違った。神坂に声をかけるつもりであった。だが当の神坂は成海と何か話している。そこで成海を差し置いて神坂に話しかけることができただろうか? いいや、できなかった。即席の予定はすぐさま変更された。 「にゃるみ~」  神坂と話していても構わない。成海の腕に縋りつく。高校のときに嫌われていたクラスメイトの女子と同じである。だが気にするだけ損である。成海の前では女の気分でいた。成海の交際相手の女くらいの気持ちでいた。成海の交際相手ならば自分を越えていなければ気に食わなかった。  一羽は自身が、垢抜けた現代風の好男子であることをよくよく理解していた。暮瀬や霧奈ほどではないが顔立ちも整っていた。そして可憐さも持ち合わせていた。十宮のどんぐりみたいな可愛さではない。 「一羽」   朗らかに笑い、白い歯を見せ、成海は一羽を受け入れる。神坂を見遣った。相変わらず根暗の陰気な眼鏡であった。 「じゃあな」  成海の挨拶に、神坂は何も返さない。一羽は意外そうに、真上にある顔を捉えた。成海ならば神坂も誘うと思っていた。だがここで離別を告げた。神坂に用があったはずだが、彼は嬉しくなった。 「神坂、何かあんの?」  何故、成海は神坂との会話を切り上げたのか。遠回しに訊ねた。 「さあ?」  成海はくるりと宙を見上げた。  目的を果たすのはその数時間後だった。理由をつけて成海と別れ、神坂の後を追った。人気(ひとけ)のない西キャンパスへ向かっていく。偶然を装いたい。彼の目的地へ着くまで尾けた。  西キャンパスの旧館の1階裏口には寂れたラウンジがある。ガラス張りは妙に黄ばみ、粗大ゴミを持ってきたようなソファーが置かれている。何組かテーブルと椅子もあるが、不気味な雰囲気のために薄汚れて感じられる。  神坂は潔癖げな見た目に反し、ガムテープで補修したようなソファーに腰を下ろした。そして額に手を当て、背凭れと接した壁へ上体を預ける。自然を装って声をかける。偶然、ばったり会ったのだ。東キャンパスの学生会館から尾けてきたわけはないのだとばかりに。それは神坂が深く息を吐いて目を閉じるのと同時であった。  眼鏡の奥の閉ざされた睫毛は閉じた途端に持ち上がる。 「結城……」  額に当てられていた手が下ろされる。目が泳いだ気がした。しかし眼鏡の反射でよく見えなかった。 「あ、あのさ……神坂……」  見るからに相手は具合が悪そうであった。旅行の体調不良がまだ尾を引いているのたかとも考えたが、それは腰だった。腰を痛めていた。腰を……  あの夜のことを訊くために追ってきた。だがいざ、目の前にすると躊躇が生まれる。 「どうかしたのか」  気怠るそうに背中を起こす。 「具合悪いの?」 「偏頭痛だ。大したことはない」 「あのさ……その、いや………」  何から喋るのが最も情報を引き出せるのか? 成海のことを出すか。単刀直入に、あの夜のことを覚えているか訊ねるべきか…… 「結城に、」  一羽には、自身もまた目を泳がせて落ち着きのない認識はなかった。 「謝らなければいけないことがある」 「う、うん……」  余計な言葉は無用だ。 「初日の夜、結城に迷惑をかけたよな」 「それ……ってさ、オレがオレの布団で寝てなかったことと関係ある?」  神坂は黙った。 「あんまり覚えてなくて……ちょっと、覚えてるんだけど………その、なんていうか……」 「迷惑をかけてすまなかった」 「神坂は、オレに何か、怒るところはないの」  "普通"ならば、男にあのようなことをされた記憶があれば怒る。"普通"であるならば。「一般的」「正常」と書いて「ふつう」と読ませるのならば。 「……結城が怒るところはある。俺にはない」 「神坂は、あの時のこと、覚えてるの?」 「酔っ払っていた、というのは言い訳じみているけれど、酔っていた。だからすべてとは言いきれない。ただ……」  神坂は口元に手を当てた。吐くような素振りはない。ただ余計なことを喋りかけたのだろう。続きを聞き出そうとは思わなかった。聞かないほうが幸せなこともある。聞かないほうが実害のないこともある。 「カズ」  霧奈だ。十宮も一緒にいた。霧奈は十宮の見えないように、十宮を目で差し露骨な嫌悪を示す。高校のときに同じクラスだった性格の悪い幼稚な女子の仕草みたいだった。十宮にWINEを送るなと伝える件については無いことにしていた。そして忘れていた。だが伝えたほうがいいのか。2人の間に何があったのか一羽は知らない。ただWINEがうるさいだけではないのか。 「ああ、神坂ごめん。また今度」  霧奈は一羽が成海に対してするように、彼の腕を掴んだ。掴んだまま、開け放しの裏口を突っ切られてしまう。  一羽はきょとんとして留まる十宮を振り返る。 「ごめん、十宮。これから霧奈とゼミの課題あんだわ」  十宮もそこまで粘着質な気性には思えなかった。言えば退いた。 「そっか。じゃあ、さようなら。霧奈くん、結城くん」  聞き分けはいい。話は通じるし、空気も読める。常識はあり、不気味さはないし、醜悪な見た目でもなく、不潔感もない。明るく、俗っぽい、よくいる大学生だ。多少中学生に見えてしまう若々しさと垢抜けなさは否めないが、そう邪険にするだけの理由があるようには見えない。だが霧奈は彼の去っていったほうを鋭く睨んでいる。

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