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第7話 大学生活について少し、ほんの少し語ってみるべし

 月曜日から大学生活が始まって今は日曜日。  丁度、一週間が経った。  俺は朝、目が覚めてからずっと部屋のベッドの上で悶々としている。  大学で友達を作る、という俺の目標は今の所達成されていない。  緊張して誰にも話しかけられず、そうしている間に、周りはみるみるうちに友達を作っていき、サークルに入り。  すっかり取り残されてしまった感じだ。  おまけに、同級生の絵のレベルが物凄く高くて元々無かった俺の自信も底をつきた。  正直な話、大学デビューに失敗した感で明日、大学に行きたくないくらいだ。  いや、むしろ、今直ぐに実家に帰りたい。  しかし、美大はお金がかかる。  苦労して俺を大学に通わせてくれた両親に申し訳ない事は出来ない。  という悩みよりも、お隣の河瀬さんについて俺は悩んでいた。  河瀬さんには引っ越しの挨拶に行って、その後、部屋の片づけを手伝って貰った日から毎日会っている。  ゴミ出しの時とか、大学へ出掛ける時とかに会うだけだが。 「お早う」 「こんにちは」 「こんばんは」  河瀬さんにかけられた言葉の一言一言が尊い。  河瀬さんの声は何だか耳に響く様で心地が良い。  見た目も麗しく、声も良いなんて。  会うたびに河瀬さんにやられてしまっている。  河瀬さんに会うたびに河瀬さんを描きたいという欲望が頭を騒がしく通り過ぎてゆく。  ああ、河瀬さん。  隣は何をする人ぞ。  今頃、河瀬さんはどうしているだろうか。  河瀬さんの事だから麗しい何かをしているに違いない。  河瀬さんの日常をあれやこれやと考察しては悩ましい気持ちになっている。  河瀬さんはいつ会っても黒い眼帯をしていた。  眼帯姿がまた儚げで麗しいのだけれど、怪我か病気か。  心配だ。  河瀬さん……。 「会いに、行ってみようかな……」  大学内では内向的な俺だったが河瀬さんの事となるとこんな勇気が湧いて来る。  不思議だ。  そうだ。  片付けを手伝って貰ったお礼を持って行こう。  それを口実に会いに行こう。  ナイスアイディアに俺は布団を、バサリと跳ねのけて寝室を出ると出掛ける準備を済ませた。  河瀬さんへのお礼の品を買いにゆくのだ。  春の風はまだ寒い。  大都会をさ迷い、河瀬さんへのお礼を探した。  大きなデパートの地下(これがいわゆるデパ地下か)に入ってみたり。  行列の出来ているお店を覗いて見たり。  こんなに行動的になったのは何年振りか。  砂漠の様な都会の街に酔い、疲れが出てきたころ『元気な玉子プリン』と言うひよこの絵が描かれたポスターを見つけてそのポスターをガラス窓に貼り付けたスイーツ店に入った。 「いらっしゃいませ」としとやかに言う店員に軽くお辞儀をしながら店の冷ケースを拝見する。  美味しそうなショートケーキ。  これまた美味しそうなエクレア。  焼き菓子の数々の中に混じり、元気な玉子プリンは鎮座していた。 「あの。これ下さい」  小さな声で店員に言う。 「おいくつですか?」と訊ねられる。  俺は咄嗟に、「に、二個で」と頼んでしまう。  もう、河瀬さんと食べる気満々である。 「かしこまりました。お持ち帰りのお時間はどれくらいですか?」 「あ、二時間くらいで」 「かしこまりました。少々お待ち下さい」  待っている間に店内を見回す。  俺以外にはおしゃれな女性客が三人。  キャッキャウフフと冷ケースを眺めている。  俺とは住む世界が違う陽気な方々。  一気に店を出たくなったがもう注文してしまった。  我慢だ。 「ありがとうございました」の声を背中で聞きながら店を出る。  元気な玉子プリンは一つ四百八十円であった。  高い。  こんな高級なプリン、初めて買った。  外は黄昏色に染まり、街灯に灯りが灯り始めている。  お礼選びに随分時間をかけてしまった。  早く帰らなくては。  俺は速足で歩いた。  すれ違う人と散々肩をぶつけ、舌打ちされた後、満員電車に揺られて無事にアパートのある駅に辿り着いた頃にはすっかり夜だ。  都会の夜は何て眩しいんだ。  やっと見慣れて来た景色を流しながらアパートに着いた。  階段を最後の力を振り絞って駆け上がり、河瀬さんの部屋の前に立つ。  息を弾ませながらインターホンのボタンを押す勇気を絞り出す。  押せない。  まだ押せない。  いや、押さねば。 「えいっ!」と震える指でインターホンのボタンを押した。  ややあって、「はい」と言う静かな声がインターホン越しに聞こえた。  当たり前だが河瀬さんの声だ。 「あ、一ノ瀬君?」  モニターで俺の姿を確認したであろう河瀬さんの驚きを少しだけ含んだ声。  俺は視線を足下に向けて、「あ、あの。この間、引っ越しの片付けを手伝って頂いたお礼に参りましてですね。その……」と何とも歯切れ悪く話す。  一呼吸おいて、「ああ。今行きます」と言う河瀬さんの声が耳に届いた。  数秒ののち、玄関扉が開く。 「一ノ瀬君、こんばんは。お礼なんて良いのに」  俺は顔を上げた。  俺の目には麗しい河瀬さんの顔がアップで映っている。 「あの……一ノ瀬君?」  いけない。  ぼうっとしてしまった。  俺は急いで口を開いた。 「えっと、あの。これ」  元気な玉子プリンの入った紙袋を勢い良く河瀬さんに差し出す。 「え、あ、ありがとう。何かな?」と河瀬さん。 「プリンです!」  勢い非常に良く俺は答えた。 「プリンか……ありがとう。プリンは好きだよ」  そう聞いて安心する。 「じゃ、じゃあ……」  じゃあこれで。  そう言おうとした時。 「良かったら家に上がってく?」  空耳か?  魅惑のお誘いが聞こえた様な。 「あ、迷惑かな? このプリン、見たところ一人分じゃないみたいだから良かったら一ノ瀬君も、と思ったんだけど」 「っめ。迷惑じゃ無いです。非常に大歓迎です!」 「そ、そう? なら良かった。上がって」  俺が、この俺が河瀬さんの部屋に?  夢なら覚めないでくれ。 「あ、あの。お邪魔します」  いい意味で恐る恐る俺は言う。 「どうぞ」と河瀬さんが笑う。  ああ、生きてて良かった。  今ここに青春の一ページが刻まれるんだ。

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