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第8話 古(いにしえ)の香りに包まれし魅惑の部屋とため息の理由

 ドキドキと心臓を鼓動させながら河瀬さんの部屋に上がる。 「うわぁ」  中に入った瞬間、驚きの声が漏れた。  玄関口を入って直ぐの廊下には壁際にずらりと本が積まれていた。 「ちょっと狭いけどどうぞ」  既に靴を脱いで部屋に上がっている河瀬さんに促されて俺は河瀬さんの部屋の敷居をまたいだ。  本の廊下をそろりと進むとリビングダイニングに通される。  そこで俺は目を大きく開いた。  リビングダイニングの中も本だらけだった。  床に積み上げられていたり、本棚にぎっしりと詰まった本で足の踏み場が正直無かった。 「凄い散らかってるだろ。何だか恥ずかしいな」と河瀬さん。 「そんな事無いです」  本当にそんな事無かった。  雑然としている様で規則正しく本は部屋にある。  積まれた本は絶妙のバランスで積まれているし、まるでラビリンスにでも迷い込んだかの様なこの不思議な光景は何とも魅力的だ。  部屋全体に古い本の香りが満ちている。  それも嫌いじゃ無い。 「足下、気を付けて。こっちに」 「はい」  部屋の真ん中にちんまりと確保された空間にテーブルと一人掛け用のソファーが二脚ある。  テーブルも椅子もアンティークの様だ。 「ここにかけて少し待ってて」  河瀬さんがソファーを示す。  俺は、「はい」と頷く。 「今、お茶入れるから」  河瀬さんが言う。 「あ、お気遣いしないで下さい」 「気にしないで。待ってて」  そう言って河瀬さんはリビングダイニングを出て行った。  河瀬さんを待っている間、俺は部屋の中を見回した。  部屋にはこのテーブルとソファーと本しかない。  テレビなんて物も無くて、此処で河瀬さんがどう生活をしているんだろうか、と考え出すと止まらなくなる。  この部屋で、一人静かに、河瀬さんは本を読んで過ごしているのだろうか。  何物にも邪魔されず。  静かに。  それはとても魅力的な生活に思えた。  本と生きてるみたいで格好いい。 「お待たせしました」  河瀬さんの声に、はっとする。  河瀬さんはトレーに、金の縁取りがあるティーカップと砂糖とミルクの入った小さな白い陶器。  そして、金のスプーンと俺が持参したプリンを載せて慎重にテーブルに近付いて、トレーをテーブルの上に置いた。 「プリンありがとう。一ノ瀬君もお持たせで悪いけど、どうぞ」  そう言ってから河瀬さんは俺と対面にあるソファーに腰掛ける。 「ありがとうございます。あの、河瀬さんの分は?」  トレーに載っているのは一人分の紅茶とプリンだ。 「ああ……今はちょっとお腹いっぱいで。僕は後で頂くから。一ノ瀬君、気にせずにどうぞ」 「あ、はい。じゃあ……」  まず先に、紅茶を頂こうと思って迷う。  俺は基本、紅茶はストレートで飲む。  甘いプリンにも何となく、ストレートの紅茶が合う様に思われる。  でも、河瀬さんはミルクと砂糖を用意してくれた。  うん、ここはこうするべきだ。  俺はミルクと砂糖をティーカップにぶち込んだ。  そしてスプーンでよくかき混ぜる。  ミルクティーの完成だ。  河瀬さんのせっかくのおもてなしを無駄にする事なんて出来ない。 「頂きます」と言って一口。 「あ、美味しい」  俺がそう言うと河瀬さんが微笑む。 「良かった。紅茶には少しこだわってて」  紅茶にこだわるだなんて、流石河瀬さんだ。  似合いすぎててたまらない。  紅茶を優雅に飲む河瀬さんを描きたい。  と、また悪い癖が出た。  しっかりせねば。 「あの、本、本当に凄いですね」  部屋が本に埋もれちゃって、地震が来るたびに、本に埋もれて死ぬ事を考えてしまう、と言った河瀬さんの言葉は本当だった。 「買うと中々捨てられなくて。まだ読んで無いのもいっぱい。一ノ瀬君、何か気になるのがあったら借りてって」  河瀬さんの台詞に俺は目を輝かせた。 「うわっ、良いんですか?」 「勿論」 「ありがとうございます」  テンション高めで言う俺。 「どういたしまして」と言って河瀬さんは微笑む。  そんな笑顔を見せられたらドキリとしてしまう。 「あ、じゃあ、プリンの方、頂きますね」  そう言って俺は気持ちをプリンに向けた。  そうしないと河瀬さんの前で変な態度を取りそうで。  俺はプリンをゆっくりと味わっていた。  何せ四百八十円だ。  心して食さねばなるまい。  プリンはたいへん美味しくて大満足だか、しかし。 「ふぅっ」  まただ。  河瀬さんはさっきから数分おきにため息を吐いている。  俺は落ち着かなかった。  もしかして、俺といてつまらないのだろうか。  確かにさっきからプリンを食べているだけで会話はしていない。  だって、何を話せば良いのか分からない。  河瀬さんの方も話しかけて来ないし。  河瀬さんに誘われたからお邪魔したのだが、実は迷惑だったのだろうか。  ただの社交辞令を真に受けて面倒くさい思いを河瀬さんにさせているのでは?  俺は気が付けば不安の沼にハマっていた。 「ふぅっ」  またため息。  俺の体か自然とビクリと動いた。 「あ、ごめん」  河瀬さんが思い出したかの様に俺の顔を見て言う。 「え?」  プリンを口に運ぶ瞬間の姿勢で俺は固まる。 「いや、さっきから僕、ため息ばかり付いていたよね。ごめん。感じ悪くて」  河瀬さんが俺に手を合わせて謝る。  俺は慌てた。 「そんな。止めて下さい。ため息なんて誰でもしますよ」  特に、俺みたいなつまらない人間と一緒にいる時は。 「いや、違うんだ」と河瀬さんは言う。 「はい?」  変な声を出してしまった。  恥ずかしい。 「いやね。此処の所、疲れが酷くて。ため息が出るのが癖になっちゃってて」  苦い顔をする河瀬さん。 「そうなんですか? 大丈夫?」  心配だ。 「うーん。実は食欲も無くなっちゃって。好きな料理もやる気が無くってね。手抜きでエナジーゼリーでご飯を済ませてたんだ」  河瀬さんの視線がテーブルの上に移る。  その視線を追いかけると飲みかけの様なエナジーゼリーがあった。 「プリンならのど越し良いから食べられると思う。だから嬉しかったよ」と河瀬さんは笑顔で言う。  でも、河瀬さんの話を聞いた後だからなのかその笑顔には疲れが出ている様に思える。  何だか無理矢理作った様な笑顔だ。 「あの。無理しないで下さい。疲れてるならゆっくり休んだ方が良いです。俺、帰りますから」  俺が腰を浮かすと河瀬さんが慌てた顔で、「いや、ごめん。気を使わないで。正直なところ、誰かといた方が気持ちが紛れて良いから。あ、勿論一ノ瀬君が嫌じゃ無かったらの話なんだけど」と俺を止めた。 「それなら……河瀬さんの迷惑にならないなら、俺も一緒にいたいです」 「違うよ」 「え?」 「名前。呼び捨てにしてって」  河瀬さんが魅力的に笑う。  ああ。  何て描きたい笑顔なんだ。  俺の体は隠し切れない欲望で熱くなるのだった。  

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