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第9話 隣人の優しさに胸が痛くなる事この上なし

 俺と河瀬さんはしばらくの間、どうでもいい様な会話をして過ごしていた。  途中で河瀬さんが紅茶のお代わりを運んでくれた。  俺は今、その紅茶を飲みながら河瀬さんと話している。  河瀬さんはずっと飲まず食わずでいる。  俺一人でプリンを食べたり紅茶を飲んだりして、何だか申し訳ない気分だ。  でも、河瀬さんが欲しくないなら仕方がない。  河瀬さん自身が言っていた様に疲れて何も喉を通らないのかも知れない。 「一ノ瀬君、大学にはもう通っているの?」  こうやって俺に質問したりして河瀬さんが会話をリードしてくれている。  口下手な俺には大変ありがたい。 「あ、はい。月曜日から通ってます」  紅茶を啜りつつ俺は答えた。 「どう? 大学生活は?」  うっ。  一番聞かれたくない話だ。  俺はティーカップをテーブルに置くと、「あんまりうまくいって無いです」と正直に話した。 「そうなんだ」と河瀬さん。  俺は膝の上に両手を乗せる。 「あの、友達とかまだ出来なくて。講義も、実技の授業も、俺より出来る人が沢山いると思ったら何だか自信が無くなっちゃって……」  俺は下を向いた。 「なるほど。でも、まだ始まったばかりだろ。そんなに落ち込まなくてもまだまだ大丈夫だよ。友達だって出来るチャンスはいくらでもあるし、大学の勉強も、僕は一ノ瀬君がどんな絵を描くのか知らないけど、大学に合格出来るくらいの実力があるんだから今に満足して無くてもこれからどんどん良くなるんじゃないかな」  俺は顔を上げて河瀬さんの顔を見る。  河瀬さんは優しい笑みを作り俺を見ていた。  眼帯で片方は隠れているけれど、細めているその瞳に吸い込まれそうだ。  こうして河瀬さんを見ていると安心してくるから不思議だ。 「ありがとうございます。あの、俺、アルバイトとかしなきゃで。それもちゃんと出来るか心配で……」 「アルバイトか。偉いね。気持ちは分るよ。でも、それも今から心配しても仕方ないんじゃないかな。悩むのは始めてみた後でで良いんじゃないかな」 「それはそうなんだけど。自信が無くて」 「一ノ瀬君なら大丈夫だよ」 「そうでしょうか?」 「うん、そうだよ。絶対大丈夫だよ」  河瀬さんは柔らかく、でもはっきりとそう言ってくれた。  河瀬さんの言う事に何の根拠も無いけれど、何だかとても勇気付られる。  ああ、俺、大丈夫かも、と思えて来る。  俺は気が付けば心の奥底にしまっていた不安を河瀬さんに打ち明けていた。  もう、一生懸命だった。  一人暮らしもいざ始めてみると不安が大きかった事。  都会の広さに圧倒されて何処にも出かけられない事。  初めは張り切っていたものの、料理もまだ作った事がない事等々。  勢いよく捻った水道から出る水の様に俺の口から言葉が出て来た。  その言葉はどれもネガティブなものばかりだったが、河瀬さんは優しく微笑みながら全部受け止めてくれた。  俺はこの場で、河瀬さんに心の中にしまっていたものを全部出し切ってしまった。  もう言葉が出て来ない。  気が付くと俺の目からはほんの少し涙が出ていた。 「大丈夫だよ。僕が隣にいるから。安心して」  河瀬さんの言葉に俺は深く頷いて涙を拭う。  辛くても、河瀬さんの事を考えると俺は全然元気になれるんです。  河瀬さんは俺の神様みたいなものなんです。  そうは言わずに、「ありがとうございます」の言葉だけを伝えた。 「こちらこそ、ありがとう。一ノ瀬君みたいな子が隣に越して来てくれて嬉しいよ」 「そんな事無いです。あ、疲れてるって言ってたのに長居してしまってすんません。俺、帰りますから」  俺が立ち上がろうとすると河瀬さんの手が俺の方に伸びる。  その手が俺の髪を優しくかき混ぜる。  それが凄く心地よくて、俺の腰から力が抜けた。  気が付けば俺は河瀬さんのされるがままになっていた。 そう言えば、引っ越しの片付けを手伝ってくれた時もこんな感じに俺の頭に手を乗せてくれた。  どうしてこんな事をしてくれるのか。 「それ、河瀬さ……河瀬の癖なの?」  自分でも思っていなかった様な台詞が漏れた。  河瀬さんが、はっとした様に手を引っ込めた瞬間、恥ずかしさが襲って来る。  顔が火照るのを感じる。 「あ、あの。色々ありがとうございました。あの、俺、もう帰ります。随分と長くお邪魔してしまいまして。すみません!」  そう言い切ると俺は勢いよくソファーから立ち上がる。 「あ、僕の方こそ、プリンありがとう。色々話してくれた事も。あ、本はどうしますか?」  河瀬さんは、まるで俺を引き留める様に焦り顔で言う。  そう言えば、さっき本を貸してくれると河瀬さんが言っていた。 「い、いや……き、今日は……じ、じゃあ」  俺がそう言うと河瀬さんは、うん、と頷いた後で、「どうぞ」と俺を玄関まで送ってくれた。  靴を急いで履いて玄関扉に手をかける。 「じゃあ、また」  河瀬さんが言う。 「はい」  短く答えて俺は河瀬さんの部屋を出た。  夕飯をカップラーメンで済ませ、シャワーを浴びて、大学の課題をやって。  気が付けば時間は夜の二十四時を過ぎていた。  眠気が限界だった俺は歯磨きを適当にすますとそのままベッドへダイブした。  明日は大学で朝から講義だ。  早く眠らなくては。  明かりを落としてしまうと部屋は真っ暗だ。  目を閉じて一息つく。  そして、河瀬さんの事を考える。  何か、変な感じに河瀬さんと別れてしまった。  そう思うと後悔が胸を締め付けた。 「河瀬さん」  口が勝手に河瀬さんの名前を呼ぶ。  河瀬さん、やっぱり河瀬さんが言っていた様に疲れている様に見えた。  俺の前ではずっと笑顔でいたけれど。 「食欲無いって相当疲れているよな」  好きな料理も出来なくて。  エナジーゼリーだけ飲んで。  そんなの体に悪いに決まっている。  うーむ。  俺は考えた。  河瀬さんの為に俺が出来る事は無いだろうか。  ベッドサイドに置いてあるスマートフォンを手に取り、健康、疲労回復、などのキーワードで色々と検索してみる。  ネットの世界には様々な健康法に関する情報が流れていた。  どれくらいスマートフォンを眺めていたか分からない。  瞼が段々重くなって、眠りの間に落ちそうになった時。    好きな料理もやる気が無くってね。  手抜きでエナジーゼリーでご飯を済ませてたんだ。  と言う河瀬さんの台詞が頭の中で響いた。  河瀬さん自身が料理を作れないなら。  それなら……。  俺が作ってあげるっていうのはどうだろう。  生まれてから学校の家庭科の授業以外で料理なんてした事が無い俺。  そんな俺が何でこんな事を思いついたのか分からない。  ネットに溢れる、疲労回復には食事療法が一番。  衣食住が疲労回復には大事、などのキーワードがそう考えさせたのかも知れない。  でも。  それが、俺が河瀬さんに出来る唯一の事の様に感じた。  よし、やってみよう。  そう決めて、俺は一気に眠りについた。

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