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第15話 隣人の麗しい変身に感極まるのである

 自分は吸血鬼だなんて、河瀬さんの浪漫の産物だと思っていた俺。  でも、目の前の河瀬さんは実に真面目な顔で自分は吸血鬼である、とおっしゃる。  正直反応に困る俺だった。 「あの、一ノ瀬君、もしかして僕が吸血鬼だって事、実は信じて無いです?」  俺があんまりにもぽかんとしていたからなのか、河瀬さんが俺にそう問う。 「あの、いや……何て言うか。河瀬さんを疑う訳では無いんだけど、現実感が無いと言うか、何て言うか。話に入って行けないと言うか」  俺は正直に答えた。  そして、「あ、でも、河瀬さんの為なら自分の血なんて惜しくないです。それで河瀬さんが元気になるんなら。だからさっき言った事に嘘は無くて、俺の血を吸って欲しいって気持ちは本当なんです。本当なんですけど、でも、あの……正直、さっき言った通りに話に付いて行けてないというかなんと言うか」そう言った。  中々上手い言葉が出て来なかった。  だって、吸血鬼だなんて、直ぐに飲み込めない話だ。 「一ノ瀬君の言う事は分ります。信じろって方が難しいですよね」と河瀬さんは優しく言う。 「い、いや。信じてない訳じゃあ、決してっ!」  俺は慌てて言った。  河瀬さんは、ニコッとすると「一応、何ですけど、証拠を見せたいと思います」と言った。 「証拠?」  俺の眉が八の字を描く。 「はい。証拠です。まず、それを見てもらった方が早いのかなって。その、僕が吸血鬼だって実感を一ノ瀬君に持ってもらうために」と河瀬さん。  吸血鬼の証拠。  そんなのがあるのか。  それを知るのは少しだけ怖い。  何だか今の河瀬さんとの関係が壊れてしまいそうで。  でも、俺は河瀬さんの事をもっと知りたい。  河瀬さんに寄り添いたい。  俺がまだ知らない河瀬さんの事を知りたい。 「あの。じゃあ、お願いします。見せて下さい。証拠。それで、俺も納得出来る気がします」 「うん。それじゃあ、こんな所じゃ何だから、中に入ろうか」  此処は廊下だ。  確かに、と俺は思う。  俺は、「はい」と頷く。  河瀬さんが立ち上がる。 「じゃあ、行こうか」  そう言うと俺に、「おいで」と言って河瀬さんは廊下を進む。  俺は黙って河瀬さんの後に続いた。  河瀬さんに導かれ、俺はリビングダイニングに入った。  この前見た通り、本で囲まれたそこは緊張していた俺を幾分か落ち着いた気分にさせた。  河瀬さんは部屋の真ん中のテーブルとソファーのスペースまで行くと、「どうぞ、ソファーに」と言って俺に座る事を進める。  俺がソファーに落ち着くと「少し待ってて」と言って河瀬さんはリビングダイニングから消えた。  俺はテーブルに置いてある読みかけであろう小説を見つめながら河瀬さんを待った。  小説は伏せて置いてあって、英語で本のタイトルと著者名が書かれていた。  俺は英語が全くなのでどんなタイトルなのか、どんな人物が書いたものなのかも分からなかったが、かろうじてタイトルの一部がレモンである事は分った。  レモンが出て来る小説の内容を想像しているうちに口の中いっぱいに酸っぱさが広がった。 「お待たせしました」  河瀬さんの声にビクリと体が反応する。  河瀬さんは透明なグラスに入った紫色の蝋燭を持っていた。  蝋燭には既に火がついていてその火がゆらゆらと揺れている。  蝋燭から香る匂いか、ラベンダーの匂いが部屋に広がった。  河瀬さんは蝋燭をテーブルに置くと「部屋の明りを消してもいいかな?」と俺に訊ねた。  俺は、コクリと頷いた。  河瀬さんも頷き、リビングダイニングの入り口まで移動すると電気のスイッチを押した。  カチリと言う音がした後、部屋の電気が消える。  部屋は蝋燭の光りとカーテンから漏れる月明かりだけの光りで照らされた。  小さな、小さな、頼りない明かり。 「ごめんね。あんまり明るいのはダメなんだ」と河瀬さんは言う。  それがどういう意味か分からなかったが俺は兎に角頷いた。  河瀬さんが俺の側まで来る。  俺の体は自然と固くなっていた。 「えーっと、取り敢えず先に僕の口の中を見てみて」  そう言って河瀬さんは、あんぐりと口を開く。  俺は戸惑いながらも河瀬さんの口の中を覗いた。  蝋燭の光りだけではよく見えなかったが、綺麗な口の中だな、と思った。  虫歯の後も見えないし。  しばらくの間、俺は黙って河瀬さんの口の中を見ていた。  吸い込まれそうだな。  何て思ってみたり。  河瀬さんが口を閉じた。  俺は咄嗟に河瀬さんの口の中を見る為に近づき過ぎていた顔を逸らす。 「どうだった?」と河瀬さん。 「えっ……いや、綺麗でした」と俺。  河瀬さんは笑って、「そうじゃ無くて、変な所は無かったかって」と言う。  俺は恥ずかしくなって、「べ、別に、無いです」と小さく答える。  本当に、綺麗な事以外におかしな所なんて無かった。 「じゃあ、今度は……」  河瀬さんが眼鏡を外すと、左目の眼帯に手を掛けた。  河瀬さんがゆっくりと眼帯を外していく。  俺は思わず唾を飲み込む。  俺の視線が河瀬さんの左目に釘付けになる。  河瀬さんの左目は閉じられていた。  河瀬さんが、これまたゆっくりと左目を開ける。 「あっ」  思わず声が出た。  河瀬さんの左目の色は金色だった。  しかも、蝋燭の灯りを反射するように光っている。  まるで猫の目の様に。  右目は鳶色であるのに……。 「左目には光は眩し過ぎて。だから、蝋燭の明かりだけにしたんです」 「はぁ……」俺はそう言うだけで精一杯だった。  月明かりが漏れる中、金色の目を輝かせる河瀬さんは実に妖しく、そしてとびきり美しい。  河瀬さんから目が離せない。 「次に、一ノ瀬君、また僕の口の中を見てみて下さい」  河瀬さんが再び口を開く。  俺は言われるまま、河瀬さんに操られるかの様にその指示に従った。  大きく口を開けた河瀬さんの口の中を目を凝らして見る。  すると、どうだろう。  河瀬さんの口の端くらいの位置にある上の歯に左右一本ずつ、鋭く尖った歯があった。  まるで猛獣の牙を思わせるそれは、さっき河瀬さんの口の中を見た時には存在していなかった……はずだ。 「何がどうなって……」  まるで、種も仕掛けもありません、と宣言されてから見せられる手品の様な展開。  気が付けば、俺の背中は冷や汗で濡れていた。  河瀬さんは口を閉じると「今度は、どうでした?」と言う。 「どうって……そのっ……」  訳が分からない。  俺が見たのは幻だろうか。 「は……歯が。河瀬さんの……歯が……」  紡げない言葉。  俺は確実に動揺している。  そんな俺に河瀬さんは溶けてしまいそうになる優しい笑顔で言う。 「この牙は、眼帯を外して金の目が出ると出て来るんです。僕達吸血鬼は眼帯などで吸血鬼の証である金の片目を隠して人間に擬態して暮らしているんです。こうして、金の目を表せば血を吸う為の牙が生えてきます。金の目を隠せば、牙は縮んで、普通の人間の歯の様になります」 「あっ……吸血鬼って、ほ、本当にっ……」 「本当です。一ノ瀬君、僕が怖いですか?」  怖い……。  とは全然思わない。  むしろ、人外然として存在する河瀬さんは妖艶だ。  ああ、何て美しいんだ。 「怖くないです。むしろ好みです」  はっきりと俺は言う。  河瀬さんが反対側のソファーにもたれかかった。 「よ、良かったぁ」  河瀬さんの体からは力が抜けきっている様で、だらんとソファーに身を預けている。  心底安心している、と言う風だ。  河瀬さんは今にも泣き出しそうな顔をしている。  俺の胸がドキリと音を鳴らす。 「河瀬さん。俺の血を吸って下さい」  河瀬さんの目を見つめながら俺は言う。  河瀬さんは驚きを顔に表していた。 「一ノ瀬君。ほ、本気で?」 「はい」  俺は大きく頷いた。

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