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第25話 隣人の笑顔の魔法、尊し

 寝室を出て河瀬さんと時間を確認すると結構早い時間に俺達は目を覚ました事が分った。  取り敢えず、大学を遅刻する心配は無くなった訳だ。 「せっかくだから朝食、一緒にどうですか?」  そう河瀬さんに誘われた俺は嬉しくて、直ぐに頷いたのだった。  俺はゴミ出しの為にいったん自分の部屋に帰った。  そして電気の付けていない薄暗い部屋の中でゴミをかき集めてゴミ袋に詰め込む作業をした。  一人暮らしをするからには部屋はいつも綺麗にしよう、と誓ったはずなのにそんな誓いは三日で破られた。  テーブルの上や床に散らかったスケッチの失敗作を丸めて拾い集める作業は日課と言っても大げさでは無い。  こうしたごくごく普通の日常的な作業をしていると非日常の方へと意識が飛んでしまう。  河瀬さんと一緒に寝たという俺にとっては恥ずかしい事実による衝撃は河瀬さんの抱き枕発言で吹き飛んだ。  しかし、今度は夜の河瀬さんとの吸血行為の事を考えて、頭が熱を発してしまう。  吸血ってやっぱりエロいよな。  何か、俺、河瀬さんの前でどうしようもない姿をさらけ出してしまった。  気持ち良くて、それでその気持ち良さをもっと追い掛けてしまう自分を卑しく感じる。  河瀬さんにしてみれば血を吸う事は生きて行くうえで必要な行為で、きっと河瀬さんの方にはエロい気持ち何て一ミリもないはずなのに。  俺だけ異次元にいるみたいだ。 「はぁっ……」とため息。  のろのろとゴミ出しへと向かう。  ゴミ袋を持って再び外へ出ると空が少しだけ明るくなっていた。 「あ、秋君」  俺と同じくゴミ出しに向かう河瀬さんと鉢合わせた。 「あ、どうも……」何て素っ気ない感じの言葉を出してしまう。  俺の態度を河瀬さんは気にしなかった。  気にならなかった、と言った方が正解なのかも知れない。  俺はにこにこ顔の河瀬さんと並んでアパートの外階段を下りた。 「ゴミ出ししたら、朝ごはん作るから。秋君、着替えを済ませたら家に来てくれて良いから」  俺の姿を見て河瀬さんが言う。  シャワーなんか浴びた記憶が無い俺は着替えもしていない。  俺はうん、と頷いた。  河瀬さんの為に必要だから、という最もな理由をかかげて俺は実は血を吸われる時の快感を求めていやしないだろうか。  善意を装ってあの気持ち良さを手に入れようとしているんじゃないのか。  河瀬さんが真横にいるのにそんな事を考える。  ゴミ置き場には、まだゴミは置かれていない。  業者の手によって掃除されているゴミ置き場はまっさらだった。 「一番乗りですね」と河瀬さんは嬉しそうに言う。 「はい……」 「秋君」 「はい」 「ありがとう」 「…………」 「秋君のお陰でまた元気をもらえたよ。血なんか吸われて嫌だろうに。本当にありがとうござしました」 「…………」  何も言わず。  俺は頷く。  この人の優しさが雨みたいに心の底に染みて。  ありがたくて。  俺は涙を堪えた。  自分の部屋でシャワーを浴びた。  鏡に映る自分の姿をジッと見た。  河瀬さんの噛み跡が二つ。  一つは新しい。  噛み跡を見ているうちに河瀬さんに血を吸われている時の記憶が頭をかすめて、それを頭を振って打ち消した。  着替えて歯磨きをした。  大学へ行く支度を済ませて河瀬さんの部屋へ。  河瀬さんの部屋で朝ご飯を頂いた。  目玉焼きにソーセージ。  ポタージュスープにサラダ。  そしてこんがり焼いた食パンにバターを塗って。  河瀬さんの分はスープだけだった。  まだ朝食をちゃんと食べられるほど食欲が回復していない、という事だった。 「でも、秋君が血をくれたから、今朝は気分が良いです」と河瀬さんは言う。  俺の血が少しでも河瀬さんの元気の素になれば良い。  俺はお腹一杯河瀬さんの手料理を食べた。   沢山食べて、健康を維持して河瀬さんに血をもっと取ってもらいたいから。  河瀬さんの元気の為に。  河瀬さんに生きていてもらう為に。  その為に俺は河瀬さんに血をあげてるんだ。  そう強く思う。  絶対に自分の気持ち良さの為じゃない。  と信じたかった。  食事を終えた俺はしばらく河瀬さんの部屋でまったりと二人で話をした。  話題は本の事。  本の話は凄く楽しい。  河瀬さんは俺がまだ読んだ事の無い小説のストーリーや写真集の内容を実に楽しそうに語る。  河瀬さんは本当に本が好きなんだな。  河瀬さんが色々な雲を撮った写真集を広げて見せてくれた。 「自然が好きなんです」と言う河瀬さんの顔は綻んでいた。  その表情が凄く良い。  河瀬さんの色んな表情を絵に描いて、それこそ画集みたいに出来たら良いのにと思う。  そのアイディアが凄く気に入り、俺は河瀬さんの顔を盗み見ては、この表情良いな、と心の中の写真集のページを河瀬さんで埋めて行った。  二人の朝の時間は、そうしている間にあっという間に過ぎた。  若干の物足りなさを感じる。  もっと一緒にいれたら良いのに。 「じゃあ、行って来ます」 「行ってらっしゃい」  河瀬さんの笑顔に見送られて俺は河瀬さんの部屋から大学へ向った。  河瀬さんが笑ってくれた事が何だかとても嬉しくて。  はにかんでいる自分に気が付いた。  ああ、俺は今、本当に幸せなんだ。  今日の大学の授業は上の空。  ずっと河瀬さんの事を考えていた。  頭の中に色んな河瀬さんが浮かぶ。  俺を抱きしめて眠る河瀬さんの寝顔。  本の話をする時の少し蒸気した河瀬さんの肌。  話をしている時、時々、手の甲を撫でるのは河瀬さんの癖だろうか。  広い教室。  教室の真ん中に置かれた手の形の石膏像。  窓の外には青。  何人もの学生が輪を作り椅子に座りキャンバスに向かう。  その中に混じり、複雑な指の形を作っている石膏像のクロッキーをしながら河瀬さんを思い、描いた絵は何処かしなやかに仕上がった。  河瀬さんに似た手だな、と思う。  ごつごつした男の手の石膏像の形とは似ても似つかなかった。

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