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第27話 これがアオハルでしょうか?
アルバイトの採用は呆気なく決まった。
もっと色々訊かれるかと思い、事前に面接の練習をして来た自分は何だったのか。
面接後はマスーから自給の話や勤務時間についての話を淡々と聞かされて頷く、という行為が続いた。
俺は来週の土曜日からシュメッタリンで働く事に決まった。
「あの、頑張りますから」
決まりきった台詞を言う俺。
「ああ、頼む」とマスター。
「それにしても、あいつも何のつもりで君なんかに手を出したんだろうな」
マスターはしげしげと俺を見て言う。
いや、河瀬さんが手を出したんじゃ無くて俺の方から手を出す様にお願いしたんですけど、とは言えない。
そういう事を言うには俺はまだ子供過ぎるのかも知れない。
もっと大人にならないと。
「まあ、あいつが生きる気になってくれたんなら良かったよ」
マスターの台詞に、えっ、と思った。
「あの、河瀬さんって本当に消えちゃう気でいたんですか?」
俺の質問にマスターは苦い顔をすると、「あいつ、そんな事まで君に話したのか。そんな事は俺に訊かなくて良い事だ」と言って舌打ちをした。
俺は不機嫌なマスターに降参して大人しく、「はい」と言った。
「俺とあいつとは付き合いが長くてな。ここ、日本にも俺とあいつ、二人で来たんだ。随分昔に。あいつと一緒に暮した事もある。此処の二階が住居スペースになってるからそこで。その頃は店の両隣りは和菓子屋と呉服屋だったが、いつの間にか不愉快なビルが建っちまった」
マスターは腹立たしそうにため息をする。
そのため息から微かにタバコの匂いがした。
河瀬さんが誰かと一緒に暮していた、と言う事実は俺に多少なりともショックを与えた。
どうしてショックを感じたのかは不明。
しかし、マスターが河瀬さんと一緒に暮していたなら、もしかしたらマスターに河瀬さんの事を色々聞けるかも知れない。
そう思うと気持ちが上がった。
「じゃあ、今日はここまでだ。正式な契約書とかは次来た時に渡すから」とマスター。
契約書。
アルバイトの。
俺、遂に生まれて初めて仕事をするんだな。
今更ながら、じんわり来た。
俺が仕事をする日が来る何て。
家族全員が信じられないと言うだろう。
遠くにいる家族を思うと、何だか込み上げてくるものがある。
俺は今、間違い無く感動している。
ちょっと誤魔化し様が無い涙が湧いて来た。
「おいおい。こんな事で泣いてちゃ、毎日泣かなくちゃならんぞ」
呆れた様な声を出しながらもマスターは力強く俺の肩を叩くのだった。
面接の帰り道。
緊張していた事からの疲れがどっと押し寄せた。
猫背になりながら俺は帰り道を歩いた。
俺、アルバイトの面接に合格したんだよな。
と、曖昧な実感を噛みしめる。
俺の手は、パンツのポケットのスマートフォンに伸びた。
河瀬さんに電話する。
微妙な時間だ。
河瀬さんは電話に出るのか。
数秒後。
「はい」と言う河瀬さんの声がスマートフォンのスピーカーから響いた。
何だか久しぶりに河瀬さんの声を聞いた様な錯覚に陥る。
「もしもし」と河瀬さん。
俺は、慌てて、「もしもし」と告げた。
「秋君、面接、終わったの?」
「はい」
「…………」
河瀬さんは言葉を続けない。
でも、河瀬さんが訊きたがっている事は何なのか分かる。
「面接、受かりました。来週から、バイトしますから」と俺は告げる。
河瀬さんが息を呑んだのが分かる。
それから、ふっ、と気が抜けたのも。
「秋君、おめでとう。秋君ならきっと大丈夫だと思ってたよ」
「ありがとうございます。全部河瀬さんのお陰です」
「そんな事ないさ。彼は気に入った者しか側に置かないから。だから、全部、秋君の実力だよ」と河瀬さんは話してくれた。
「そうだとしても、紹介してくれたのは河瀬だから。本当にありがとうございました」
俺は電話越しだというのに頭を下げた。
「そんな事……。あ、今日、秋君のアルバイト決まった事、お祝いしなきゃ。ご馳走作りますから」
「あ、ありがとうございます」
アルバイトが決まったくらいでお祝いしてもらっていいのかな。
「お祝いの買物、一緒に行こうか?」
「はい!」
ああ。
空は澄み渡っている。
六月。
俺は大学に休日はアルバイトと忙しく動き回っていた。
アルバイト先のシュメッタリンのマスターは無愛想で人付き合いが悪い。
それでもシュメッタリンには一定のお客が来る。
理由は多分、マスターの入れるコーヒーだと思われる。
店の看板であるコーヒーの味をちゃんと知っておくように、とマスターに言われて飲んでみたコーヒーは香りが非常に良くて、味が繊細だった。
芸術品、と言っても大げさでは無い様に思えるほどに素晴らしい味なのだ。
一度飲んだら病みつきになる。
お陰で俺は週一で客としてシュメッタリンに通い、コーヒーを味わっている。
河瀬さんとは……五月と六月の初めに、三回、吸血行為をした。
河瀬さんが、元気がなさそうだとつい、誘ってしまう。
俺の血を吸ってって。
河瀬さんの方から血を欲しがることは全く無いから逆に心配になってしまって、つい言ってしまうのだ。
たいていの場合は、やんわりと断られる。
「大丈夫ですから。僕は元気だよ」って、溶けそうな笑みを浮かべて。
そうされると、もう「分かりました」と言うしかない感じなのだか、流石に、ふらつかれたり、食欲が非常に無さげだと強引に攻めてしまう。
このままだと河瀬さんが死んでしまうのではないか、という所まで想像力が働いて、どうしても泣き出してしまう。
そうなると、河瀬さんの方も「分かりました」と言って血を吸ってくれるのだ。
でも、やっぱり少しだけで。
こんなんで河瀬さんは本当に元気になってくれるのかと疑いたくなる。
もっとちゃんと俺の血を吸ってくれて良いのに。
そんな事を思いながら、現在、俺は河瀬さんに吸血されている。
場所が問題だった。
何でこうなったのかは分からない。
俺は、河瀬さんの部屋のキッチンでシンクの縁に手をつきながら河瀬さんに血を吸われていた。
電気を落としたキッチンはポトフを煮ている鍋が掛けられたコンロの火で微妙に照らされていた。
俺達はさっきまで二人で一緒にポトフを作っていたのだ。
それなのに。
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