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第33話 命短し恋せよ男子
六月も終わりという頃。
俺は悩んでいた。
俺が現在悩む事と言ったら河瀬さんの事だ。
俺がポトフを前に河瀬さんの前で痴態を演じてしまったあの日から、河瀬さんとの吸血行為が全くない。
原因は俺にある事は明白である。
河瀬さんは自分から血を吸わせて欲しいとは絶対に言わない。
だから、何も無い。
俺が、どうも気まずくて河瀬さんを誘えないのだ。
俺の血を吸って、の一言で済む話なのに。
そろそろ血を吸ってもらわないと河瀬さんの体がもたないのではないかと心配でたまらない。
実に悩ましい。
それと、もう一つ。
俺は最近非常にイライラしていた。
これも河瀬さん絡みの事だ。
イライラの理由は分かっている。
朝のごみ出しの時によく会う、アパートの住人のあの女だ。
あの女のせいで俺のイライラはゴミ出しの度に続いている。
彼女はあろう事か河瀬さんに気があるらしい。
見ていたら分る。
それを彼女は隠そうともしないからだ。
河瀬さんに話しかける時に出す甘えた声。
仕草。
そのゴミ出しの場に俺もいるのだが、俺と河瀬さんでは態度が全く違う。
兎に角、河瀬さんには砂糖菓子みたいに甘く接しているのだ。
今日の朝なんて会話のついでに河瀬さんの腕に自分の腕を絡ませたりなんかしていた。
俺は目を疑ったものだ。
彼女はいつも胸の空いた服で登場するのだが、まるで女の武器を河瀬さんに見せ付けているかの様で非常に腹立たしい。
河瀬さんはと言うと、そんな彼女にも笑顔で応じているのだった。
河瀬さんの笑顔が自分以外の者に向けられている。
それがどうにも腹が立つ。
吸血行為のせいなのか毎夜河瀬さんを思って悶々とする日々。
ああ、河瀬さん。
もうどうしようもないのである。
時は大学の休み時間。
俺は大学でまだ友達が出来ていないので外の広場で一人昼飯を食べていた。
今日は快晴。
晴れの日は必ず外で昼飯を食べる様にしていたのだが、最近妙に外が暑くて、外で食べるのも限界がある。
俺も食堂デビューしなければならないのか。
食堂には一度、顔を出した事はある。
しかし、食堂を埋め尽くすリア充の群れを目の当りにして回れ右してしまったのだった。
ああ、無常。
俺の昼飯は河瀬さんの手作り弁当だった。
最近、河瀬さんが弁当を作って持たせてくれているのだ。
凄く嬉しい。
あのゴミ出しの女はこうはいくまい。
勝った。
俺は鼻で笑う。
今日の河瀬さんの弁当は唐揚げの入ったのり弁。
俺は非常にのり弁が好きだ。
中学、高校と、母に弁当を作ってもらっていたが、のり弁じゃ無い日は凄く落ち込んだものだ。
河瀬さんが作る弁当を詰める弁当箱は大きくて、俺には量が多すぎる。
でも、河瀬さんの愛情が入っているんだと思うと無理なく完食できてしまうから不思議だ。
河瀬さんと前日、のり弁が好きだ、という会話をしていて、それからののり弁が実に嬉しい。
ああ、河瀬さん。
隣は何をする人ぞ。
河瀬さんを思いながら夢中で弁当を食べている間に、気が付けば隣のベンチに三人の女子達が座っていた。
彼女達の話しが耳に入る。
どうやら、お題は恋愛について、らしい。
彼氏がどうしたの、好きな人がどうしたの、あの人がカッコイイだのと俺にはおおよそ関係無さげな会話を楽しそうに繰り広げている。
恋愛だなんて青春してるな。
そんな事を思った時。
俺はある話題を聞いて弁当を食べる箸を止める。
話題はこうだった。
片思いで悩んでいる。
話を、耳を澄ませて聞いてみる。
「私、今、片思いしてて。相手はバイト先の先輩で」
「へぇー」と後の二人が言う。
「凄い、嫉妬とかして困っちゃう。彼が他の女に笑顔を向けたりするとそれだけで許せない気持ちになる。相手の女に対しても、彼に対しても」と彼女。
俺は、あれ? と思った。
もう少し彼女の話しに耳を傾けてみる。
「夜なんて、彼の事考えて悶々としてるよ。て、言うか、毎日彼の事考えちゃう。それが凄く苦しくて」
彼女の話がまるで自分の事の様に思える。
彼女の友人達(恐らく)は語る。
「そんなに思ってる何て、よっぽど彼の事が好きなんだね」
「羨ましいわー。私もそんな恋してみたい」
はしゃぐ彼女達。
え、好き?
恋?
俺は目を点にした。
「本当にそうなのよ。大好き。あーっ、彼と付き合いたいなぁー」
大好き。
付き合いたい。
彼女が言った事を俺は反芻する。
「命短し恋せよ乙女、だね」
誰かが洒落た事を言う。
「本当だよね」と彼女。
恋。
という言葉に反応してしまう。
河瀬さんの事が俺は好きだ。
でも、恋なんて。
でも、でも、何だろう。
あ、俺、もしかして河瀬さんに……。
恋してる?
ふと思い、頭を振る。
い、いやいや。
何を。
まさか……。
思い過ごしであって欲しい。
恋なんて、そんなの知らない。
知らない方が良いと思う。
恋を知る事が何だか凄く怖い事の気がする。
不安だ。
俺は河瀬さんお手製の弁当を勢い良くかき込んだ。
頭の中に浮かんだ不安を消す為に。
大学が終り、俺は河瀬さんの部屋で小説を読みふけっていた。
知りたく無い、と思いながらも何となく気になって、恋する乙女達が書かれた物語を読んでいる。
その小説の主人公達にいちいち共感してしまう。
切ない恋心が描写されているシーンは今の俺そのものを物語っている様で……。
「うーむ」と声を漏らす。
これってやっぱり俺は……。
そう思ったタイミングで河瀬さんが現れた。
俺はドキリとしてしまう。
そして、凄く恥ずかしい様な感覚に陥る。
河瀬さんはお盆に載せたティーポットとカップを持っていた。
多分紅茶だ。
良い紅茶を手に入れた、と言っていたから。
お盆をテーブルに置き、俺に、「どうぞ」と勧める河瀬さん。
俺は遠慮なく「頂きます」をした。
「何を読んでいるの?」
ソファーに着いた河瀬さんが訊いて来る。
タイトルを言うのがはばかられた俺は、「んっ」と本の表紙を河瀬さんに見せる。
河瀬さんは、「ああ」と頷き、「それはいい本です」と言った。
続けて「秋君、誰か好きな人出来たの?」と河瀬さんは訊ねる。
俺はビクリと体を大きく動かした。
「あの……その、相手の事が好きだっていまいち実感が湧かなくて。勿論好きなんですけど、恋愛的な意味で好きかどうか疑問で。相手の事が好きってどうやって分かるんですか?」
本人を前にして大胆な質問だな、と自分でも思う。
でも、凄く知りたいと思う。
怖いけど、自分の河瀬さんに対する思いを確かめないとモヤモヤが続いてしまいそうで。
河瀬さんは俺の質問に、「うーん」と声を上げて首を傾げた。
そして、答える。
「何て言うかな。何となく、その相手の事が気になってさ、好きなのかもって気が付いた瞬間かな」
そう河瀬さんは答えた。
河瀬さんの台詞と今の自分の気持ちがリンクする。
そう感じている相手からのこの台詞はじわじわと俺の心の中に浸透した。
俺、河瀬さんの事が好きだ。
ああ。
俺って河瀬さんに恋してるかも。
そう気が付いた夜だった。
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