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第35話 天使の様な悪魔の囁きに導かれし勇者なのです
ある休日の朝。
目覚めた俺は涙を流していた。
夢を見たんだ。
河瀬さんが消えてしまう夢。
俺の目の前で河瀬さんは、さらさらと砂になって散ってしまった。
俺は夢の中で泣いた。
夢なら覚めてくれ、と思った。
やけにリアルな夢だった。
本当に。
あんな風に河瀬さんが俺の目の前から消えてしまったら。
俺は……。
俺は涙を拭い、今が何時かも確かめないで部屋を出て、河瀬さんの部屋のインターホンを鳴らした。
間が怖い。
河瀬さん……。
「……はい」
インターホンのスピーカーから河瀬さんの声がした。
よ、良かった。
生きてた。
「秋君、どうしたの? こんな早い時間に。何かあった?」
「い、いえ。ごめん。寝ぼけてたみたいで……」
無理矢理考えた言い訳。
「ふふっ。寝ぼけて僕の部屋を訪ねちゃうんですか」
河瀬さんの声は楽しそうだった。
ほっとした。
「本当にすみません。あの……」
「うん」
「あっ……じゃあ、また後で」
「え、今出るから」
「いや、あの。良いです」
まだ顔も洗っていないし髪の毛だってぼさぼさだ。
こんなんで河瀬さんに会えない。
「じゃあ、また」
本当は顔が今すぐに見たいけれど俺はそう言う。
「はい。また」
インターホンの通話が切れる音がする。
俺はしばらくその場から動けなかった。
足がガクガクして。
一歩も歩けない。
河瀬さん……。
生きてて良かった。
部屋に戻り、時間を確かめると、まだ朝の五時前だった。
こんな時間に河瀬さんの所へ行くなんて。
俺は本当に迷惑なやつだ。
もう一度眠る気にはなれず、俺は寝室のベッドの上で仰向けになって、ぼうっとした。
それで、見た夢の事を何度も思い返した。
そうしていると、俺はどんどん不安になった。
河瀬さん。
万が一、夢が現実になったなら。
河瀬さんと一生会えない。
そんなのは嫌だ。
そう思ったら俺は決断していた。
河瀬さんに絶対に血を吸ってもらう、と。
河瀬さんとの夕食後。
俺は図々しく河瀬さんちのお風呂を頂いていた。
湯舟にはミルク色の入浴剤。
河瀬さんはお肌にいい、と言って説明してくれた。
ああ。
お風呂だなんて。
また、河瀬さんに甘えてしまった。
でも。
「お風呂上がりに冷たいコーヒー牛乳用意しておきますから」
そう河瀬さんに王子笑顔で言われて遠慮する訳にはいかないじゃないか。
風呂場で一人きりになると吸血の事で身構えていた緊張が一気に解けた。
緊張が解けると頭の中に、ある問題が浮かんできた。
そう、吸血問題だ。
今日もだめだった。
河瀬さんに血を吸ってくれと言えなかった。
早く血を吸って欲しいのに、血を吸われている時の自分の事を考えると恥ずかしさが極まって誘えなくなってしまう。
そうなると、俺の頭の中で天使と悪魔がお喋りを始める。
悪魔は言う。
「恥ずかしがってる場合か。本当は河瀬に血を吸ってもらいたくてうずうずしてるんだろ。自分に正直になれよ。俺も気持ちいし、河瀬は飢えをしのげるし、一石二鳥じゃねーか」
悪魔がそう言うと天使が言う。
「いけません。あんな淫らな事。河瀬さんだって最中の俺にドン引きしているはず。これ以上痴態をさらすのですか?」
天使がそう言うと悪魔が言う。
「血を吸ってる方も興奮してるってマスターが言ってたじゃねーか。二人で気持ち良くなっちまえよ。河瀬に消えて欲しく無いんだろ。やるしかないぜ」
すると天使が、「そんな淫らな。河瀬さんは美の女神です。その河瀬さんを汚すような事をして良いんですか!」
こんな感じで頭の中がワイワイうるさい。
いっそ、河瀬さんの方から言ってくれたら、と思う。
俺の血が吸いたい。
そう言ってくれたら、直ぐにでも許すのに。
河瀬さんから誘ってもらう。
何だか良いアイディアではなかろうか。
でも、どうする。
どうやったら河瀬さんは俺の血を吸ってくれる気になるんだ。
俺は考えた。
考える。
考える。
考える事、一時間。
何にも思い浮かばない。
「だ、ダメだ」
此処はお知恵拝借だ。
俺は音楽を聴くために持ち込んだジッパーに入ったスマートフォンを手に取ると、ネットで、好きな人、誘い方、で検索をしてみた。
出て来る、出て来る。
好きな人のデートの誘い方……いや、これは違う。
好きな人をその気にさせるテクニック……これか?
俺は息を呑んで好きな人をその気にさせるテクニックを閲覧した。
いつもと違う雰囲気を演出してみる。
彼の部屋にセーラー服姿でお邪魔すれば彼もその気に……なるほど、出来ない。
お酒の勢いで彼に甘えてみる……未成年ですが。
積極的に彼にボディタッチ。
彼を興奮させてあげよう……か、河瀬さんに触れる?
無理だ。
神聖な河瀬さんに触れるなんて絶対に無理だ。
「はぁっ……」
誘ってもらうってやっぱり俺にはハードルが高いな。
俺は河瀬さんの顔を思い浮かべた。
さっきっ話したばかりなのに、もう、直ぐに会いたい。
最近バテ気味の河瀬さん。
夏の暑さはじわじわと河瀬さんの体力を奪っていく様で。
こんなの、真夏になったら河瀬さんはどうなってしまうんだろうか。
河瀬さんに早く元気になってもらう為に吸血してもらおう、と心に強く誓った俺。
なのに、全然ダメだ。
「俺の方から誘うしかないぜ。男を見せろ!」と悪魔の強気な囁きが聞こえた気がした。
男を見せる。
そうかも知れない。
俺も男だ。
男らしく。
そうだ。
やってやる。
河瀬さんに男を見せてやる。
上がるテンション。
「いけません。河瀬さんに破廉恥なヤツだと思われますよ」
慌てふためく天使。
うるさい。
俺は男になるんだ。
天使の声を蹴散らしてしまうと、俺はもう、今日にでも河瀬さんに血を吸ってもらおうと決心した。
俺は男だ。
ミッションを必ず成功させてやる。
俺はガッツポーズを取った。
全裸でガッツポーズをしたのはこれが生まれて初めての事だ。
「秋君、大丈夫ですか?」
ガッツポーズの途中で河瀬さんから声がかかる。
俺は勢いよく湯舟に沈んだ。
「だだだっ、大丈夫です!」
風呂場の扉に向かって叫ぶ。
「随分とゆっくりだったからのぼせてるんじゃないかなって心配で」と河瀬さん。
「大丈夫です。直ぐ出ますから!」
「……分かりました」
河瀬さんの気配が消えた。
やれやれだ。
と、兎に角、風呂から出たら河瀬さんを誘う。
俺の血を吸って下さい、と言ってやる。
またしてもガッツポーズを取る俺だった。
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