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第36話 大人の男が酔う時
河瀬さんに今日は絶対に血を吸ってもらう。
俺は気合を入れて体を清めた。
河瀬さんに汚い何かに食いついて欲しくないから、そりゃもう、必死で、いかにも高級そうなボディソープで磨きをかけた。
髪もバッチリと二回洗った。
準備は万端だ。
「お風呂先に頂いてすんません」
そう言いながら、タオルで頭を拭き、俺はリビングダイニングへと足を踏み入れた。
河瀬さんはソファーに座っていた。
俺からは河瀬さんの背中が見えた。
河瀬さんが振り返る。
「ああ、秋君。大丈夫? のぼせてない?」
そう言った河瀬さんの顔を見て絶句する。
河瀬さんは物凄く色っぽかった。
目はとろりとしていて、白い肌が紅色に染まっていた。
河瀬さんからはムンムンと大人の男の色気が放たれている。
俺は息を呑む。
俺の心臓はいきなりの刺激に大ダメージだ。
「秋君、どうしたんですか?」
キョトンとしている河瀬さんは可愛い。
俺はどぎまぎとしながら、「どうもしないです」と言うのが精いっぱいだ。
「今、ワイン飲んでて」と河瀬さん。
「ワインですか?」
「うん。赤ワイン。本当はお酒には弱いんだけど、何だか飲みたくなっちゃって」
「そ、そうなんですか」
「うん。ちょっと酔っちゃったかな。あ、今秋君のコーヒー牛乳持って来るからソファーに座って待ってて」
「はい」
立ち上がる河瀬さんとソファーに座る俺。
「直ぐ戻るからね」
そう言って河瀬さんがいなくなると俺は思いっ切りため息を吐きだした。
河瀬さん、酔うとあんなになるんだ。
あんなとろとろな河瀬さん見た事無かった。
何だか体の芯がムズムズする様で、それをおさめるのに必死だ。
「秋君」
声をかけられてビクリとする。
「は、はい」
つい上ずった声が出てしまう。
俺の動揺何か知ったこっちゃない河瀬さんは呑気に、「コーヒー牛乳、持ってきたから」と言ってパックの空いた口にストローを刺し込んだ物をテーブルに置く。
「ありがとうございます」
俺がそう言うと、紅色の顔で河瀬さんが、「どういたしまして」と微笑んだ。
や、やばい。
そんな風に笑わないで欲しい。
何だかおかしくなりそうだ。
俺は出来るだけ河瀬さんと目を合わせない様にしてコーヒー牛乳をストローで飲んだ。
風呂上がりのコーヒー牛乳はすこぶる美味かった。
冷たいコーヒー牛乳は俺の熱を少しだけ冷ましてくれた。
俺がこうしてコーヒー牛乳をちびりちびり飲んでいるうちにも河瀬さんはワインを嗜んでいる。
「お酒、弱いのにそんなに飲んで大丈夫何ですか?」
心配でそう声をかけてみた。
河瀬さんは手のひらをゆらりと振りながら、「ん、大丈夫れすよ」と答えた。
そうかな。
大分顔も赤いし、ろれつが回って無い様な気がするんだが。
まあ、河瀬さんも大人なんだ。
自分のお酒の量くらい分かっているよな。
俺達はそれぞれ、コーヒー牛乳、ワインを飲みながら無言でくつろいだ。
俺は頭の中で、いつ河瀬さんに血を吸って欲しいとお願いするか考えていた。
河瀬さんが風呂に入った後がいいかな。
でも、河瀬さんが風呂から出て来る間に俺の勇気がしぼんでしまっていたらどうしよう。
ああ、悩ましい。
「んっ……何だか熱いれすね」と、河瀬さん。
河瀬さん、またろれつが回って無い。
か、可愛いです。
河瀬さん。
「あー、俺は風呂上がりなんで熱いです」
いつもと違う河瀬さんにドキドキしながら俺は言う。
「はっ……んんっ……」
河瀬さんが怠そうに声を上げて着ている白いシャツのボタンに手をかける。
俺は目を疑う。
河瀬さんは夏だというのにまだ長袖を着ている。
その長袖のシャツの前がはだかれていく。
ゆっくりと。
一つ一つ。
ボタンが外れていく。
河瀬さんの鎖骨が露になった。
綺麗なラインを描いた鎖骨。
俺の体温が上がる。
「かかかかっ、河瀬っ!」
焦って声をかける。
「はい?」と河瀬さんが返事をする。
「ボタン、あんまり外すと寒くなるから」と俺。
「でも、熱いんです。凄く」
駄々っ子の様に河瀬さんは言う。
「熱くても我慢して下さい」
真面目に俺は言った。
そうしてくれないと、俺の方が何だか堪らなく熱くなってしまう。
「仕方ないですね」
河瀬さんはボタンを外す手を止めた。
そうして、またワインに口を付ける。
もう、ワインを飲むのを止めた方が良いのではないだろうか。
このまま河瀬さんが底なしに乱れてしまいそうで何だか怖い。
俺は悶々としながらコーヒー牛乳をストローで啜った。
何だかコーヒー牛乳が非常に苦く感じるのは気のせいだろうか。
「秋君」
急に呼ばれて、「はえっ?」と気の抜けた声を出してしまう。
河瀬さんはその事は気にせずに、「あの、渡したい物があって」と話す。
俺に渡したい物。
何だろう。
その疑問は直ぐに解けた。
河瀬さんが銀色に輝く鍵を俺に差し出す。
俺は何が何だかで無言でいた。
「それ、僕の部屋の合鍵です。秋君に持っていて欲しくて」
「え」
俺は驚きの声を上げる。
「迷惑かな?」
不安混じりの河瀬さんの声。
「そんな事!」
そんな事無い。
河瀬さんの部屋の合鍵を貰える何て思ってもみなかった。
ただ、ただ驚いた。
「嬉しいです。こんな……」
嬉しい気持ちをどうやって表現すればいいんだろう。
分からない。
「秋君、最近凄く僕の部屋の本を読んでいるから、合鍵渡せば秋君が自由に本を読めると思って。余計な事だったら申し訳無いんですけど……」
「余計な事何てそんな事無いです! 凄く、凄く嬉しいです!」
思いっきり気持ちをぶつけた。
河瀬さんはほんわかと笑い、「んっ、良かった」と満足そうに言う。
「あの、河瀬っ。何でですか?」
「何でって何が? あ、合鍵の事ならさっき……」
「違います。何で俺にそんな風に優しくしてくれるのかなって……」
それはずっと気になっていた事だ。
初めて会った時から河瀬さんは俺に優しかった。
他人なのに。
どうしてこんなに俺に優しくしてくれるのか。
どうして俺に関わってくれるのか。
ずっと気になっていたんだ。
河瀬さんは目を伏せて、照れくさそうな顔をする。
赤らんだ顔でそんな風にされると、またドキドキしてしまう。
「いやね。秋君が、何て言うか……一生懸命だったから」
「一生懸命?」
「はい。僕、好き何です。一生懸命に生きてる人間が」
「あ、ありがとうございます」
一生懸命。
河瀬さんの言う通り、俺はここに来てから毎日一生懸命だった。
大学にアルバイト。
慣れない街。
ついて行こうと必死で。
もがいて。
それを、河瀬さんが見てくれていた。
その事が凄く嬉しい。
俺の目から自然に涙が零れる。
ここに来てからどうしてだろう。
涙せんが弱い。
「秋君、大丈夫? 僕、嫌な事言っちゃったかな? ごめんね」
慌てる河瀬さん。
俺も慌てて、「ち、違うんです」と言う。
河瀬さんは首を少し傾げた。
「違うんです。俺、嬉しくて……ありがとうございます……ううっ」
鼻水まで垂らして。
俺はみっともない。
こんな姿は見られたくない。
「秋君!」
河瀬さんが動いた。
一瞬の出来事だった。
俺は河瀬さんに抱きしめられていた。
俺の息が止まる。
心臓が痛いくらいにドキドキしている。
「か……わせっ……」
強く抱きしめられて苦しい。
「秋君、泣かないで。秋君が泣くと悲しいです」
切なげな声。
「河瀬……さん……」
河瀬さんの体温を感じる。
河瀬さんの心臓のドキドキも。
ああ。
心臓を乱しているのは俺だけじゃ無いんだ。
「秋君……甘い香りがします。秋君の血の香り」
河瀬さんの方こそ甘い香りがする。
甘くて。
甘くて。
酔いそうな香り。
「秋君」
河瀬さんの俺を抱きしめる力が強まる。
ああ。
このままでいたい。
ずっと。
ずっと。
永遠に。
ドキ。
ドキ。
ドキ。
二人の心臓の音。
「河瀬っ……俺の血を吸って」
当たり前の事を言う様に俺はそう言っていた。
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