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第43話 宵待ち草を踏む

 気が付けば、俺はシュメッタリンの前にいた。  古びたシュメッタリンの姿を黙って見つめる。  そうしているうちに思い出す。  マスターが河瀬さんの古くからの知り合いだって事を。  マスターなら河瀬さんの行く先を知っているかも知れない。  俺はもう直ぐクローズ前のシュメッタリンの扉を開いた。  チリン、と軽快に鳴るドアベルの音。  見渡すと店に客はいなかった。  カウンターにマスターがいる。  マスターはウイスキーを瓶のまま飲んでいた。  マスターはウイスキーの瓶から口を離すと「鼠が来たな」と俺に向かって言う。  何の事か分からずに「鼠?」と訊ねると「濡れ鼠だ、キッド」とマスターは言った。 「突然、雨に降られたんで」  そう俺は言う。  マスターはカウンターから動かずに、「どうした?」と俺に訊ねた。  俺は、言葉を探す。 「酷い顔をしているな」  そうマスターは言う。  マスターの顔は俺を傷んでいる、と言う風だった。 「河瀬さんがいなくなったんです」  そう言葉に出すと俺の口から次から次へと言葉が溢れた。  河瀬さんが、ごめん、と言うメモを残して姿を消した事。  河瀬さんと連絡が取れない事。  河瀬さんを探してずっと街を彷徨った事。  マスターは俺の話を聞き終えると、「ああ」と声を漏らした。 「いつかそんな日が来るんじゃ無いかと思ってた」とマスター。  俺は黙ってマスターの言葉の続きを待つ。 「あいつは多分、此処……日本に死にに来たんだ。死に場所を求めて……。きっと、ずっと前から決めていたんだ。その時が、来たんだよ」  その台詞に驚く。 「あいつは吸血鬼である自分を嫌ってた。日本に行く、とあいつが話した時、きっとそこで最後にするつもりなんだろうと俺は悟った。死ぬのはあいつの自由だ。俺は止めようとは思わない。骨でも拾ってやる気持ちで一緒に日本に来た」  そう告げた後、マスターはウイスキーを一口飲んだ。 「河瀬さんが今どこにいるのか、心当たりはありませんか?」  そう訊ねると、マスターは頭を捻り「海かな」と答える。 「あいつは事の他、海が好きだ」とマスター。  マスターの話を聞いて俺は直ぐに店を出ようとする。  でも、マスターに止められた。  俺はマスターに「海に行かなきゃ」と必死で訴えた。  マスターはそんな俺に「日本の海は広い。それに君は疲れてる。首筋に血を吸われた跡が残ってる。その様子じゃあ、大分、血を吸われたんじゃあないか? それにその服……」  そう訊かれて確かに凄く血を吸われた様な気がした。  それに服。  河瀬さんが着替えさせてくれたのか俺には大き目の白いシャツを着ていた。  雨でシャツが肌にピタリとくっ付いていて見られたものではなかった。 「あいつと何があったのかは聞かない。今日はもう休め。泊めてやる」  マスターは優しい声で言った。  その優しさに俺は泣いた。  辛い気持ちが一気に溢れ出す。  もう、限界が来ていたのだ。  マスターがカウンターから出て来て俺の肩に手を置く。  それを合図に俺はその場に崩れ落ちた。  シャワーを借りて髪を乾かして。  マスターが用意してくれたサイズの合わない服に着替えて。  温かい食事をご馳走になって。  そうしている間に随分と気持ちが落ち着いて来た。 「キッド、俺もあいつを探すのを手伝ってやる。でも、これから君がちゃんと食事を取って、ちゃんと大学に行って、しっかり眠る時間を持つ事が条件だ」とマスターは言う。  マスターの顔を、俺はじっと見つめた。 「今日はもう休め」  言われて俺は、黙って頷いて用意された寝床に転がり込んだ。  マスターが協力してくれる。  その事が凄く救いになった。  一度目を瞑ると、俺は深い眠りの世界へと入って行った。 「お休み」と言うマスターの声が聞こえた気がする。  次の日も。  またその次の日も。  俺は河瀬さんを探した。  マスターの言われた通りにしっかりと食事を取り、睡眠を取り、大学へ行き。  アルバイトもしながら。  海、をキーワードにマスターのアドバイスも頼りに色んな街を彷徨う日々。  その間、何度も河瀬さんに電話をして、メールを送った。  その返事は今も無い。  八月になった。  俺は河瀬さんの留守番電話に「河瀬と育てた朝顔が咲きました。赤い朝顔」とメッセージを残す。  夏が終わり、秋が来て、また春が訪れて……それでも河瀬さんは消えたままだ。  俺は何度、河瀬さんに電話をしただろうか。  何度、留守番電話にメッセージを残したか。  何度、メールを送っただろうか。 「河瀬。俺、大学二年になりました」 「相変わらず友達が出来ないです。でも、俺の友達は河瀬だけだから大丈夫」 「こんばんは。今日はアルバイト頑張りました。河瀬は今何をしていますか?」  何回もの、返事のない、「お早う」「こんにちは」「こんばんは」を繰り返した。  河瀬さんがいない世界は色が無い。 唯一の救いは河瀬さんの部屋の家賃が支払われ続けているらしい事と河瀬さんのスマートフォンがまだ解約されていな事。 この世界の何処かで河瀬さんが生きている。 そう思うと冴えない俺の人生もマシな様に思えた。 俺は合鍵で河瀬さんの部屋に入り、河瀬さんの部屋の掃除を毎日していた。 河瀬さんがいつ帰って来ても良い様に。 季節は廻り河瀬さんと買った朝顔が咲いた日になる。 俺は今年も朝顔を買っていた。 ベランダに出た俺は直ぐに河瀬さんにメールを送った。 「河瀬。お早う。今日、俺が育てている朝顔が咲きました。去年、河瀬と育てた朝顔と同じ色の花。凄く綺麗に咲いてる。河瀬、会いたい」  メールを送信して一息つく。  今日は休日でシュメッタリンのアルバイトがある。  河瀬さんがいなくなってから日本の海を巡る為の資金集めの為にアルバイトの時間を増やした。  毎日が凄く忙しくて凄い勢いで一日が終わっていく。  俺はベランダから部屋の中に入り、テーブルの前に座る。  テーブルの上には鉛筆で描いた似顔絵が何枚も広がっている。  その似顔絵は全て河瀬さんだ。  河瀬さんの顔を忘れたくなくて河瀬さんの似顔絵を描いている。  頭の中にある河瀬さんの姿を。  何枚も。  何枚も。  毎日。  でも、出来上がった似顔絵はどれも何かが足りない気がして満足できない。  俺は目の前の似顔絵を見て、「うーん」と唸る。  その時、スマートフォンが鳴った。  電話だ。  俺はスマートフォンを見る。  電話の相手は……河瀬さんだった。

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